第8話 吸血鬼、相撲を取る
ドラガと陽ノ華、五郎とつむじは皆同じ思いを抱いていた。真正面から信頼することは出来ない、その張り詰めた雰囲気を当人も感じとった様だった。
「おや、すみません。自己紹介もまだでしたね」
男の薄く開いた眼が一層薄くなり、宥めるような視線が送られる。
「僕は流しの歌うたい、詠月(えいげつ)と申します。出口を塞いで申し訳ない。どうぞこちらに」
深々と礼をし佇まいを整えた男、詠月に陽ノ華は疑いの目を強くした。
「僧衣を着ているから琵琶法師かと思ったけれど……」
「そう見てもらえると楽な時もありますからね。そちらさんだって同じようなものでしょう?」
「なっ!違うわ、私は昼巫女です!」
陽ノ華は思わず言い返す。巫女の姿をしているからと、旅の援助を強請る輩もいるのは知っているし、己の振る舞いがそう取られないよう心掛けているが、そう真っ向から決めつけられると心外極まりない。
詠月は眉尻を下げ慌てて謝罪した。
「それは申し訳ない。いかんせん、貴女のお連れがなんというか……旅芸人のようでして」
そう言われて振り返ると踏ん反り返るドラガと真似するつむじが真っ先に目に入り、とりあえず見なかったことにした。その間も歩みを止めることなく、詠月の近くまで一行は進み洞窟の出口に辿り着いた。
「うわぁ!でっかい!」
「これはすごい、とても美しい湖だ……!」
つむじと五郎が感嘆の声を上げる。
うろの村から続く滝の裏の洞窟、そこを抜けると海と見間違えるほどの湖沼が広がっていた。
湖面は陽光を反射してきらきらと光が散り、濁りが全くない澄んだ水は魚の姿をはっきりと捉え、水面に咲く蓮や河骨が差し色のように目立っていた。
目を奪う、まさにそう言ってもいい。絵の心得があれば誰もが筆を取りたくなるほどの美しい湖に一同は釘付けになっていた。
「うんうん、わかります。澄んだ空気と水そして彩る花々の可憐なことから、この湖は誰が呼んだか玻璃ノ湖、もとい……」
ざばん
「河童の住む湖であります」
水煙を上げ、眼前の湖面に突如出現したそれを認識するのにドラガ一行は時間が思ったよりもかかった。
詠月の言葉は水の音にかき消され、透明な水面に映ることもない劇的な速さでそれは泳いで飛び上がり、かつそれの姿が異様であったことが同時に頭で処理できる限界を超えたのだ。
青緑の肌、水掻きの付いた手、甲羅を背負い、頭に皿の乗った鳥に近い嘴を持つ妖怪、河童であった。
「うわー!?」
「うるせぇ!叫ばんでもえぇ!」
詠月以外に叫んでいない者はいなかった。大声を返した河童は耳(らしき場所)を抑え、じろじろとドラガ一行を不躾に品定めするように見ていた。
「おぉい!ヒョロ長、これがお前の言っていた挑戦者かぁ!?」
「そうです、あと僕の名前は詠月です」
「まったく強そうに見えんなぁ」
ざばりと水をかき分けてこちらへ歩み寄る河童は陽ノ華らの背丈を優に超え、苔むした大岩と形容したくなるほどだった。ごつごつとした手脚が湖岸を掴み、巨体に似合わない軽やかさで陸に上がる。それでも質量に見合った重量は有しているようで、着地の衝撃で全員が体勢を崩しかけた。
「おめぇが骨のある奴連れてくるっちゅうから待ってやったんだ。腑抜けだったら容赦はせんぞ」
「大丈夫ですよ多分。彼が相手となるとのことです」
「は?あぁ!?」
「おいおい、お前より細っこいじゃねぇか。冗談は程々にしろ」
「んだコラァ!?」
にこやかな笑みを維持したままの詠月はその手をドラガに差した。睨みを利かせ侮ってくる河童に反射的にドラガも喧嘩腰で返している。
互いに言葉は無く、ひりついた視線が交わされる。ここに全くもって友好的な雰囲気は無い。詠月だけがにこやかに二人の妖怪を見ていた。
