明治バーチャルナラトロジー

葉島航

何でもない日常の話(1)

 木造の平屋に日当たりのいい縁側があって、その奥で男が頭を抱えている。

 真っ白な原稿用紙を広げたまま、物語が降りてくるのを今か今かと待ち構えているのだ。

 男の名は有島。なんとも冴えない風体だが、一応名の通った作家なのである。

 有島は曲がりくねったくせ毛の隙間へ指を差し入れ、ぼりぼりと掻いた。粉雪のようなフケが机へ降り注ぐ。最後に銭湯へ行ったのは二日前だ。

 しばしフケの欠片を指先でもてあそんだ後、原稿用紙で几帳面にくるみ、くずかごに放る。しかしそのくずかごは、書き損じた紙ですでに一杯なのだ。だから当然、新たに放った塊は、弾かれて畳の上に転がる。

 有島はそれを拾おうともせず、さらに長い時間、うんうんとうなっていた。しかしとうとうアイデアは到来しなかったらしい。やがてすっくと立ちあがると、着物の襟元を整え、どたどたと足音を立ててどこかへ行ってしまった。

 そうかと思うと、羽織を引っ掛けた姿で戻って来る。

 どこかへ出掛けるのだ。

「自分の内側に物語が見つからないときは、外側で見つけるべし」

 それが有島の信条である。決して嫌な仕事から逃げているのではない。部屋を離れ、茶屋で飲む抹茶の中に、喫茶店で飲む珈琲の中に、駄菓子屋で飲むニッキ水の中に、物語は隠れているのだ――もちろん、バーで飲むリキュールの中にも。

 そうやって目にしたもの聞いたものを手掛かりに、小説を書き始めてみる。すると筆が乗って、いつの間にか大柄な物語を綴っていることも少なくない。

 引き戸を開け、有島は足袋のまま下駄を突っ掛けて歩み出る。

平屋の目の前には石畳の坂道があり、そこを下っていくと、この近辺で一番栄えた通りに出る。もちろん帰るときには上り坂になるので、あまり飲みすぎると道端に反吐を吐くことになる。

 季節はもう秋めいて、羽織なしでは肌寒い。

 袖口から両切りの紙巻き煙草とマッチ箱を取り出し、慣れた手つきで火を点ける。紫煙は風に揺れる雑木林の奥へと消えていく。

「あら先生」

 隣の婆さんが声を掛ける。畑から帰ってきたばかりと見えて、ほどきかけのほっかむりが頭に乗ったままだ。

「柳田さん。しばらくぶりですね」

「最近は朝晩が冷え込みますから、朝は遅く出て、夕は早く帰るようにしているのです。先生は夜型ですから、ここ数日は行き違いでしたね」

「そうですか。それにしたって、今日は早すぎませんか」

「この後雨が来ます。腰が痛みますから」

 婆さんの腰痛は、天気の予測を違えたことがない。有島は空を見上げる。しかし空は澄んでいて、雨など微塵も予感させない。

「さすがにそれはないでしょう。これだけ明るいのです。夕焼けの気配すらありますよ」

「いえ、降ります」

 両者とも一向に譲らない。

 結局、有島はボロボロの唐傘を持って行くことに決めた。

「天気がよくないとなると、今日のおはなし会は中止ですね」

 有島の言葉に、婆さんはうなずく。

 柳田婆さんは、夜になると子どもたちを集めて、昔話を聞かせる。この近辺では唯一と言える、口承文芸の伝道者であった。

「そうですね。今晩はよしておいた方がよさそうです。先生、もし麓へ行かれるのであれば、岩倉のせがれに言づけておいてくださいますか?」

 岩倉少年は町一番のやんちゃ坊主だ。そのくせ求心力はあって、彼に伝言を頼んで水飴を一本御馳走すれば、数刻後には周辺の子どもたちに伝わっている。

「任されました」

 返事を聞くと、婆さんは「頼みます」と頭を下げ、自分の家へと引っ込む。

 有島は石畳にかがんで煙草をもみ消す。吸い殻の始末に困って、その辺りに転がすわけにもいかず、一度家の中に戻って火鉢の灰へ突っ込んだ。

 彼がもう一度外へ出るころには、雲行きはすでに怪しくなり始めていた。

 彼は唐傘をぶらぶらさせながら、カランコロンと坂を下っていく。その向こうには、昔から変わらない佇まいの平屋から、洋風な屋敷までがまだらになって林立している。もうしばらくすれば、ガス灯の明かりで町全体が薄い光に包まれるのだ。

