2-②

 人の好意――なのか間違いなのかはわからないものの、そのおかげで少し気持ちが上向いた。午後は何をするんだろう。まずは事務用品補充の続きをやることになりそうだ。そのあとは仕事の説明か、それとも他の業務の実践か。とにかく頑張ろうと、ようやく自分を鼓舞する気力も戻ってきた僕は、アイスコーヒーを手に地下三階の総務三課に戻ったのだった。

 ドアを開け中に入ると、既に僕以外の三人は席についていた。もう午後の仕事が始まっているのかと焦って時計を見たが、まだ午後一時には間がある。

「あ、またアイスコーヒー。今度は光田ちゃん、おまけしてくれた?」

 席でまたスマートフォンをいじっていた桐生が顔を上げ、僕に笑いかけてくる。

「あ、はい。あ、いえ」

 頷いたあと、先程桐生はLサイズの料金を請求されたと思い出し、正直に答えていいのか迷ったため、我ながら微妙な返事になってしまった。

「え? おまけしてくれたの?」

 それでなんだろうが、桐生が確認を取ってくる。はいと言うかいいえと言うか。咄嗟の判断がつかずにいると、助け船の意図があるかどうかは不明ながら、大門が話しかけてきた。

「少し早いけど、午後の仕事を始めるのでいいかな?」

「えー、まだ五分以上あるじゃないっすか」

 それを聞いて桐生がクレームの声を上げる。さすがにこれは注意するだろうかと見やった先では、大門はやれやれというように肩を竦めただけで、咎める気配はなかった。

 こんな感じでは、余所からの苦情なんて本人に言えないんだろうなと、またも大門にがっかりしそうになり、さっき前向きになったばかりじゃないかと思い直す。まずは落ち着いて、と、アイスコーヒーを飲みかけた僕の耳に、大門の声が響いた。

「じゃ、桐生君は放っておいて、この総務三課について、説明を始めるよ。それとも君も五分待てと言うのかな? 宗正君」

「いえっ」

 言えるはずもないし、言うつもりもない。焦って返事をした僕に、大門がニッと笑いかけてくる。

「新人はそうじゃなくっちゃね。それじゃあちょっと来てもらえるかな。ああ、アイスコーヒーは持ってきてもいいけど、零さないでくれよ」

「はい……?」

 どこに行くというのか。零すなと言われたことが気になり、持っていくのをやめる。机の上に置き、打合せならパソコンはいるだろうかと持とうとすると、すかさず大門の声が飛んできた。

「パソコンも手帳もいらない。記憶してくれればいい」

「は、はい」

 なんだろう。まるで今までの彼とは別人のような印象を受ける。当惑しながらも僕は大門のあとに続こうとし、またも首を傾げることになった。

 ドアに向かうと思った彼が向かった先は、壁一面のキャビネットだった。あまり整理されているとはいえず、様々な形のファイルがびっしり詰まっている。せめて高さを揃えるとかすればいいのにと思っていた、そのキャビネットのファイルの一つを大門が押す。

「え?」

 次の瞬間、信じられないようなことが起こった。大門がファイルの背を押した壁面キャビネットだけが奥へと移動したかと思うと、横にスライドし、そこにぽっかりと空間が現れたのである。

「入って」

 肩越しに僕を振り返ると、大門がその空間へと足を進める。入ったと同時に電気をつけたせいで、そこが広々とした部屋だということはすぐわかった。が、なんだってこんな、スパイ映画のような場所があるんだ? 『戸惑う』なんて言葉じゃ追いつかなくて、頭の中がクエスチョンマークだらけになる。

「さあ、入って。閉めるから」

 いつの間にか背後に立っていた桐生に背を押され、わけがわからない状態ながらも中に入る。桐生も一緒に入ってきたかと思うと、振り返って壁にあるボタンを押した。と、扉――キャビネットの裏側は扉状になっていた――が重そうな音を立て、静かに閉まっていく。

