俺は自分の小説の登場人物を「ウチの子」とは呼ばない。

 こんばんわー、涼紀龍太朗です。先日、短編小説を完結させたので、よろしければ読んでみてください。


「あなたのためなのだから」

 https://kakuyomu.jp/works/16817330647918680876


 えー、今日はですね、随分前に……、今調べたら8月の中旬ですね、その時期にツイッターで「創作界における作者とキャラのポジション」というマンガ……というよりイラストが回ってきまして。今日はそのことについて、話したいと思います。


 先ず、その「作者とキャラのポジション」っていうのが、4タイプに分けられておりまして、以下のような感じですね。


■親タイプ

メインとなるキャラを一人創作して、その人物を中心に小説なり漫画なりを作っていく。


■クラブのママタイプ(すげえネーミングだ)

多数のキャラがいるが、年齢層は10~20代の、いわゆる若いモン。各キャラの詳細なプロフィールがあり、世界観も練っているものの、いわゆる本編は書かない。断片的なサイドストーリーのみ。あるいは設定だけ。


■映画監督タイプ

登場人物は多め。年齢層なども幅広い。ストーリーに合うよう配置された「役割としての」人物を作る。詳細なプロフィールはないらしい。そんな感じなので、当然作品はきっちり完結させる。


■箱庭タイプ

多数のキャラが存在し、世界観も練っている。但し、本編は作るものの、物語は完結しない。箱庭での物語は続いていく。小説だけ、漫画だけ、という形に捉われず、様々な形態で発表する。クラブのママと映画監督の中間的存在。


 とまあ、こんな感じだったのですが、僕は多分、映画監督タイプにかなり近いですね。今のところ完結していない作品はないですし(現在進行形で作っているものは除く)。


 ただ、割とキャラクターのプロフィールは細かく作ってるつもりなんですけど。でも、例えばクラブのママ(!)とかに比べちゃうと、全然足りないのかもしれないですね。それを考えると、クラブのママや箱庭タイプの人はどんだけ詳細なプロフィール作ってんだ、って感心するのですが。


 で、これが回ってきて思ったのは、色々と腑に落ちたということですね。


 よく、WEB小説界隈では「エタる」という現象が頻繁に起きるらしいのですが、僕それ、ちょっとよくわからなかったんですね。なんで完結させないのか、というのが不思議でしょうがなくて。


 完結させてこその物語だろう、と。完結させて初めて、言いたいことなり、この物語でやりたかったこと、描きたかったことが、ようやく提出できるわけですから。完結させない、ってことは、それができないわけですから、何のために書いてるのかわからないと思ってたんですね。


 あ、でも長期シリーズとかで、幾つか大きなエピソードがある場合は、一つの完結なのかな、って思うんですけど。


 例えば、僕の大好きな「銀魂」には色んな大きなエピソードがありますよね。「紅桜編」とか「真撰組動乱編」とか。「ワンピース」なんかは特にそうですよね。大きなエピソードの集合体で、それを更に大きな、物語の核となるエピソードが包んでいるというか。


 そういうのは、終わらなくても、ポイントポイントで完結させているから、きっちり都度都度完結させているって思うんです(「銀魂」はなんとか連載も終了できましたねw おめでとうございました!)。


 まぁ、そんな感じで「エタる」って現象が不思議でしょうがなかったんですけど、この4タイプを見ると、映画監督以外は基本的には物語は終わらない。4つ中3つが終わらないんです。各タイプの人口分布がよくわからなくはあるのですが、少なくともカテゴリだけで見ると、実に75%の作者が物語を終わらせないことになります。


 なんでかなー、と思ったのですが、多分、映画監督タイプ以外の人は、そもそも「キャラクターを作る」「世界を作る」ことそれ自体が目的なんだと思います。だから、特に物語なんて必要ない。むしろ終わりを迎えなくてはいけない物語は邪魔でしかない。


 そう、ここで大切なのは物語は「終わりを迎える」ことにあることです。なぜ、3タイプの人にとって、物語が邪魔なのか、物語が不都合なのか。それは、自分の作った、それ故愛してしまったキャラクターとお別れするのが嫌なんだと思います。だから、必ず終わりの来る物語は嫌なんですね。


 だから、物語はそもそも作らないし、書いても断片的なものしか書かない。あるいは、延々と終わらせずに続けていく。


 そういえば、気になったのは各タイプの自作キャラクターの呼び方です。回ってきたイラストの各タイプの説明には必ず「うちの子」呼びをする、しない、が書いてあります。


 もちろん、映画監督タイプ以外は全員「うちの子」と呼ぶそうです。箱庭の人は呼んだり呼ばなかったりなのだそうですが、呼ぶ人もいる、ということはまぁ、「うちの子」呼びをするカテゴリに入れても良さそうです。


 ちなみに映画監督タイプは「うちの子」と呼ぶことに違和感を感じるそう。あ、わかるぅーw ものすごい違和感を感じるw つーか、ぶっちゃけて言うと、気持ち悪いw(あ、言っちまった。まぁいいや。ホントのことだから)


 ここで、もっと突っ込んで言ってしまうと、キャラクターというのは、作者の分身だと思っています。自分の切り売りが自分の創作するキャラクターなのだと。そうでないと、キャラクターなんて作れないし、むしろ切り売りこそが創作なんだと思います。


 だから、自作のキャラクターとは、言ってしまえば、自分の分身なわけです。


 そして、自作のキャラクターを「うちの子」と呼んで溺愛する、ということは、とりもなおさずそれは、「自己愛」に他ならない。


 だから、僕は自作のキャラクターを「うちの子」呼びすることに対して気持ち悪さを感じるのでしょう。端的に言っちゃうと、ナルシストですよね。


 だけど、こうも思う。ナルシストじゃないと、基本、創作なんかやらないのではないか。


 だって、創作する、小説を書く、漫画を描く、っていうことはつまり、自分の切り売りしようとするわけで、そんな自分の切り売りを恥ずかしげもなく人に晒そうとするんだから、そりゃナルシストですよ。


 その意味では、当然僕もナルシストになるわけです。


 だから、僕はそんなナルシストに嫌悪感を感じるナルシストなわけで、自己愛と共に自己嫌悪に陥ってるわけですね。


 いや、ただ単に恥ずかしがってるだけかもしれない。


 そんな風に恥ずかしがって自分の殻に閉じこもってちゃ、良いものなんて書けるはずはない。


 よし! 俺もこれからは自作のキャラクターを「うちの子」って呼ぶゾ!


 ごめん、やっぱ無理。

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