レモネード

@arimina

第1話 物語という名の少年

目が覚めるたび、一日の終わりが朝ならば、こんな憂鬱な気持ちになることはきっとないのにとれもんは思う。 


 ベッドのすぐ横に窓がある。ごく普通の障子がはまっている窓だ。障子はれもんのアパートがあまり新しくはないことを示すように、木枠の縁にあたる障子紙が茶色く変色している。


 障子に手をかけてがらりと開けると、窓の外には濃淡の少ない灰色の空が広がっている。曇りの日はまだいい。晴れた日はよくない。青空が憂鬱な気持ちと相反して、迫ってくるから。雨の日もよくない。雨音と湿気が憂鬱さをより濃くするから。今日はまだいいのかもしれない、朝ご飯にしようとれもんは立ち上がった。


 トーストとお弁当にいれた卵焼きの残り、あとはプチトマト。これらがれもんの朝食の定番である。れもんの自室の隣、ふすまで仕切られただけの居間で、ちゃぶ台で本を読みながら食べる。


 なんとなく点けているだけのテレビでは朝のニュースをやっている。親が子を殺した殺人事件、政治家の汚職事件、芸能人のスキャンダル。どれもかれもれもんの興味を引くものはなく、視線はずっと左手の「斜陽」に向けられている。唯一れもんが気にしているテレビ画面の左上、時刻を示す数字の並びが7:35になるとれもんは本を閉じ、食器を流しにいれ、歯を磨いて、アパートのドアを開けた。


 れもんの通う高校までは歩いて15分、れもんの自宅から一番近い駅のそばにある。そもそもこの高校に通うことを決めたのも、


 ・公立であること


 ・国立大学への進学率がそこそこいいこと


 ・歩いて通える距離にあること


というれもんの条件を満たしていたからだった。制服はいまどき珍しい武骨なセーラー服で、おしゃれな制服を好むような女子ならば絶対に通わない。派手な校風とは対極点にある高校、それがれもんにとってはちょうど良かった。


 その高校に通い始めてもう半年にもなるのに、いまだにれもんは高校で自分の居場所を見つけられずにいた。いつから同年代の子たちと、自然に話せなくなっただろう。ああ、それは小学4年生の頃からだ。


れもんははっきりと自分の中にある原因に気づいているのに、その問題を16歳になる今日まで解決することができないのだった。だんだんとれもんの秘密を知る者は母親の香子や親戚だけになり、れもんの心の澱に触れる者は誰もいない。それはありがたいことでもあり、寂しいことでもあった。


 学校に行きたくない。でもどこに行きたいのかもわからない。早く大人になりたい、母一人に苦労をかけず、自分で行きたい場所に行ける大人に。


 これから高校生たちの喧騒で埋め尽くされる校舎に、れもんはたどり着き、かすかに空気を震わせるほどの小さなため息をついた。


 


 同じ朝、れもんの高校の最寄駅にサガは降り立った。サガは生まれて初めて自分で切符を買い、たった一人で電車に乗った。車窓から見える町並みが海街を過ぎ、サガが降りる駅に近づくにつれ、住宅が増え緑が少なくなっていった。


 その景色はかつてサガが母と暮らしていたルーマニアの町を思い出させた。


 あの町の家々の屋根はなぜかすべてレンガ色だった。家の様式までほとんど同じで、今更ながら町の子供たちがどうやって自分の家を見分けていたのかが疑問に残る。もっともサガ親子は町の住宅地から外れた、古い小屋に住んでいたのでそんな心配はなかった。


 サガは高架を走る車窓から、色も形も違う屋根を見下ろしながら、ルーマニアで母と過ごした町を思い出し、少し泣いた。


 いつだって孤独ではないときはなかったはずなのに、母が死んで本当に一人になると、体の中がすかすかになったような、何か自分の中にある芯のようなものがなくなってしまったような、心もとなさがこみあげてくる。


 読書をしないサガにはこの気持ちをうまく言葉にすることができない。夕飯の時間なのに家に食べるものがなにもなくて、買い物にも行けないまま、日が暮れていくときに似ている…。


