第32話 先生はいただきました


「お食事をお持ちいたしました」

 波留、いやルパ子は普通の調子でインターホンに告げる。

「なんだ? もう来たのか?」

 低い男の声が、すこし驚いたような、あきれたような声で答える。

「はい」

 有無をいわせぬ、ルパ子の静かな声。

 インターホンのむこうで、すこし話す声が聞こえ、やがて扉が開いた。

 ドアをあけたのは黒ずくめの大柄な男。顔はサングラスで隠している。

「奥の部屋へ運べ」


「かしこまりました」

 ルパ子は無表情にこたえ、ワゴンを押して奥の部屋へ入る。

 ベッドとソファーのならぶ素敵な部屋の中では、先生が壁のあたりに立っていた。表情はおだやかで、ストレスを感じているようには見えない。ルパ子の背後で、黒ずくめの男がドアをしめる。部屋の中には、ルパ子と先生の二人きり。


「そこのテーブルの上に置いてください」

 先生が料理の置き場所を伝えてきたが、ルパ子は別のことをいう。

「森屋先生ですね」

「え? なぜぼくの名前を?」

「犯罪組織『シャドー』に誘拐されたのですよね」

「えっ!?」

 先生の表情に驚きが走る。

「……なぜ、それを」

「しっ」ルパ子は愛らしい仕草で、人差し指を唇にあてる。「わたしは、ルパ子。美少女怪盗アルセーヌ・ルパ子です。先生を助けにきました」

「え、君があのアルセーヌ・ルパ子?」

 先生は息をのむ。そして、頭の中でいろいろ考えている様子。だけど、いまは考えてる場合ではない。動くときだ。

 とっとと、ここから逃げ出す必要があるのだ。


「先生、わたしがあなたをここから盗み出します。だから、わたしの言う通りにしてください」

 先生はたっぷり二秒間、ルパ子の目を見つめてから答えた。

「わかった。きみのいう通りにするよ」

「はい」ルパ子はにっこりと微笑む。「では、まず……」




「失礼いたしまーす」

 ルパ子は先生の部屋のドアを開くと、重そうなワゴンを押して、黒ずくめの男たち三人がいる部屋へと出た。ソファーでくつろいだり、タバコを吸ったり、テレビを見たりしている男たちはルパ子にまったく興味がない。

 ルパ子はそのまま、ワゴンを押してスイート・ルームを出て行こうとする。ドアをあけ、外の廊下にワゴンを出そうとしたとき、ワゴンのなかで「ゴトッ」と音がした。


 料理を置いてきたため、ワゴンの上には何も乗っていない。音はだから、布で覆われた下の部分からしたということになる。

 その音に気づいた黒ずくめの男たちが、「なんだ?」という顔でルパ子の方を振り向く。ルパ子はにっこり笑うと、

「それでは、『シャドー』のみなさん、さようならーアデュー

 言うやいなや、パタンとドアを閉めて駆けだした。ワゴンを押しながらだから、スピードが出ない。おまけにふかふかの絨毯は、ワゴンの車輪を重くする。


 振り返ると、ドアを蹴破るようにして廊下に飛び出してきた三人の男が、血相をかえてルパ子のことを追ってくる。

 が、用意は万端。

 ルパ子はエレベーター・ホールを目指す。


 ホテルのエレベーターは呼んでもなかなか来ない。それでは逃走に使えないので、ルパ子はそのうちの一台を、扉にドアストッパーを噛ませてこの階に止めておいたのだ。

 ごとごと重いワゴンを押して、開いたままのエレベーターに飛び込むと、素早くドアストッパーを抜き、エレベーターの扉を閉める。駆けてきた男たちが間一髪かんいっぱつまにあわない。

 エレベーターの箱は、すでに上に向かっている。最初から最上階のボタンが押されていたのだ。帝王ホテルの最上階は三十階。あの男たちは、十階ぶんの階段を駆け上がることになるだろう。



 男たちが最上階まで、息を切らして登ってきたとき、エレベーターの前にはサービス・ワゴンがぽつんと置かれていた。

 リーダーの男がワゴンに駆け寄り、下の部分を隠した布を取り去ると、中にはスピーカーが置かれていた。スピーカーにはヴォイス・レコーダーがつき、そのスイッチはコードでワゴンの手すりにのびている。ためしにそのスイッチを押してみると、「ゴトッ」という音がスピーカーから流れる。

 そして、ワゴンの上には一枚のカード。


『先生はいただきました。By アルセーヌ・ルパ子』


「くそっ、やられた!」

 リーダーはいまいましげに、ワゴンを蹴飛ばした。


 その様子を物陰から確認したルパ子は、するりと階段を降りる。下の階で変装を解き、アルセーヌ・ルパ子の姿になる。頭には小さなハット。顔を隠す赤いマスク。白いワンピースには金ボタン。肩に羽織るは深紅のハーフマント。

 膝まであるハイサイ・ブーツのヒールを鳴らして、さっそうとエレベーターに乗り込むと一階まで降りた。


 さて、では先生に会いに行くとしましょうか。


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