「ちょっと待って、詠月さん。何も流れが掴めないんだけど」
流石に陽ノ華の予測の範囲を超えた。詠月の横から静かに聞く。
「彼は河童の大将濃縹(こきはなだ)。玻璃ノ湖に暮らす河童です」
「それはまぁ、見て分かりますが」
「たいそう相撲の強い河童なのですが最近他の河童に大敗したらしく、修行のために鍛錬を続けと人も妖怪も区別なく強い者に勝負を挑んでいます」
確かによく見ると山のような筋肉に生傷があちこちについている。嘴にもひびが入ったような跡があり、濃縹という河童の強靭な肉体に見合う戦績を誇っていたのは容易に想像がつく。では彼を負かした河童というのはどれほどの力なのだろうか。
「都に戻る途中、彼に捕まっちゃいまして。それはそれは簡単に投げ飛ばされたんですけど。あまりにも歯応えが無いとまで言われ、彼に見合う相手を見つけるまで荷物を返さないと言われてしまったんです」
茶目っ気のある顔で舌を出す詠月に、陽ノ華は冷ややかな目で見つめる。
「つまり、ドラガひいては私たちをだしに使いました?」
「いやいやそんなわけは、ほんの少ししか無いです。ほんとほんと」
「嫌ですよ!こんな面倒事に関わっていられますか!」
首がもげる勢いで詠月の襟を掴み揺さぶるも、彼は笑みを絶やさない。
「でもあの銀髪の妖怪の方、見たところ中々の腕っぷしでしょう?勝つ事はできずとも、中々いい勝負までいけますよ」
「勝ったところで私たちに何も利点は無いわ」
「いえいえあります。僕の荷物の中に彼の正体を記した手がかりがある。僕は荷物を取り返せて助かり、彼は自分の起源を知る手掛かりを得る、これで両得!」
「私たちじゃなくてドラガ限定じゃない……」
「この湖という美麗な穴場を知れたってことでなんとか〜。ぐぇっもう引っ張らないでぇ」
やっと詠月の襟から手を離す。ドラガと河童へ未だ睨み合っており、威嚇の姿勢を崩さない。何故そこまで瞬間的に闘争心が芽生えるのかも謎だが、五郎とつむじに向き合い陽ノ華は声を顰めてまずは相談することにした。
「さて、どうしましょ」
「僕たち騙されたって程でも無いのでは?ここにいる全員があの河童と対戦するわけではないんですし」
「そうだぞ。それにドラガの大将は勝っても負けてもどっちでもいいんじゃないか?あの胡散臭い人間は放っておいてさ、運が良ければ荷物だけかっぱらっていくとか」
「そんなひどい!あ、でもそしたら僕は君たちにこっそりついていけば問題ないですかね」
「確かに一理あるわね。あとはあいつ……ドラガがどう出てきてくれるかだけど。あとなんで居るんですか詠月さん」
人間と鎌鼬がひそひそと相談する中、濃縹はドラガとの睨み合いを止め、距離を取った。
「血の気はあっても、こんな枯れ芒のような坊主が相撲でワシに勝てるわけないだろうが。まぁだヒョロ長のが見込みがあるぞ」
「あ!?舐めてんじゃねぇぞ緑の。お前こそその脳天の皿に土付けるぞ」
さて一触即発である。濃縹はこめかみに青筋を浮かせ大きく息を吸い込みまた吐く。ドラガも指と首をごきごきと音を鳴らし、臨戦体勢となった。
陽ノ華は頭を抱えた。最初から期待などしていないがわざと負ける八百長など彼の頭には無いだろう。夢のまた夢である。
「ドラガ!?あんた別にあいつと本気でやり合う必要は無いのよ!何煽ってるのよ!」
「だったらわざと負けろっていうのか?そんなの俺が許さん」
「もう勝手にしてよ!ボロ負けしても知らないから」
「はん!負けるわけないが!」
「おぉい!何をしてる枯れ芒、土俵に上がれ!」