 時は明治。和と洋の入り混じった、境界線上の時代である。


「えー、今日は中止? 俺、楽しみにしていたのに」

 そう憎まれ口をきく岩倉少年の手には、有島が渡した水あめの棒が握られている。

「まあ、そう言わず」

 有島はその頭を撫で――「ガキ扱いするな!」と言われてしまったが――、近所のみんなに伝えてほしいと頼む。

「あんまり人に指図されるのは好きじゃないけれど、先生が言うのならしょうがないよな。父ちゃんも言っていたぜ、先生は幸薄そうな見た目だけど、偉い人だって」

「幸薄い……」

 つぶやいて肩を落とす有島の背中に哀愁が漂う。

「それよりも、先生、何か忘れてないかい?」

 少年の言葉に有島はポンと手を打つ。

「なに、忘れちゃいないさ。この前の働きにはちゃんと報酬を渡すよ」

「頼んだよ、先生。駄菓子なんかでごまかされないぜ」

 それじゃ、と言って岩倉少年は駆け出して行った。有島は笑顔のまま硬直している。おそらく岩倉少年に渡す報酬のことなど、頭の片隅にもなかったに違いない。それに今の今、安い菓子でお茶を濁すことを封じられてしまった。

 駄菓子屋の前にたたずんだまま、ため息をつく。

「先生、幸せが逃げますよ」

 そう言うのは、駄菓子屋の手伝いに出ている梅ちゃんだ。着物の袖を布で縛り付けてそろばんをはじき、帳簿に何かを書きつけている。結わえた黒髪の根元で、真っ白なうなじが色っぽい。

 実は有島はこの駄菓子屋に間借りしていたことがあり、せめてものお礼にと、まだ幼かった彼女に読み書き計算を教えた。その甲斐あってか、彼女は高等女学校を一番の成績で卒業した後、こうやって家業を手伝っているのである。ちなみに、まだ「いい人」はいないらしい。

「梅ちゃん、子どもが喜ぶものって何があるんだろう」

「駄菓子以外で?」

「駄菓子以外で」

 梅ちゃんは首をひねった。その拍子に、安物のかんざしがさらりと揺れる――前に、有島が贈ったものだ。有島が以前都会へ出向いたときに、梅ちゃんから「何かお土産を」とおねだりされ、無い知恵を絞って買ってきた。それ以来、彼女はいつもそのかんざしを着けてくれている。

「そりゃあ、軍艦を欲しがらない男の子はいないと思います。ブリキの軍艦」

「ブリキなんて、値が張るんだろう?」

「うーん、五円くらい?」

 有島は「とうてい無理だ」と頭を抱える。梅ちゃんは「冗談ですよ」とからから笑った。

「先生の懐事情はお察ししております。紙めんこなんてどうでしょう?」

「めんこ? それはそれで、安すぎやしないかい?」

「だから、大奮発してたくさん渡すんです。子どもですもの、一番それが喜びますよ」

「なるほどね。それはよいかもしれない」

 鉛めんこに代わって紙めんこが流行り始めたころである。武者絵や力士絵が描かれていて、何枚持っていても飽きない玩具だった。

 うちにも紙めんこはいくらかありますから、と商魂たくましく店内へ誘おうとする梅ちゃんに、有島は情けなく「今手持ちが心もとなくてね」と言う。実際、最近は呑みに行くにもツケばかりだ。

「それにしても先生、なんだって岩倉の坊ちゃんにたかられているんですか?」

「たかられてはいないがね。この前、例の事件を解決するために、ちょっとばかり力を借りたものだから」

「例の事件って、あの尋常小学校の?」

 数か月前、近くにある小学校で大量の教科書盗難事件が起きた。ちょうど「体操」の授業で、生徒たちが全員校庭に集められているときだ。そしてその盗まれた教科書が、翌日、校庭に並べられていたという。すべて、「桃太郎」やら「一寸法師」やら、昔話の頁が開かれた状態で。

 この事件解決に一役買ったのが有島だった。彼は作家としては非常に寡作と言えるが、それは彼の知恵を頼って多くの人間が訪れてくることも関係している。彼はどうにもそういった依頼を断り切れない。その結果、筆は進まず、やたらと事件解決の功績だけが積みあがっていく。

「そうです。子どもへの聞き取りを、彼にお願いしました。子どもって言うのは、大人が聞くと後ろ暗いことを隠すものですから」

「なるほど。それで、お礼をと」

「そのとおりで」

 有島は頭を掻きながら、ではそろそろ、と口にする。雨が降る前に、バーへ入っておきたいのだ。

「あ、先生」

 梅ちゃんに呼び止められる。

「さっき、岩倉の坊ちゃんが『幸薄い』って言っていましたけど、あれは悪い意味ではないと思いますよ。先生は優しくて偉ぶらない人だということを、一部の人がそういう言い方で褒めているだけです」

