婚約破棄されたけど、お金を沢山貰ったんで独り身ライフを楽しもうとしたら、婚約者が追いかけてきた

椿谷あずる

第1話 絵に描いたような婚約破棄

 

 それはある日の昼下がり。

 とある国の、とある街の、とある屋敷の、とある一ページ。

 その数ある中の一つに公爵令嬢である私も存在していた。


 部屋にはアールグレイの優しい香り。

 私は自分の婚約者こと、公爵令息アレンとお茶を飲んでいた。


「ねえ、エイミー」

「なあに、アレン」


 それは彼から始まった他愛のない掛け合い。


「あのさ」

「うん?」


 彼の声色がどこかおかしい。それどころか表情も。

 体調が悪いから今日は早めに切り上げたいのかもしれない。

 その程度の事だと私は勝手に推測した。


「具合が悪いなら今日はこの辺で……」

「いや」


 私の言葉はあっという間に隅に追いやられた。


 じゃあ一体何があるというのだ。


 じっと見つめる私の瞳を彼が直視することはなかった。

 彼は俯いて、紅茶の液面に視線を落とす。


 そして一言。


「君の妹と結婚したいから、君と婚約破棄していいかな?」


 妹と、結婚したいから婚約破棄?


「……」


 思考が完全に一時停止する。

 彼の言葉の意味を飲み込むまで、おおよそ一分の時が流れた。


「駄目って言ったら?」

「困る、かな」


 試しに言ってみた言葉も彼のストレートな一言で見事に地面に叩き付けられる。

 

 ああ、もうこれは冗談では済まされないのだ。


 二人だけの静かな部屋。

 まさかこれが最後のお茶会になるなんて。


「……」


 一呼吸おいて目を閉じる。

 見える世界は真っ暗で、まるでこれからの私の人生を暗示しているかのようだった。


 でも、ここで絶望するなんて嫌だ。


「私、あなたにフラれたら、この名前に傷が付くわ。問題アリの傷物令嬢ってあだ名がついちゃう。世間の目は冷たいの。きっともう、まともな結婚も望めない。この責任はどうするの?」


 何とかなるとは思えない。

 けれど、それは私の些細な抵抗だった。


「それは」


 彼の口元が僅かに揺れた。

 私はそれをうっすらと眺める。


「うちの財産を七割譲ろう。大丈夫、相続権は僕にある。嘘はつかない」


 思わず息を飲んだ。

 何を言っているんだ、この男は。財産の七割を私に譲る?

 たとえその場しのぎでも、もっとマシな言葉があったんじゃないか?


 そっちがその気なら。


「言ったわね」


 私はそう言って彼を真っ向から直視した。


「言ったよ」


 彼もまた真っ直ぐにこちらを見つめる。

 私に婚約破棄を持ちかけた時とは違い、自信満々な彼の瞳。馬鹿馬鹿しくも信じるしかなかった。


 たぶん本気なんだ。婚約破棄も、財産の件も。

 さて、どうしてやろうか。


 私は彼の決断を受けてなお、どこか悲しいような悔しいような複雑な気持ちが心の隅に残っていた。

 

 嫌だと駄々をこね泣いてしまおうか。

 怒り狂ったように相手を罵倒してしまおうか。

 にこやかな笑みで受け入れてしまおうか。


「分かったわ」


 けれど結局、私の口から出たのは、たったその一言だった。


 それがここにきて思いの外、彼の心を動揺させた。

 彼の瞳孔が一瞬だけ広がったのだ。


「……思いのほかあっさり受け入れてくれるんだね」


 彼はそう言って口元をキュッと結んだ。


「七割なら生活出来るかなって」

「いいんだね」

「いい」

「君はもっと嫌がると思ったよ」

「なあに、それ?」


 それはまるで、惜しんでいる人が言うセリフじゃないか。



「……」

「……」


 結局彼は、その先の言葉を何も言うことは無かった。


「…………ちゃんと『駄目』って最初に言ったもの」


 だから私は、そう言って静かに椅子を後ろにひいた。

 

「でしょ?」

「……そうだね」


 彼の首が上下に揺れる。


「……」


 彼が頷くのを見納めてから、私はゆっくりと席を立った。


「それじゃ、七割よろしくね」

「ああ」

 

 最後の一言はたった二文字の短い相槌。


 こうして、私と彼との最後のお茶会は幕を閉じた。




「お姉様」


 凛とした可愛らしい声が耳元に響く。

 部屋を出ると妹が待ち構えていたかのように廊下に立っていた。


「あらリリィ、どうしたの?」

「可哀想なお姉様」

「可哀想?」


 小首を傾けた私に対し、鋭い眼光で彼女は私を睨み付けた。


「長年決められていた相手に婚約破棄されて、相手は妹に奪われて、手切金だけ渡されて、ゴミのように捨てられる。なんて可哀想かしら」

「聞いていたの?」

「ええ、ええ! しかとこの耳に!」

「そう」


 そう言って私は彼女の横を通り過ぎようとした。

 しかしそれを遮るように彼女が前へと躍り出る。


「まだ何か?」

「悔しくはないのですか? この私に奪われて。最後くらい暴言の一つでも言ったらいかがです?」


 そう言われても。


 さてどうする。


 今度こそ悔しいと泣いてしまおうか。

 今度こそ怒り狂ったように相手を罵倒してしまおうか。

 今度こそにこやかな笑みで受け流してしまおうか。


「あまりいいとは思えないかな」

「……は」


 リリィはきょとんとした様子で私を見つめた。

 けれどすぐいつもの光を取り戻す。


「で、でしょうね! あまりじゃないわ、お姉様にとってはかなりいいとは思えない話のはず! ええ、そうだわ、そうなのよ!」


 そういう意味じゃ無いのだけれど。


 妹の声を背中に浴びて、私は自分の部屋のドアを開けた。

 ドアを閉めてもなお、妹の声は廊下に響いているような気がした。

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