陽ノ華がドラガの言葉を理解する前に濃縹の大声が遮った。いつの間にか濃縹は陽ノ華一行の行く方向の先、小高い丘に立っていた。
その丘には崩れかけた藁葺きの屋根が付き、平地と丘の境目には溝が引いてある。
悪態をつきそこに向かうドラガの背を追い近付くと、丘の上に土俵が置かれていることに気付いた。
「噛み付く元気のある奴は嫌いじゃあないが、いささか遠慮を知らん餓鬼だな。そこまで啖呵を切るというのならこの濃縹の身体に土を付けること、簡単じゃろ?」
「簡単すぎるくらいだ」
腹を叩き不敵な笑みを向ける濃縹にまだ食ってかかるドラガであった。そういえば何故こんなに苛立っているのか分からない。それほど枯れ芒というのが侮辱になったのだろうか。
濃縹が四股を踏むと土埃が舞い、土俵を中心に地面が揺れた。その揺れにドラガは全く動じず仁王立ちのままであった。
「ヒョロ長、行司をやれ」
「はいはい、それでは」
土俵の上で向かいあうドラガと濃縹の両者を見合って詠月が立つ。陽ノ華らは丘の下、彼等を見上げるように見つめるしかできなかった。そして陽ノ華だけが別の心配を抱えていた。
ドラガは相撲を知らないのではないか?
「八卦よい……」
濃縹が蹲踞の姿勢を取るも、ドラガは訝しむ顔をするばかりで仁王立ちのままである。それに気付いた詠月は同じ姿勢を取るように身振り手振りで促すも首を傾げるばかりだった。
「何してるんだ、そんな屈む必要が?」
「お前もしや、相撲も知らんのか?」
「知らん!」
「……おいヒョロ長!どういうことじゃい」
濃縹の呆れたような声にドラガはふんと鼻を鳴らした。一方で詠月は詰められることを察知してか、ひっそりと土俵から離れようとしていた。
「いやぁ相撲を知らないとは僕も今初めて知ったんですよ。腕っぷしは確かなんです本当に!」
「まぁいい、相撲も知らん餓鬼と立ち合うほど無法じゃあない。おら、帰れ帰れ」
「えっ?もしかして見逃してくれるんですか」
「後は弱っちい人間といたちしかおらん。ヒョロ長、また別の相手を見つけて来い」
「そんな〜」
この顛末は予想外であった。ドラガが相撲のやり方を知らないのは当たったが、それを利用して小狡く勝つ気はこの河童には無いようだった。かといって詠月のように別の挑戦者を要求するわけではない。濃縹の割り切りの良さとドラガのものの知らなさが功を奏してしまった。
陽ノ華はほっと胸を撫で下ろした。河童を退治する覚悟を決める前に、何も失わないというなら、霊符も底を着きかけた今は正直ありがたい。詠月には少し申し訳なさを感じたが面倒に巻き込んできた報いとするならば妥当かもしれない。
濃縹の申し出を感謝と共に受け入れようとした時、鋭い声が上がった。
「餓鬼だ、枯れ芒だと俺を何だと思っている!相撲とやらを今ここで教えろ!お前を負かしてやる!」
ドラガだけはこの申し出を真正面から突っぱねていた。
陽ノ華も五郎もつむじも頭を抱えた。しかし詠月だけは落ち込んだ様子から笑顔を取り戻し拍手を持って讃え始めてしまった。
「これは頼もしい!素晴らしい!『吸血鬼』の威風たるや!」
「ほう、相撲に真っ向から取り組む意志があるんか。ならばこの濃縹がその身に叩き込んでやろう」
ゆっくりと濃縹は構えの姿勢を取る。ドラガも真似をし、蹲踞の体勢からじっと濃縹を見据えた。
濃縹もその視線を受け止め、訥々と話す。
「相撲ってのは、ただの喧嘩じゃあない。蹴りを使わず、拳を固めず、首から上には触らない」
濃縹の身振りをドラガが目で追う。
「掌と脚を引っ掛けるだけで、相手を土俵の外へ出すか足の裏以外に土をつけたら負けだ」
「ふん、わかった」
「そして、だ」
突然ぱん!と空気の破裂する音が響き、振動する音の波が湖面に伝わって波紋を描いた。