 サガは涙をふき、この電車から降りたら今後自分のためには泣くまいと決めた。良くも悪くも本当に一人だからこそ、これからは何もかもが自由に決められる。取り急ぎアパートに着いたら何か食べよう。そして仕事を探すんだ。


 俺は頭もそんなに良くない、何か得意なことがあるわけでもない。ただ笑顔だけは母さんによく褒められた。


 電車の車窓に無理やり口角を引き上げて、笑顔を作ると、鋭い二本の犬歯が見えた。


 


 れもんが学校で一番嫌いな時間はお弁当の時間である。四時限目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、みんな机をがたがたいわせながら、お弁当を食べるためのフォーメーションを作る。教室の喧騒に背を向けて、れもんはお弁当を小脇に抱えある場所へと向かう。


 れもんがお弁当を食べるのは、図書室の外にあるパソコンを使うスペースだ。図書室の中は飲食禁止なので、苦肉の策として選んだ場所である。まだ昼食が始まったばかり時間には誰も図書館付近には来ない。パソコンでニュースを見ながら、黙々とお弁当を口に運ぶ。


 あとどれくらいこの時間を過ごしたら、卒業できるのか。学校で食べるお弁当は、冷たくなったご飯のせいもあるが、味がしない。


 下校の時間になり、れもんは帰り道を急いだ。今夜は夜勤明けの母とゆっくりご飯が食べられる。夕飯のための買い物をすませて、お米を研いで、お風呂掃除をして。今日は魚が安い日だから、母の好きな秋刀魚があったらそれを買おう。里芋がまだ残っていたはずだから、煮っころがしにしよう。


 放課後になるとれもんの頭の中は、家事のことでいっぱいになる。学校にいるときよりも、家のことを考えている時間がれもんは好きだった。


 ただこの日の帰り道がいつもと違ったのは、スーパーに寄り家まであと5分という距離で、ある男にであったからだ。


 初めれもんはその男の横を素通りしようとしていた。通り過ぎようとしたれもんを男の声が呼び止めた。


 「すみません」


 ふいに呼び止められてれもんはちょっと驚いた。だが、驚いたのは呼び止められたことだけでなく、その男があまりに美しかった


からだ。


 よくよくみると男は、まだ少年と呼ぶのにふさわしい年頃に見えた。真っ黒な髪とは対照的に、真っ白な肌をしていた。日本人のような白さではなく、白人のようなピンクがかった白い肌。眉毛、睫毛は黒々としていて、はっきりとした二重瞼の瞳を際立たせている。すっと通った鼻筋の先に、不自然にも見えるほどの赤い唇がある。上唇が薄く、口角が上がって見える唇。


 日本人離れした美しさに、れもんは少年がハーフであることに気付いた。ただ少年が美しいことは、れもんが少年と親しく話をすることにまったく関係がない。れもんはやや警戒心をにじませた声で


 「なんでしょう」


と少年に対し答えた。


 れもんが返答してくれたことで、少年は少しほっとしたように表情を緩めた。


 「道に迷ってしまって。このアパートまでどうやって行けばいいかわかりますか」


 困ったようにへらっと笑うと、少年の整った美しさが崩れ、親しみやすい顔になった。差し出された地図をれもんが覗き込むと、赤丸がついている場所は、れもんが住んでいるアパートだった。


 さすがに初対面の少年にこのアパートはわたしが住んでいる場所です、とは言えず


 「家の近くなので、一緒に行きましょうか」


とれもんは提案した。それを聞くと少年は、この上ないというほどの笑顔で


 「ありがとう!」


と、れもんの両手を握りしめた。誰かと今日一日話すこともしなかったれもんは、その大袈裟なまでの少年の触れ合いにたじろいだ。白すぎる少年の手は、見た目とは裏腹にちゃんと人間の体温がした。