 梅ちゃんは賢い。有島が思い至らないことまでも、よく観察して、よく理解している。些細なことで思い悩みがちな有島を、こうしてさりげなく支えてくれるのも彼女だった。

「ありがとう」

「先生は、この後帰られるのですか?」

「いえ、バーにお邪魔しようかと」

「あら、大人」

 互いに会釈し合い、有島は再び石畳の上を歩き始める。こういう涼しくて、天気もぱっとしない日には、酒で身体を温めるのに限る。

 不意に目の前を、小さな影が横切った。群れからはぐれた雀だろうか?

 油の匂いが鼻をつく。ガス灯の明かりに蛾が喜んでいる。


 東京にバーができたという。その話を聞きつけ、この辺でも「うちでもバーをやろう」という連中が出てきた。だが、そもそもバーがどのようなものかよく知らないので、結局噂話をもとに、バーのようななんだかよく分からない店を作った。

 汚い字で「バー」と書かれた暖簾をくぐり、有島は店の引き戸を開ける。

「いらっしゃい」

 店主が言う。壮年の気のいい男で、洋服でも着ていれば様になったのだろうが、彼にそんな金はなく結局いつも着物姿だった。もともとはここで茶屋を営んでいたのだが、売れ行きが芳しくなく、思い切ってバーへと商売替えしたのだ。

 と言っても、土間の奥に並んだ畳や座卓は、茶屋時代のまま。少しでもモダンな雰囲気を出そうとしたのか、土間には一目で急ごしらえと分かる木のテーブルが備えられ、座面と背面に革を張った椅子が二脚ほど並べられている。

 有島は革の椅子に腰かける。固い革がぎゅっと鳴った。

「いつものですか?」

「ええ」

 この店に品書きはない。出せるものは酒、しかも日本酒とリキュールの2種類だけという有様だ。それでも稼ぎがあると言うのだから、文明開化恐るべしである。

 びいどろのぐい呑みを店主が差し出してくる。そして、一度店の奥に引っ込んだかと思うと、リキュールの壜を大事そうに抱えて戻ってきた。

 有島の持つぐい呑みへ、とくとくと注ぐ。

 飴色の、いかにも度数の高そうな酒だ。有島はほんの少し口に含んで、ゆっくり飲み下す。

「ぷはあ」

 酒の行方を確かめるように、胸元を撫でさする。

「こいつの灼けるようなうまさを知ったら、他の酒には戻れないですね」

 偉そうに言うのだが、ここに来ない日は安酒ばかり飲んでいる。

店主は慇懃に礼を言い、何かつまみになるものを、と店の奥へまた歩み去った。

 しばし、有島は一人で酒を楽しむ。一気にあおってはもったいないので、ちびちびと貧乏くさい舐め方ばかりしている。

 パラパラと雨がひさしを打つ音が聞こえる。柳田婆さんが言ったとおり、雨が降り始めたのだ。有島は、入口に立てかけた唐傘をちらりと見やる。

 がらがら、と引き戸が開いた。

「突然降ってきやがって」

 入って来たのは、高級そうな洋服に身を包んだ白髪の男である。傘を忘れた、とぼやきながら、肩の雨粒を払う。そこでやっと有島の存在に気づいたらしく、相好を崩した。

「おや先生。お久しぶりです」

「高津さん。こちらこそ」

 高津は有島の向かいにある椅子に腰掛けた。有島は固い笑顔を浮かべる。

 高津が来たということは、ここの飲み代を肩代わりしてもらえるということだ。そして同時に、厄介ごとが降りかかってくるということでもある。

「雨に降られましてね。慌てて避難してきたわけです。それにしても、おかしな具合ですな。雨だと言うのに目の前を雀が飛んでいくわ、酒屋の前には猫が居座っているわ」

「雀も猫も突然の雨に驚いているのかもしれませんね。猫と言えば、最近書斎で執筆していると、たまに庭からじっとこちらを見ていることがあって」

「猫も先生の新作を心待ちにしているのでしょう。もちろん、私もその一人ですがね」

「よしてください。まだ全く進んでいないのですから」

「以前出版された『浪漫ひとかけら』が好きですね。書生と村娘のやり取りがいじらしくて。眠ろうとすると、二人のその後がとたんに気になり始めてしまいます。続編の構想は?」

