第8話 魔導士の少女
窓から差し込む光が室内をほんのり赤く染め上げ、その上に重苦しい沈黙ばかりが満ちていく。
サジェンとルールーが二人っきりでこの部屋に残されて、一時間あまりが経とうとしている。
レオンの無駄な軽口が無償に恋しい。
賢者が民衆に奇跡を披露した式典が終わり、今頃は限られた者達だけの特別な神事が執り行われているはずだ。
グェイン曰く、最も退屈で詰まらない仕事だ。
今頃きっと彼は、欠伸を噛み殺しているに違いない。いや、誰に憚ること無く欠伸をして神官長に睨まれているのかもしれない。
普段ならあれやこれやと理由を付け、もしくはその手間すらを惜しんで脱走を計り、サジェンやレオンに冷や汗をかかせるグェインだが、本日は決して逃げないと誓いを立てた。その誓いに代わり、サジェンは今ここでこうしている。
姉に対してのみ、グェインは重度の心配性になるらしい。
確実に信用できる者に姉を守っていて欲しいとのことで、サジェンが抜擢された。
信用できると言ってくれた彼の気持ちは嬉しくもあり、誇らしくもある。
しかし、サジェンは内心の溜息を押し殺し、丸テーブルを挟んで向かい合わせに座った少女に視線をやった。
ちょっとだけ、あくまでちょっとだけだが、困っている。
普通の少女だと思う。
それ以上の感想は出てこない。本当に、ごくごく普通の、どこにでもいそうな可愛らしい少女だ。
グェインやユンといた先程はそれらしく、くるくると表情を変えていたように思う。が、今はむっつりと押し黙り、テーブルの下に視線を落としている。
間が持たない。
テーブルに乗ったお茶のお代わりと、お菓子のお代わりは、既に各三回ずつ済ませた。
顔見知りであったらしいお偉方によって、彼女の保護者であるユンが強引に連れて行かれてから、約一時間。
永遠とも言える時間を過ごした気がする。
そろそろ戻っては来てはくれまいか。
同年代の少女との触れ合いなど殆んど経験していないサジェンは、こういう場面での気の利いた言葉が出て来ない。
普段共に居ることの多いグェインにしろ、レオンにしろ、言葉数は多い方だと思う。
サジェンはどちらかと言えば、聞き役でいることの方が多い。
己の不甲斐なさをこっそり嘆き、本日四度目のお茶のお代わりを提案するために腰を浮かせた。
「………………」
腰を浮かせ、互いの前でやや温くなったお茶に手を伸ばしかけたその時、前方から呟き未満の小さな声が聞こえた気がして、サジェンはぴたりと動きを止めた。
前方の少女は顔を上げていない。
だがその口元が僅かに動いているのを無言で確認し、サジェンは一言一句聞き洩らすまいと、全力で耳を澄ませた。
再びたっぷりとした静寂が訪れ、更に一呼吸置いてから、少女は再び口を開いた。
その声は、先程よりもほんの少し聞き取りやすい。
「……ユンは…………ユンのこと、知ってるの?」
先刻の会話のせいだろう。
少女は床に落としていた視線を僅かに上げた。
「ええ、いや、いえ。知っているという程でもありません。皆が知っていることを知っているだけです」
「……みんなが知ってることって、なに?」
サジェンに向けられた顔は、どこか泣きそうで、不安定で、まるで土砂降りの雨の中で捨てられ濡れてしまった子猫のようだ。
サジェンは改めて立ち上り、新しいカップを一つ用意した。
ティーコゼーの中のお茶は、まだいくらか温かい。
「ユン・ガレット・デ・ロワ・サヴァラン、という名と、彼が六年前まで宮廷魔導士であったことです」
言いながら、カップに温かいお茶を注ぎ、そこに蜂蜜とミルクを混ぜる。
甘い香りがほんの僅かに立ち上るカップを少女の前に差し出すと、ルールーはようやく更に顔を上げ、傍らに立ったサジェンを見上げた。
びしょ濡れで捨てられた子猫から、ただの捨てられた子猫、程度にはなった気がする。
怖がらせないように、警戒させないように、サジェンは注意深く、穏やかな笑みを浮かべた。
「その時に、私はユン殿に命を救われました。直接言葉を交わしたことは今日までありませんでしたから、私が知っていることと言えばそれだけです。その後の事も含め、あなたの方がよくご存じかと思いますよ」
おずおずとカップに手を伸ばしていたはずのルールーは、サジェンの言葉を聞いて、泣き出しそうに表情を歪め、すぐに再び俯いた。
また濡れた捨て猫になってしまった。
何が悪かったのか、こっそり慌てふためくサジェンには気付くことなく、ルールーが拗ねたような口調で語ったそれ。
それを聞いて、サジェンは今度こそ、ある程度の努力を要した上で、この子猫のように可愛らしい少女には悟られないように、努めて感情のない笑顔を装った。
「私は、知らない。だってユンもグレンも、私には何も言わないし、それに私は……私だけ、星読みじゃないから」
あまりにも、似ている姉弟。
彼らは子どものように素直で、そして、寂しがりやだ。
◇
魔導士は臆病だ。
神の血を持たない多くの人間は信じないだろう。
その力をひけらかす選ばれし者は、高みから人を見下ろし、災厄を予見し、己に降り掛かる災いを払い除けることができる。
そう、信じているから。
でも本当は、少しだけ違う。
災厄を予見することは確かにある。
しかしその多くは、そもそも災厄を回避する未来だ。
もしも予見したのが、回避できなかった未来だったなら。それはもう、避けようがないのだ。
人一人の力で変えられるような容易いものを運命とは呼ばない。
彼らはただ、受け入れるしかない運命を、事前に知ることができるだけだ。
だから彼らは常に怯えている。
変えられない未来を。
来るべきその日を。
己に降り掛かる、無慈悲で残酷な運命を。
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