 アパートまでの道のりを、れもんと少年は並んで歩いた。少年はれもんより頭一つ半ほど、背が高く、れもんは歩きながら少年の肩の気配を顔の横に感じていた。


 「制服を着てるってことは、高校生?」


 少年はにこにこと笑みをうかべながら、人懐こくれもんに訊ねる。


 「はい」


 ふとこの人はいくつくらいなんだろうかと、れもんは考える。自分とそこまで歳がかわらないかもしれない。


 「俺はね高校行ってなかったから、なんか羨ましいよ。青春っていうの?みんなで勉強したり、給食食べたりするんでしょ?」


 勉強とか給食とか小学校でも、中学校でもありますけど?とはさすがに言えなかった。


 「学校行ってなかったんですか?」


 「家庭の事情でね。詳しくはひみつ」


 少年はいたずらっぽくにやりと笑い、人差し指を赤すぎる唇に当てた。


 れもんの頬がさあっと赤くなる。からかわれてるんだ。こんな行きずりの人に。真面目にやりとりして馬鹿馬鹿しい。早く帰って夕飯の準備がしたいのに。


 「着きましたよ。ここです」


 れもんは少年にアパートを指さし、見送ると少し離れた場所で、少年が部屋に入るのを見守ろうと思った。自分が同じアパートの住人であるとばれないように。少年がアパートの外階段を上り、二階部分にある一室のドアにたどり着く。


 いやだな。わたしの部屋の隣じゃない。やにわに少年はれもんの方に振り向くと、


 「ありがとー!」


と両手を振った。「伊豆の踊子」の踊子が主人公に手を振るみたいな、無邪気なしぐさに、学校に行ったことがないって本当かも、とれもんは思った。


 やや時間を置いてから、れもんは自宅のドアを開けた。玄関を開けると左側にすぐ台所があり、居間と一続きになっている。ちゃぶ台は実は炬燵で、ここの家では朝昼晩と食事をそこでとる。今はれもんの母がお茶を飲みながら、みかんを剥いている。


 「おかえり、れもん」


 母の目じりに薄いしわがよる。いつだって母はれもんに対して笑顔だ。それはれもんの父が亡くなった後からだろうか。いやその前から母は、れもんに笑顔しか見せない。母の思いつめたような悲しい顔、やりきれないような疲れた顔は、眺めることでしか見たことがない。


 「秋刀魚がね、欲しかったけど無かった」


 ちゃぶ台に買ってきた食品を置き冷蔵庫に入れながら、れもんが言う。


 「うん」


 「かわりにね、もうぶりが安くなってたから買ってきた。大根あるよね。ぶり大根にするけどいい?」


 「今日は休みなんだから、母さん作るわよ」


 みかんを頬張りながら、ちゃぶ台の上を片付け始める母を、れもんが止めた。


 「いいから座ってて。里芋は煮物にしようと思ってたけど、しょうゆ味がかぶるから、マヨネーズで和えるよ」 


 ふふ、と母が笑う。


 「何?」


 れもんが笑った母を見ると、人差し指にみかんの小房をつまんで、れもんに食べさせようとしていた。


 「あなた女子高生のくせに、主婦みたいなこと言うんだもの」


 おかしくって、ふふふと笑いながら、れもんの口にみかんを入れた。れもんはもごもごと口を動かす。


 「おいしい?」


 「ちょっと酸っぱいよ、これ」


 「やっぱり?まだ早いかしら」


 もう少し寒くならないとねえ、みかんはおいしくないわよね、と言いながらなおも母はみかんを口に放り込んだ。


 


 時を同じくしてれもんが母と住む部屋の隣で、少年こと藤野サガは引っ越しの荷物の整理をしていた。


 もっとも荷物といっても布団が一組、母の写真が数枚、冷蔵庫、食器棚、そして母の形見が入っている空き瓶だけだった。


 サガは空き瓶を食器棚の一番奥にしまい、両手を合わせると、部屋をゆっくり見まわした。


 ざらざらとした砂壁、色あせた畳、玄関の右側にある台所は一部分が板の間になっている。サガは畳の上に大の字に寝てみた。


 さっきの女の子、いい子だったな。こんな風体の俺に道案内までしてくれた。学校の帰り道なら、この辺に住んでいる子かも。また会えるだろうか、サガは思った。また会いたいな、会ったらお礼をしないといけないな。 


 また近くであの女の子と再会する。俺はそのときは仕事も決まっていて、財布には一万円以上のお金があって、あの女の子をどこかの喫茶店に誘う余裕があって。喫茶店では女の子にはフルーツパフェか何かの甘いものを奢る。俺はコーヒーを飲みながら、パフェを食べるのを眺める。女の子がパフェを口に運ぶと、ほらあの仏頂面に笑顔が浮かぶ。