濃縹が手を叩いた音と理解するまで陽ノ華たちの耳鳴りは収まらなかった。
「柏手をする。そん後は手を広げて天に向かって証明するんだ。何も持たず正々堂々と勝負するってことをな」
ドラガの頭がぐらりと揺れている。無理もない、真正面からあの音を聞いて姿勢を崩さなかっただけでも大したものだと陽ノ華は感心した。その一方で詠月は未だ両耳を押さえていた。
頭を振って聴覚を取り戻したらしいドラガは、しっかと濃縹を見つめ直す。
「ほいで、この線に向かって拳をつく。見合って相手との呼吸が合った時、ぶつかるんじゃ」
「あいつが合図するんじゃないのか」
「あれは俺たちが立ち合ったことの確認をするだけよ。どっちかが上手くいってないと判断したら仕切り直しだ。何故かヒョロ長はそこを見るのはやけに上手いんだ」
「お褒めに預かり光栄ですね……ドラガさん、ここまでよろしいですか?」
「あぁ、わかった」
ドラガは答え、一つ呼吸を置いた。
ぱん、と濃縹の時よりは小さいが柏手が四方に響く。そして両手を広げ掌を空に向ける。
途端ドラガの心には刺々しい気持ちが湖の澄んだ空気に溶けて消えていくのがわかった。
天に己の全てを証明する心持ちが、彼のささくれ立つ心を宥め、しっかと相手を見据えたドラガの表情には苛立ちがいつの間にか消えていた。
そして手を土俵上の線に付き、濃縹と見つめあう。
「よし、やろう」
一言の後、二人の動きがぴたりと止まる。柏手で揺れた空気の流れすらも凪いで二人以外の誰も声を出すことはなかった。息を呑み、心音すらもうるさいと感じる中、二人が動き出すのを見守る。
永遠のような数秒の中、突然衝撃波が襲った。
ドラガと濃縹の取組みが始まったと分かるまで、全員の目は立ち昇る土埃に眩まされていた。
視界が安定しない中でも土俵の上に二人が互いの腰を掴んだ姿が垣間見えた。
「……!細っこいのにどこから力が出てくるっ!?」
「うるせぇ…!くそっ!」
二人の体格差は明らかであった。ドラガは大岩を抱え込むように濃縹の巨躯を掴もうとするも、胴回りに両腕の長さは優らず、伸びた爪が腰の一部を引っ掛けるのが精一杯のようだった。一方の濃縹は鬼蓮のような巨大な掌で細いドラガの身体をしっかと掴み、掌の水掻き同士が重なるほどであった。
だが圧倒的な大敗は未だ確認できなかった。ドラガがあっという間に放り投げられるくらいの速攻勝負を詠月は想像していたが、なかなかどうして彼の細い身体からは予想できない怪力と胆力が備わっていた。
荒い息が聞こえ、二人の腕や脚に筋肉の盛り上がりが見える。濃縹の押し出そう力とドラガの留まろうとする力が均衡しつつある。これは詠月及び濃縹の予想外であった。
「大将ーっ!がんばれー!」
「ドラガさん!踏ん張ってくださーい!」
「言ったからには勝ちなさいよね!」
いつの間にか丘の上、土俵のぎりぎり外につむじ、五郎、陽ノ華が駆けつけていた。さっきまで負けたっていいだろう、と言っていたのにいつの間にか熱中し応援している。
ドラガの勝負への真摯さか、濃縹の真面目な教えか、あるいは二人どちらもの熱気に当てられたかは分からない。何にしろこの場に茶化すような態度は存在しなかった。
「(だが流石に……)」
漢同士のぶつかり合いに土俵周りの温度が上がる錯覚を覚える中、詠月はドラガの足元が段々と土俵際へ押し出されるのを確認した。本人も当然それは分かっているのが捲り上がる土の高さが彼の脚に込める力強さを物語っている。対照的に濃縹の歩みは力強く一歩一歩と勝利へ向かわんとしていた。
陽ノ華は口を抑え叫びたい気持ちを押し込もうとし、五郎は祈りのあまり土俵を直視できなかった。つむじも口を開けっぱなしにして呆然と勝負を見ていた。