 有島は首を横に振る。

「私は続編ものが書けないのですよ。どうにも蛇足になってしまいそうで」

「そうですか。残念至極」

 店主が来客に気付き、高津のもとへやって来る。高津は有島と同じリキュールを注文した。

 リキュールがぐい呑みに注がれると、高津は一息にあおり、ハンケチを出して口元を拭った。店主に、もう一杯、と空のぐい呑みを持ち上げる。

「先生、先日はありがとうございました」

「先日?」

「管領の件です」

 有島は「ああ」と言った。先日、名のある将校が部隊の金品を横領したとの話を聞き、調査に協力したのだ。

 高津は面倒ごとを解決するのに、よく有島を頼る。謀反や陰謀の噂を聞きつけては有島に論証を丸投げし、相手を追い詰められるだけの証拠が出そろったところで切った張ったの大立ち回りをするのだ。それによって、有島は小説の締め切りを幾度も破る羽目になっている。

「追い詰めたときの彼奴の顔を、先生にもお見せしたかった」

「私はそういったことに向きません。地道に調べて、考えて、書くだけです」

 話しているうちに、高津のぐい呑みに新たな酒が注がれた。高津はまた一息に飲み干し、おかわりを頼む。顔色一つ変えないが、気分は確実に良くなっているらしい。件の将校をいかにして追い詰めたか、ゲラゲラと高笑いしながら話して聞かせ始める。

 この高津という男、あくが強く一筋縄ではいかないが、どこか憎めない。なおかつ、これでも政治の要職として外交に携わっている実力者だ。以前には、帝国ホテルでオランダの高官を接待したという話も聞いた。

「それで、先生。ぜひ先生の耳に入れたい話があるんですよ」

「また調査の依頼ですか? それでしたら後日と言うことで……」

 有島が断りかけたところで、高津は首を大きく横へ振った。有島は驚いた顔になる。高津が面倒な依頼以外の話をもってきた試しがないのだ。

「実のところ、別件の依頼をしたいと思っていたのですよ。ただ昨晩、この上なく不思議なことが起こりましてね。何を隠そう、私の身に」

「高津さんに?」

「ええ。依頼のことはさておき、そのことを先生に聞いていただきたいのです。こんな話をしても、まともに取り合ってくれる者などいませんから」

 意味ありげに、高津は声をひそめて見せる。

「それで、その不思議な出来事とは」

「昨晩、いつものようにベッドで眠ろうとしましたら、電話が鳴ったのです。仕事の関係で電話線を家に引きましたが、身の回りで自宅に電話を持っている者など数えるほどしかおりません。ですから、夜分の連絡など滅多になかったわけです。不思議に思いながらも、私は電話を取りました」

 有島は神妙な顔で話を聞く。頭の中では一語一句が記憶され、どんな小さな粗も見逃さないよう全神経が研ぎ澄まされているのだ。

「電話の向こうからは、何かをこするような、ツー、ツー、という音が聞こえてきました。こちらから何か問い掛けても一向に返事はありません。ひたすら、ツー、ツーです。そのうち私は、それがモールス信号だと気付きました」

「モールス信号ですか。電報でも使われるという」

「ええ、そのモールス信号です。相手は同じ信号をずっと繰り返していたので、私もメモを取って、解読してみたわけです」

 高津は、それがこれです、と言いつつ胸ポケットから一枚の紙きれを取り出した。慌てて書いたのだろう、そこにはいささか崩れた文字で、次のように書いてある。

『大きなつづらを選べ』

 有島はそれを手に取り、少しばかり長い時間眺め回した。

「高津さんは、もちろん心当たりがないわけですね」

「ええ。突然つづらと言われても、何のことやらさっぱりで」

 高津は、有島から返されたその紙を折り畳み、再び胸ポケットへしまう。そのとき、有島がぼそりと何かをつぶやいた。

「何とおっしゃいました?」

「――舌切り雀」

「舌切り雀? あの民話の?」

 怪訝な顔の高津に、有島はうなずいてみせる。

「『大きなつづら』が出てくるのは、『舌切り雀』です。雀に大小どちらかのつづらを土産に選ぶよう言われた善良なじいさんは、小さいつづらを選ぶ。その中には財宝が入っている」

「強欲なばあさんは、大きなつづらを選んで、その中にいた毒虫だか魑魅魍魎だかに襲われる、という話ですな」

 有島は顎を撫でさすった。考えるときの癖だ。

「私は『舌切り雀』以外に、大きなつづらが出てくる昔話を知りません。この話、どうやら『舌切り雀』と関係がありそうですね」

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