 都合のいい空想を思い浮かべながら、サガは今の空想を現実にするためにクリアすべき問題がいくつあるかを考えた。


 とりあえず仕事!とりあえずお金!お礼と称したナンパまがいの行為があの子に受け入れられるかは論外として、お腹がすいたとサガは思った。


 


 れもんが夕食の支度を済ませ、ちゃぶ台の上にできたおかずを並べていると、玄関のチャイムがなった。れもんは母に目くばせをして、手が離せないというジェスチャーをした。


 母がドアを開けると、そこにはれもんが先ほど案内した少年が立っていた。


 「隣に越してきました。藤野サガです」


 にっこり、というような言葉にふさわしい笑顔を見せる。謎の少年、藤野サガ。


 「あら、ご丁寧にありがとう。水口といいます」 


 こちらも好意的な笑顔を見せるれもんの母。理想的な笑顔と笑顔の競演だ。


 サガはティッシュペーパーとラップが入った袋を手渡した。以前母と長年住んでいたルーマニアから日本に移り住んだとき、このように挨拶まわりをしていたことを、夕飯を買いに出た途中で思い出したのだ。


 「わざわざすみません。そういえば、娘にも挨拶させますね」


 「娘さん?」


 玄関のチャイムが鳴ったときから、なんとなく彼ではないかとれもんは思っていた。いつかはわかることだし、と思いつつ半ば諦めに近い気持ちでれもんは隠れていた奥の部屋から出てきた。


 「どうも」


 サガの目が見開くのを、気配で感じる。直接目を見てはいないが。


 「さっきの、女の子!」


 「知り合いだったの?」と母がれもんに聞く。


 「道案内をしてくれたんですよ。このアパートに来るまでの」


 れもんが答える前にさえぎってサガが言う。


 これからよろしくね、と差し出された右手を軽く握って、つくづくスキンシップの激しい人だとれもんは思った。


 サガの挨拶が終わり、れもんと母が夕食を食べ始める。母は


 「感じのいい子だったね」とれもんに言った。


 「そうかな」


 「それに綺麗な顔ね。ハーフかしら。モデルみたい」 


 「ハーフなんじゃない?名前もサガだし」


 サガ。人間の性。すべての名前には由来があると、れもんは思っている。 




 翌日、れもんは学校が終わると、家の方向とは反対の賑やかな駅前通りに出た。駅から一キロほどの道に大きいスーパー、パン屋、服屋、カフェ、手芸屋などが立ち並ぶ。古くからやっている店もあるが、最近は若い店主が開いている店も多い。そのような店の中でもすぐに潰れる店もあれば、ほそぼそと長く続いている店もある。


 これかられもんが向かおうとしている恩田古書店は、駅前通りにある店の中でも一、二を争うほどの古さだ。


 隣に恩田税理士事務所があり、こちらが本業なので、古書店の方はおまけでやっている。何度も店をたたむ話がでているが、そのたびに古くからの常連客だのから文句を言われ、最近はその話もめっきり出ていない。


 恩田古書店および、恩田税理士事務所はれもんの母、水口京子の実家でありれもんの叔父が経営していた。


 「こんにちは」


 れもんが恩田古書店のがたがたいう引き戸を開けると、いつも叔父が座っているレジカウンターにいとこの華子がいた。


 「れもんちゃん!いらっしゃい」


 恩田古書店の中は本の森である。壁際の本棚はほぼ天井近くまでの高さがあり、およそ普通のはしごでは届かないような場所にまで、ぎっしりと本が敷き詰められている。棚に入りきらない古雑誌、子供向け図鑑などは床からうず高く積まれ、狭い通路を更に狭くしている。真ん中の比較的手が届きやすい場所にあるスチール棚は、二つ並べて置いてあるせいで、棚と棚の間が、細身のれもんがぎりぎり入れるほどの空間しかない。