そう誰もが勝負の結末を予想していた。だがドラガの叫びがそれらをかき消した。
「うぉぉあぁぁ!」
「な、何ィ!?」
その途端皆が息を呑んだ。
濃縹が空中に浮いていた。
いや違う。ドラガの細腕が全力の力を持って濃縹の身体を鷲掴んで持ち上げていた。
ドラガの真白かった顔は息を長く止めたように紅く染まり、獰猛な獣の如き荒い呼吸が余裕のないことを現している。
濃縹もこの事態には困惑していた。なにしろ二回り以上小さい相手が己を持ち上げている。濃縹の得体を支える太く短い脚はばたばたと空中をもがくもドラガの腕には届かない。突然のことにドラガを両腕で掴み返すことも忘れ、焦った顔が張り付いている。
詠月も行司の真似事を忘れて陽ノ華らと共に歓声をあげていた。
しかしそれも僅かな時間であった。時間が経つにつれ濃縹の脚はだんだんと土俵の土に近づいていく。
「くそ、ちくしょう……」
恨み言のように苦々しくドラガは呟く。濃縹を持ち上げる力は長く続かず、腕に震えが現れてずるずると濃縹を降ろす形になった。加えて持ち上げた勢いを己の身体の中で押し込めきれず、よたよたと土俵の際にまた近づいてしまう。
濃縹の両足が土俵内に着くのと同時に、ドラガの片足は土俵に乗り上げた。驚きを未だ隠さずも悠々と力を蓄えたままの濃縹と先程の挙動で肩が上下するほどに疲弊したドラガ、誰から見ても勝負は明らかであった。
「中々骨のある奴だ、だが終いだな」
静かな声と共にドラガの胸の辺りに衝撃が走った。
濃縹の巨体に見合う大きな掌から繰り出される突っ張りがドラガを土俵外へ押し出していた。
押し出すといった表現は生ぬるい。濃縹の突っ張りの勢いと踏ん張れなかったドラガの体重の軽さが相まって、放り投げられたといった方が描写が正しいかもしれない。それほどにドラガは土俵を超えた遠くへ吹っ飛ばされ、丘を転げ落ち、湖に頭から突っ込んでいった。
水柱が上がるのを見届けると、詠月は頭を振りつつも濃縹のいる方へ手を挙げて声を上げた。
「濃縹の勝ち!」
その声を聞き終わる前に陽ノ華らは湖の方へ駆け出していた。水へ飛び込んでいったドラガを助けるためであった。
だが陽ノ華らが駆け寄った頃にはドラガはずぶ濡れになりながらも岸まで辿り着き、立っているのもやっとな様子のまま爛々と闘志の籠る眼差しを濃縹へ向け続けていた。
その視線を受け豪快な笑い声を上げながら、のっしのっしと歩みを進めた。
「良き取組みだった。姿に見合わぬ力と闘志に侮っていたワシが負けてもおかしくはなかったな」
「ふん、次は俺が打ち負かしてやる」
「その日を楽しみにしてやろう。さてヒョロ長、お前はまだ働いてもらうぞ」
「えっそんな!」
憎まれ口は土俵に登る前から変わらず、ドラガは尖った歯を剥き出した。だがその表情にはどことなくさっぱりとしたやり切った気持ちが溢れていた。
濃縹も言葉通りにドラガへの認識を改めたようだった。力を競える良き好敵手へとなり得る相手に欠片も冷やかしの気持ちは混ざらない。その証拠にと水掻きの付いた大きな手を差し出した。向けられたその掌をしっかとドラガも握り返した。
眼前の絆の芽生えに言葉も無く陽ノ華は混乱していた。拳や刃を交えて初めて生まれる感情があるのは物語の中の人物だけだと思っていたし、それが現実にしかも妖怪同士で生まれている。誰に言っても信じて貰えないだろう様子に今はただ二人の間で交互に視線を行き来させることしか出来なかった。五郎とつむじは本物の力士同士の取組みを見たかのように飛び跳ねて拍手を送っていた。
