1ー③

「宗正君って寮?」

「いえ、都内に自宅があるので」

「へえ、どこ?」

「三鷹です」

「通勤、どのくらいかかる?」

 途切れなく会話を続けながら階段を降り、執務フロアに戻る。

「大門さん、買ってきました。三条さんも、はい、カフェモカだったよね」

「どうも」

 三条は未だに画面に没頭していた。ちらと見やると、予定表のようである。

「彼女には貸し出し備品の管理を担当してもらっているんだ」

 と、横からソイラテを取りにきた大門がそう教えてくれた。

「貸し出し備品……ですか」

「今は各会議室にディスプレイやらプロジェクターやらが設置されているから、頻度は少なくなっているんだけどね。色々あるんだ。ポインターや、あとはそうそう、各国の国旗とか。社長のところに海外の要人が来たとき、デスクに飾るんだ」

「なるほど……」

 さすが総合商社。海外の要人が会社に来るなんてと感心していた僕を、三条がちらと振り返る。

「ウチは旗、貸すだけだから」

「あ、はい」

 言うだけ言うと三条は視線を画面に戻してしまった。どうしてわざわざそんなことを言うのだろう、と首を傾げていると、後ろからぽんと肩を叩かれる。

「それじゃあ仕事の説明をするよ。ウチは会議室がないので、席で聞いてもらえるかな」

「わかりました」

 会議室がないということは会議もないのか。三課は課長以外は三人、自分を入れても四人らしいから、わざわざ会議室に入る必要がないのだろうか。

 地下三階ゆえ、当然ながら窓はない。デスクも、なんとなく古びている感じがある。少なくとも新品ではない。座ろうとした椅子の背は布張りだが、薄汚れているように見えた。

 藤菱商事の本社ビルは二十五階建てで、高層階は皇居の緑を見下ろす素晴らしい景観だという。最上階の来客用のレストランは社員も使えるとのことで、上司に連れていってもらうといいと、OB訪問のときに先輩から教えてもらった。

 その日は来るんだろうか。こんな窓のない部屋の古びた机に座り、くたびれた中年にしか見えない上司と、調子のいい茶髪の先輩、それに愛想のない派遣の女性、あとまだ見ぬもう一人の課員と、これからどんな仕事をするというのか。憧れていた商社パーソンになれるのか、自分は。

 やさぐれそうになっているのに気づき、いけない、と気持ちを切り換える。まだ説明を受けてもいないうちから、悪いほうに考えてどうする。常に前向きに。くさっていいことは一つもないのだ。

 そう自身に言い聞かせていたが、大門が始めたチームの説明を聞くうちに、鼓舞した気持ちはすぐに萎んでいった。

「総務三課は去年新設された部署でね。一課二課とはフロアも仕事も違うんだ。うちの主な仕事は社内の什器備品関連とでもいおうか、さっき説明した備品の貸し出しや、事務用品の補充、社内で配置換えがある場合の手配や、大人数の会議室の予約管理など。ああ、他には蛍光灯が切れたという連絡がきたら替えにいくとか、そういったことが業務内容になる」

「……はい」

 備品の貸し出し、事務用品の補充。それに蛍光灯の交換。仕事を差別してはいけないし、それらの仕事は誰かがやらなければならないということはわかっている。でも自分がやると思うと、やるせなさを感じてしまう。新入社員のうちから、やりたかったことができるわけではないと、研修中、先輩からの講話でも聞いていた。右も左もわからないうちに不満を溜めるのは建設的ではない、三年間はそのポジションで力を尽くすことが大切だという話を聞いたあと、新人仲間では、やはりこの会社は旧態依然としているという意見が多く出た。今どき、三年も我慢しろなんていうのは古い、せめて一年だろうというのだが、僕自身、確かに三年我慢はキツいだろうなという感想を抱いたものの、一人前といわれるようになるにはそのくらいかかるってことなのかもしれないと前向きにとらえようとしていた。