 初見で恩田古書店に入った人は、まずこの空間の狭さと古さに怖気づく。そんな人を横目に常連客は、カニ歩き(あまりにも店が狭すぎるのでその歩き方しかできない)で棚から棚を物色し、本を買っていく。このように時代が昭和で止まっている店だから、ここで本を買う常連客はほとんどがお年寄りで、れもんはこの店の中では一番若い常連客だった。


 「華ちゃん久しぶり。会社は今日お休み?」


 「創立記念だったの。家で寝てたらお父さんに叩き起こされて、店番する羽目になっちゃった」


 華子はれもんのいとこで今年31になる。製薬会社の事務員をしていて、休みの日は店に出ることもあるが、平日にいるのは珍しかった。


 「文庫の棚、カ行までなんとか揃えたけど、まだぐちゃぐちゃだね」


 れもんも休みの日は時々恩田古書店の手伝いをする。この間は文庫本が作者名も何も気にせずに、乱雑に置かれているのはいかがなものかと華子と話し合い、なんとかア行からカ行まで作者名順にそろえたのだった。


 「川上みえこと川上ひろみの間に、北杜生が挟まってた」 


れもんが「どくとるマンボウ航海記」をレジに置く。


 「うちはお客さんも気にしないからねぇ。無秩序なのが当たり前の場所だから」


 無秩序なあたたかさ。それをこの店に来る人はきっと愛している。整頓好きなれもんも、このちょっと雑な本の置き方や古書の匂いがもたらす安らぎが好きだ。すぐに探したい本を探せないのは困るが。


 「れもんちゃん、高校は楽しい?」


 華子は何気ない世間話の一つとして、れもんに話題を振ってみた。だが、すぐにしまったと思った。


 「ううん」 


 すこし伏し目がちにれもんが言う。れもんが人とうまく話せなくなった理由を、華子は家族から聞いていた。


 「わたしもさ、学校つまんなかったよ。授業とかだるかったし、嫌な先生とかいたしね」


 れもんを元気づけようと、華子は言ってみる。実際のところ華子は友達も多かったし、恋愛もするなど、勉強以外の高校生活は充実したものだった。 


 れもんに会うたび、華子は惜しいと思う。


れもんは目立つほど美人ではないが、小さな顔の中に奥二重の目、鼻筋、薄い唇が整っており、清潔な可愛らしい顔をしている。首筋も細く、全体的に華奢な体つきで肌の色は白い。髪の毛の色素も薄く、明るいところでは染めいているようにも見える。


 目立つタイプではないが、全体的に見てれもんは可愛い少女だと華子は思う。


 ただ、制服の着こなしが、持ち物がださい。


 セーラーのリボンは膨らませて結ぶのが今も昔も人気なのに、れもんの胸の上のリボンはただ結ばれているだけだ。スカートも校則を守って、ひざがしっかり隠れる長さ。髪の毛は胸より少し上の長さで、きっちりと三つ編みを結っている。


 せっかく可愛いのに、もったいない。おしゃれして、髪形を変えて、笑顔を見せればきっと友達の一人や二人はすぐできる女の子なのだ。本人がそれに気づいていないだけで。実に惜しいと華子はいつも思う。


 「そういえば、華ちゃん見てるの旅行雑誌?どこか行くの?」


 話題を変えようとれもんが言った。奥二重の目の下が少し膨らんで、笑っているときの目の形になる。


 「うん。彼氏と沖縄行こうかなって」


 華子には付き合って二年の恋人がいる。れもんは会ったことがないが、恋人の話をするたびに饒舌になる華子を可愛いと思う。可愛くて、本屋の娘の華子を羨ましいとれもんは思う。そして幸せになってほしいと心の底から思っている。


 れもんと華子は性格も生活の仕方も違うが、共通しているのはお互いがお互いを好ましいと思っていることだ。歳の離れた二人は、実際の姉妹のようになんでも話せる間柄だった。