「ここがウチの秘密会議室。もう、なんて顔してるの」

 唖然としていた僕を見て、大門が噴き出す。

「秘密会議室ですか?」

 ふざけているのだろうか。しかしふざけてこんな大それた設備をつくるか? 周囲を見渡すと広々とした部屋には、デスクがやはり一ライン、しかしそのデスクは見るからに新品、かつ最新モデルだ。

 その横には打合せスペースがあった。机の上には大型のディスプレイが載っている。

「座って。はい、これが君の二台目のスマートフォン。これは絶対になくさないように。あと、他の誰にも番号やアドレスは教えないようにね」

「会社の……ですよね?」

 既に渡されているのだが。だからこその『二台目』なのだろうが、一体なぜ? やはり少しも理解が追いつかない。

「そのスマホでなら、メモをとってもいいんですよね、大門さん」

 と、昼休み中だと文句を言いつつも結局は共にここへと入ってきた桐生が、横から大門に声をかける。

「いいよ。くれぐれもロックをして、他の人には見られないようにね」

 さあ、座って、と、大門が先に打合せの席につく。

「向かいに座るといいよ」

 桐生に促され、大門の前の席につく。隣に桐生が座り、いよいよ打合せが始まるのだなと緊張して大門を見やった。

「さて、総務三課の表の仕事の内容は午前中に説明したが、これから話すのはこの課の本来の仕事についてだ」

「……はい」

 表の仕事? 裏の仕事があるというのか? それが『本来の仕事』? いやそんな、ドラマじゃあるまいし、と信じがたく思ったせいで、どうやら首を傾げてしまっていたらしい。

「疑問を覚えるのも当然だが、まずは話を聞いてくれ」

 大門に苦笑され、慌てて姿勢を正す。と、大門は尚も苦笑したあと、口を開いた。

「さて、この藤菱商事の評判を地に落とすことになったフィリピン政府高官への贈賄事件についてだけど、当然君も内容を把握しているよね?」

「!」

 思わず息を呑んだのは、その話題は社内ではタブーなのではと思っていたからだった。

「おかげで内定辞退者が続出し、今年の新入社員は例年の半数となった。退職希望者も多い。仕方ないと思うよ。自殺者が出ちゃね」

 大門が肩を竦め、僕を見る。彼が今話題にしているのは、年明け早々メディアを騒がせた藤菱商事関連の事件で、フィリピンでの都市開発事業の一番札を得るため入札を担当する政府高官に賄賂を贈ったことが発覚し、外国公務員贈賄罪で社員が逮捕されたのだ。

 逮捕された海外不動産部長は、厳しい取り調べに耐えかね、自ら命を断った。藤菱商事は贈賄は自殺した部長が自身の判断で行ったもので、会社が指示したわけではないと世間に発表、部長の遺書にもそう認められていたこともあり、結局贈賄に関しては被疑者死亡で送致され、それ以上の捜査の手が会社に及ぶことはなかった。証拠がなかったんだろう。

 警察は引いたが、世論は『会社ぐるみに違いない』というムードとなっている。自殺した社員への同情もあろうが、亡くなった人間に責任を押しつけようとしているという印象を持たれたのだ。会社がまったく知らないというのは無理がある、上司は知っていたに違いない、事実関係を検証するべきだとマスコミが毎日のように書き立てた。が、結局警察が動かないまま事件が収束したせいで、藤菱商事は今や『悪徳』という評判が立つようになっていた。

「マスコミに情報が流れたのは年明けだったけれど、実は警察の捜査はもっと早いタイミングで当社に入っていてね。社内のコンプライアンスを案じる声が上がった。それでこの総務三課が発足したんだよ。コンプライアンス違反を洗い出す部署としてね」

「は……い」

 大門の説明が難しかったわけじゃない。ただ、信じられなかった。それで頭になかなか入ってこなかったのだ。そんなドラマや映画のような部署が、日本を代表するといっていいこの会社に存在するとは思わなかった。からかわれているのか? しかしからかうために用意するには、この秘密会議室はあまりに大仰だ。

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