「さて腹も減ってきたことだ。いい勝負ができた礼にしては細やかだがここで食っていくといい」
「見てるだけだったのにお腹減ってるわ」
「いつの間にかこんなに陽が高くなってるね」
「そうだ!俺は腹が減っていたから本調子じゃなかったんだ!おいゴロー!」
「はーい、といっても乾物しかないですが」
濃縹の言葉に誰も異論なく、皆は湖の側に腰を下ろした。五郎が背から下ろした荷物から干し魚を出し、陽ノ華も乾飯や干し柿を取り出し分け合うこととするが、どんどんと減っていく食糧に今だけは目を逸らした。
濃縹はいつの間にか大きな瓜を持ち出しており、手刀で割った。その果肉のみずみずしさが湖面の光に跳ね、陽ノ華は唾を飲み込んだ。
割れた瓜を片手で掴めるくらいにまた割り、濃縹は他の面々のもとに分けた。ドラガとつむじが嬉々として口にすると爽やかな甘さが喉を通り、菓子を与えられた子供のように煌めいた眼を互いに見合わせた。
「ありがとうございます。僕からはこんなものしか出せませんが……」
「ほぉなんじゃそりゃ」
手渡された瓜の礼として五郎は干し魚を渡した。濃縹は訝しむようにじろじろ見ていた。しかし意を決して頭から一口にばりばりと噛み砕いた途端、目が輝き大声を上げた。
「こりゃ美味い!今までこんな美味えもん食ったことねぇ!」
「た、ただの干し魚ですよ……!?」
混乱したのは五郎だった。濃縹に肩を揺さぶられ首ががたがたと揺れている。止めようと立ち上がった陽ノ華に詠月はそっと耳打ちした。
「あの干し魚、どちらの物で?」
「特別な品じゃない筈ですよ、五郎さんの住んでいる村で作ってる干し魚ですよ」
「ふーん。あ、結構美味しい。もしかしてその村って海辺です?」
「そうですけど」
「ここに暮らしてる濃縹さんにとっては珍しい品かもですね。だってこれ海の魚でしょう。加えて塩気の効いた食物はここまで来ることそうそう無いものですから」
肩をすくめる詠月の言い分に陽ノ華も理解が及んだ。海から遠い内陸では塩は貴重である。船の通る河川や交通路が整備された大きな町村なら幾らかの流通はあるがそうでもなければ高値で取引されるのは日常茶飯事だ。
玻璃ノ湖は滝の裏からしか通り抜けられる道が今のところ見つからず、しかも堂々と河童が住んでいるのもあり人間が塩の流通に通っているとは陽ノ華は思えなかった。そしてその予測はおおよそ当たっているのだろう。
塩気の効いた食物を初めて食べたと思しき濃縹は目を白黒させて干し魚を口に次から次へと放り込んでいる。何故かドラガとつむじも対抗して齧っているのは放っておくとして、五郎が親切心で持ってきてくれた干し魚を全て食い尽くす勢いに人間たちは恐ろしさを感じていた。
「人間!この食い物はどこで手に入る!?」
「ぼ、ぼくの、む、むらっ、で」
「おいこらデカブツ、ゴローが喋れないだろうが」
ドラガは魚を咥えつつ五郎から濃縹の手を引き剥がした。頭を揺さぶられすぎた五郎は草むらにへたり込んだ。
「す、すまん。修行のためにと黄瓜や蓮の実ばかりの生活だった身にはいささか刺激的でな。酒も絶っていたんだが、これは絶対酒の肴になるな……」
この河童にそれほど制限させるほどに相撲に負けたことは河童の中で重要なのか、食べ物を制限してもあの巨体と怪力なのか、また別の知見に陽ノ華は面食らった。
濃縹の滴る涎に引く面々を押し除け、詠月は眼前に立ち言い放った。
「でしたら濃縹の大将、僕がこの干し魚を仕入れて来ます!修行のために食い物を断つ心意気は見事なものですが、我慢し過ぎるのも毒です。むしろ修行により限界まで擦り減らした心身に良き酒と飯は砂の上の雨の如く染み渡り、大将の御身を尚の事高みへ登らせるでしょう。加えて他の河童も知らぬ品を知っている、これは大将の評判を上げるまたとない機会です」