 「学校以外のことでなんかおもしろいことあった?」


れもんから差し出された本を手早く袋に入れながら、華子が訊ねる。


「そういえば」とれもんが口を開く。


 「うちの隣にハーフの人が引っ越してきた」


 「ハーフ?美人なの?」


 「美人というか、男だよ。学校行ったことないんだって」


 華子はいぶかしげな顔をして


 「れもんちゃん、それからかわれてない…?」


 「かもしれない…」


 れもんは少し上を見上げながら、人懐こい藤野サガの笑顔を思い出した。


 「怪しい男じゃないといいね。れもんちゃんとこは女所帯なんだし」


 「お母さんは気に入ってたみたいよ。そのハーフ」


 「歳はいくつくらいなの?」


 「まだ若いと思う。わたしより少し年上かな」


 誰かに話していくごとに、れもんの中で謎の隣人藤野サガがはっきりと実体になっていく。黒い髪、白い肌、赤すぎる唇。


 「どこの国のハーフなんだろ」


 華子から差し出された本の袋を受け取りながら、れもんがポツリとつぶやいた。


 珍しい。れもんちゃんが他人に興味を示している。


れもんから好きな芸能人の話すら聞いたことがない華子は、ただのアパートの隣人に興味を示す彼女に驚いた。


よくわからないけど、謎の隣人君。れもんちゃんをよろしくね。


心の中で華子は指を折り祈る気持ちで、れもんを店先から見送った。




その日は金曜日だった。空は晴れすぎていないし、雨でもない。れもん好みの曇り空だ。


金曜日の放課後は、いつもより気分が明るくなる。二日間学校に行かなくてすむし、夜更かしをしても、寝坊をしてもいい。今夜から読む本を何にしようか、れもんは足取り軽く帰路に着くところだった。


れもんが母と暮らすアパートの202号室の前に、サガが手すりに顎をのせてぼんやりとしている。れもんが帰ってくると、うすぼんやりとしていた目が見開き、にっこりと笑った。


「お帰り。君を待ってた」


待たれる用事なんてこちらにはない、とれもんはいぶかしがったが、そのままにもしておけないので、サガを部屋にあげた。


「どうぞ、母は今日夜勤なので家にいませんが」


言いかけてれもんは、誰もいない家によく知らない人をあげるのは不味いかもしれないと思った。金曜日がいつも冷静なれもんの判断力を狂わせる。それだけではなく、サガのやたらに人懐こい相貌も、れもんを戸惑わせる一因だ。


なぜこの隣人はやたらに笑顔で、こうもずうずうしいのに、わたしは彼を拒めないのだろう。


「ありがと。辞書を貸してほしいんだ」


サガが立ったままれもんに語りかけるので、れもんはちゃぶ台の下にある座布団を勧めた。


「普通の国語辞典でいいですか」


れもんは家用に使っている国語辞典を、奥にある自室の本棚から取り出した。


「買おうと思ったんだけど、思いのほか高くて」


サガはれもんから辞書を受け取ると、妙に神妙に両手を顔の前で合わせた。


お茶でも出そうとれもんが台所に立つと、懐からサガは白い紙のようなものを取り出して、ちゃぶ台の上に置いた。


「少しの間このちゃぶ台を使わせてもらってもいい?」


よく見ると紙は履歴書だった。


「家にはテーブルもなくて、畳の上で書くと文字ががたがたになるんだ」


ずうずうしい、どこまでもずうずうしいと思いながら、断る理由もないれもんはどうぞと言った。


「お茶とお菓子はちゃぶ台に置いてもいいですか。他に置く場所がないから」


もちろん、といいサガはちゃぶ台の履歴書を少し隅に追いやった。二つの湯飲みには淹れたての煎茶が湯気をたてている。貰い物の黒糖饅頭も一緒に添えられている。


れもんは辞書とちゃぶ台を貸すかわりに、この隣人の経歴を見てやろうと思い、横に座った。いつもなら三角座りをするところだが、制服のままなので正座を少し崩す形で座る。


サガは真剣な面持ちで、ペンを握り、履歴書に向かっている。いよいよ経歴のところに差しかかると、サガはれもんに向き直って


「ひとつ聞いていい?」


と質問した。


「わ、わかることなら」


「この経歴って高校とか大学とか見本に書いてあるけど、高校とか大学以外に何を書けるの」


「職歴とかじゃないですか」


「職歴以外なら?」


そこまで聞かれると、れもんも言葉に詰まってしまった。まさかこの人、本当に学校に通ったことがないのか。


「学校通ったことがないって本当だったんですか」


サガはペンを置き、お茶に手を伸ばした。いただきます、と言い黒糖饅頭を頬張る。


「ルーマニアの村で母と暮らしてた。母は日本人で、民俗学者をしていたんだ。小さな村だったから、よそ者の俺たちは隠れるように、家の中ばかりにいたよ。日常会話は日本語でしていたけど、家にはルーマニア語の本ばかりだったから、書くのは苦手で」