 しかし実際、今言われた仕事を三年頑張れとなると、さすがにつらい。溜め息が出そうになり、慌てて堪える。まだ仕事を始めたわけではなく、説明を聞いただけだ。憂鬱になるのは早すぎる。もしかしたらやり甲斐のある仕事かもしれないし、と再び必死で自分を鼓舞していく。

「がっかりしたかい?」

 それでも顔に出てしまっていたのだろう。大門に顔を覗き込まれ、僕は慌てて「いえ!」と首を横に振った。

「君の配属希望は海外の発電所や水事業のプラント建設に携わることだと聞いているよ」

 大門が手元の書類を見ながら指摘する。

「はい。貧しい国のインフラを整える仕事をするのが夢です」

「入社面談みたいだね」

 自然と声が弾んでしまったのが可笑しかったのか、横から桐生の突っ込みが入る。

「志望動機にはこう言えばいいとか、OBに聞いたりした?」

 からかわれていることはわかったが、あまり気持ちのいいものではなかった。別にこれは面接用の答えではなく本心なのだ。それをわかってもらいたくて言葉を足す。

「いえ。大学二年のときに参加した青年海外協力隊で、モンゴルを訪れた際に感じたことです。インフラが整っていれば人々の生活ももっと楽になるのではないかと」

「だから総合商社を志望したんだね」

 大門が頷いたあとに、「しかし」と続ける。

「ウチの会社、年明けに色々あったけど、入社をやめようとは思わなかったのかい?」

「……っ」

 まさかそんな問いかけをされようとは思っていなかったので絶句する。どう答えるのが正解なのだろう。気にしていませんと言えば嘘になる上、『あんなこと』を気にしない神経を疑われそうである。しかしこれはタッチーな話題だと思っていたが、違ったのかと大門を見る。大門も僕を見返していたが、相変わらず覇気のない表情からは彼の心はまったく読めなかった。と、そのとき、

「あ、大門さん、そろそろフロアを回る時間なんすけど」

 桐生の一際明るい声が室内に響く。

「もうそんな時間か。我々の仕事は説明よりまず実践だから。桐生君、よろしくね」

 大門が壁掛けの時計を見上げ、疲れたような口調で桐生に頼む。くたびれた中年という見た目の印象は、彼の本質なのかもしれない。やる気というものが感じられない上司のもとで働くことになるのかと、憂鬱な気持ちが高まっていく。

『我々の仕事』は説明より実践。今まで聞いた限りの仕事は、一言で言ってしまえば社内の『雑用』なのではないかと思う。どうしてこの部署に配属となったのだろう。研修中、何かとんでもないミスをしでかしてしまったとか? 最後にテストがあったけれど、普通に合格したはずだ。講師の社員を怒らせた? 問題を起こした記憶はまったくないが、気づかないうちに何かしていたと、そういうことなんだろうか。

「毎日十一時頃に各フロアの事務用品が足りているか、チェックのために回るんだ。ちょっとめんどくさいけど、ま、慣れちゃえばどうってことないから」

 こっち、と桐生に導かれ、事務用品の倉庫へと向かう。

「このワゴンに事務用品が一式入ってる。ボールペンとかノートとか、あとはファイルとかクリアフォルダーとか。各フロアに事務用品のコーナーがあって、それを補充していくのが俺らの仕事ってわけ」

 言いながら桐生が僕に、バインダーを渡してくる。

「これが各フロアの事務用品のストック数。常にこの数になるよう、補充すること。それじゃ、さくっと回ろうか。とはいえ、この時間、荷物用エレベーターは混んでるんだよねえ」

 やれやれ、と、桐生が面倒そうな声を出す。彼もまたやる気がなさそうだ。その姿を目の当たりにする僕の口からは、もうちょっとで溜め息が漏れてしまうところだった。

 桐生の言ったとおり、エレベーターは各階で停まり、上からなかなか降りてこなかった。やっときた箱に乗り込むと桐生は上から二番目の階のボタンを押した。

「最上階は接待用レストランだから。すぐ下が役員フロア。チェックするのは秘書課の事務用品コーナーだよ」

 その最上階一つ下に行くまでに、長々時間がかかったのは、やはり各フロアで清掃の係の人たちが乗り込んできたからだった。

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