「んん?ふむ?うん、まぁいいんじゃないか?」
「ええっ、干し魚如きで大層な」
べらべらと捲し立てる詠月に、濃縹は六割も理解が追いつかなかったが悪いことを言ってはいないことにうむと首を縦に振った。
陽ノ華のぼやきは二人の耳に入らないようだが、勝手にすることとした。流石にもうこちらに不利な取引を持ちかけることは無い、と思いたい。
だんだんと会話が盛り上がっているのを横目にドラガに声をかけた。
「いい勝負だったわね」
「そんなわけはない、力の差があり過ぎた。あいつは本気を爪の先も出してはいない。おい何を笑うことがある」
「ふふ、意地っ張りな奴だと思ってたけど素直に力が及ばないことを認めはするんだなって。意外と律儀よね。相撲のこともちゃんと聞いて真っ向から取り組むなんてびっくりしたし、飛びかかって襲いかかるのかと思ってたわ」
「……考えたこともなかった」
唖然としたドラガの顔を見て陽ノ華は吹き出した。妖怪を放り投げて貪り食う恐ろしき幽鬼の様な姿を見せたと思えば、煽りに真っ向から突っかかり陽ノ華くらいの年相応のひねくれと純朴が現れる姿にどこか身近さを感じてしまう。そうやって懐に入り込み寝首を掻こうとしているなら別だがどうにもその気は全くなさそうであり、五郎とつむじが恐れつつもどこか人懐っこく寄ってくる意味も分かり始めていた。そして陽ノ華自身も敵意はいつの間にか薄れて、横に座れるほどに気持ちを許している。
妖怪なのに、と心で引っ掛かる部分を押し込めて。
「(こんなに仲良くしても別れが辛いだけよ。陽ノ華)」
水面に映る寂しそうな自分の顔に向けて小石を投げ込んだ。
「色々ありましたがそちらの旅にご同行致します。改めて詠月と申します。よろしく〜」
「俺たちは何も許可した覚えはないんだが」
「まぁまぁそんなことは言わずに。濃縹さんから了承を得まして、道中で干し魚を仕入れに行こうと思っています」
昼時が終わり陽光に紅が混ざる頃、荷物を背負った詠月が琵琶を鳴らし一礼する。
濃縹と別れの挨拶後、ドラガとつむじは満腹になって棺の上で昼寝を始めていた。
詠月は陽ノ華らの疑う眼を掻い潜り言葉を続けた。
「皆様の目的地は都ですよね。五郎さんの村へはいつ戻るおつもりですか?」
「そういえば、ここまで付いてきてくれるなんて五郎さんとしても想定外ですよね。どうしましょう」
「僕ですか?うーん……」
少し淋しげな表情で五郎は俯き悩んだ。彼もまたこの旅を終わらせたくなかったようだ。陽ノ華はその顔を見て自分と同じような気持ちを持ってくれていることに安堵と申し訳無さを覚えた。
「とりあえず都まで行ってから考えますか。僕はそこから来ましたがここから二日もないし。観光して土産を持ち帰るのに僕も同行する形が妥当かな」
「その言いぶりだと詠月さんは一旦戻る形になりますがよろしいので?」
「元々急ぐ必要はない旅ですし、むしろ遠く離れて旅出来ればいいですから。都の方が客が多いですしね」
「濃縹の大将はそれ知ってるんですか?」
「いえ?」
「ええ……」
「それにしてもここから都は近かったんですね。殆ど人間のいる道を通ってこなかったから分からなくなってたわ」
行きと全く異なる旅程に頭を悩ませていたがここに来て近道が出来ることは幸運であった。でもそれはつまりこの旅に終わりが見え始めているということで。
胸に覚えた寂しさを深呼吸と共に吐き出し、陽ノ華は周りを見渡した。
「行きましょう。都に向けて」
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