サガは黒糖饅頭を一口で飲み込み、お茶を飲んだ。


「簡単な計算、歴史、世の中のしくみは母に教わってた。だから学校にいったことがないのは本当」


そういうことなんだ、そう呟くサガが笑う姿がれもんには寂しそうに見えた。一瞬だったが、サガの本当の姿を垣間見た気がした。寂しそうなサガを見ると、なぜかれもんも寂しくなった。


「ただ経歴欄が白紙だと、流石に不味いと思います」


寂しさを振り消すように、言ってみた。


「そうだよね」


まあ何とかするよー、とにっこり笑顔を見せ、もう一つ聞いていい?とサガが笑った。


「水口さんの下の名前は何」


れもんはついに来たか、と警戒した。両親が付けてくれたれもんという名前で、今までに色んな苦労をしてきた。小学校に入学すると男子にからかわれ、中学生のときは名簿で名前を見た知らない生徒がクラスまで見に来た。


れもんという名前は、どんな可愛い女子かと人に期待を抱かせるようで、見に来た生徒にはなんだ暗そうな奴とまで言われるおまけつきだった。


 だがれもんがこの名前を嫌いかというと、そういう訳ではない。それはれもんがこの名前の由来を気に入っているからだ。


 れもんは辞書と同じ棚に入れていた本の中から、臙脂色のビロードが表紙になっている


 「梶井基次郎全集」


 を取り出した。


 サガの前でページを繰り、ある短編のタイトルを見せた・タイトルは


 「檸檬」


 サガには初めて見る漢字だった。目を丸くして、ページから顔をあげ、れもんを見る。


 「この小説の題名がわたしの名前です」


 この名前の秘密を簡単に教えたくない。ばかげたことをしている、とれもんは思った。でもそれは衝動だった。


 「この本と辞書を貸します。貸すから、わたしの名前はまだ教えません」


 面食らった表情をしていたサガではあったが、れもんから本を受け取るとにやりと笑った。


 「これは挑戦状なんだね」


 こくりとれもんが頷いた。


 「受けて立とうではないか。もし名前がわかったら下の名前で呼んでいい」


 なおも頷く。頷くしかないではないか。


 「俺のこともサガって呼んで」


 不思議な取引が金曜日に執り行われた。ただのアパートの一室で。サガが去ってから、自分の名前を出し惜しみした上に、暴かれようとしていることに軽い羞恥を感じた。でも、楽しんでいるみたいだし、日本語の勉強にもなるし。


 れもんは帰宅後ずっと着ていたセーラー服を脱ごうと、紅いリボンを襟から抜いた。しゅるりと音を立ててリボンは抜けた。


 


 取引の次の日、れもんからの挑戦状を手に、サガは駅の裏にある喫茶店のカウンターにいた。


 その日はよく晴れていた。誰もいない家に一人でいるのにも飽き、ルーマニアにいた頃には出来なかった、外を思い切り歩き回るということをサガはしていた。


 景色がくるくる過ぎていき、九月の日差しはいまだまぶしい。長いこと外にいるのはサガの体には堪えるので、今までは避けていた太陽の光を、なかばやけくそな気持ちで思い切り浴びていた。


 それにしてもお腹がすく。引っ越してきてからずっとサガは空腹だった。コンビニのご飯にも飽きて、何か家庭的なものが食べたかった。


 駅前の通りにはいくつかの店があった。ただどの店もサガが入るにはためらわれる値段だった。 


 どこか安い店はないかと、駅の裏通りをてくてく歩くと、老舗喫茶のような佇まいの店の前に、その店では男性の店員がいて、店の前を掃除していた。


 店の看板には「CafeBar Grandpa」とある。


 「開店時間ならもうすぐですよ」


 箒を手に、店員が笑顔でサガに言った。喫茶店は古めかしいのに、その店員はやや若く30代に見えた。眼鏡をかけ短髪の黒髪を立たせている。顎のあたりに少し髭を生やしていて、サガはこの人が店長かもしれないと思った。


 「食事ってできますか?」


 入るつもりはなかったが、何か聞かないといけない空気を感じ、聞いてみた。


 「ナポリタン、カレー、オムライスとか」


 窓のところを箒を持っていた手で指さすと、そこにはナポリタンランチ600円などの貼り紙がある。


 「寄ってきますか」


 いやに人懐っこい、ひげ面で店員に言われると、サガは断りにくかった。まあほかの店に比べて、ずいぶん安いし。こうしてサガは喫茶店に入った。


 亡くなった祖父がオーナーをやっていたと、店員が告げるその店は、長らく純喫茶だったという。それを、地元を離れバーテンダーとして働いていた店員が、カフェ兼バーとして新しく開いたと教えてくれた。


 使い込まれた鼈甲色の木のカウンターに、バーで使うようなスツールが並ぶ。窓際に三つほどのボックス席があり、そちらもテーブルは木でできている。店全体は老舗喫茶の面影を残しているが、カウンターの後ろには様々な酒瓶が並んでいる。おそらく喫茶店の頃にはなかったであろう、備え付けのビールサーバーもある。


 喫茶店の所々に、バーの様相が見え隠れする。落ち着く店だ。夜になったら今は灯されていないランプが、きっと綺麗なんだろうなと、サガは思った。


 店員はサガが頼んだナポリタンを調理している。待っている間に、昨日れもんから借りた、「梶井基次郎全集」を開いてみる。


 「檸檬」は短い小説だ。主人公が何かえたいのしれない不吉な塊を胸に抱えて、悩んでいる。その中で見すぼらしく美しいものに心惹かれている。向日葵、カンナなどの花々、花火、びいどろという色硝子。サガは花火は写真で見たことがある。色硝子はきっと家にあったステンドグラスのようなものだろう。


 主人公は金がない。この点においてはサガは深く共感した。町から町を彷徨っているところも自分と似ている。主人公は果物屋に寄る。そこで問題の「檸檬」が出てくる。


 「おまちどうさま」


 果物屋のくだりを読み返していたところで、ナポリタンがでてきた。いただきます、と呟き、粉チーズを多めにふりかけ、フォークでがばっとすくい取る。


 「おいしい」


 ナポリタンは美味しかった。ケチャップのみのスパゲティをサガの家ではナポリタンと呼んでいたが、ソーセージもピーマンも玉ねぎもたっぷりと入っている。


 「うちの看板だから」


 口に頬張ったまま、美味しいですと言い、冷めないうちにと急いでサガは食べ続けた。


 サガが口の周りについた赤いケチャップをふき取るタイミングで、食後のコーヒーが出された。コーヒーは酸味が少なく、苦みが深いサガ好みのコーヒーだった。


 「文学青年なの?本が好き?」


 開店時間後も店にはサガしかいないので、暇を持て余したのか、店員が話しかけてきた。店員もカウンターの中で、コーヒーを飲んでいる。


 「これ挑戦状なんです」


 サガは「梶井基次郎全集」を読んでいる経緯をかいつまんで説明した。


 「この題名がその子の名前ね」


 店員の手に「梶井基次郎全集」が渡っている。


 「俺知っているけど、言わない方がいいんだよね。きっと」


 こういうのは自分でわかった瞬間が嬉しいんだよな、と店員が笑う。


 「自分で考えます」


 サガも他人に知らされたくなかった。あの子を裏切りたくはなかった。


 「キーワードは果物屋に売っていて、レモンエロウ色をしている」


 あとは紡錘形とはなんだろう。れもんから借りた辞書で紡錘形を調べてみると、紡錘のところに二つの円錐を底面でぴたりと重ね合わせたような形とある。円錐とは…?


 「辞書って便利なようでいて、不便ですね」


 サガは円錐をしらべようと、あ行のページを開こうとする。


 「言葉を言葉で説明するのは難しいんだよな」


 ちょっとだけヒントをあげよう、と店員はコーヒーを淹れるドリッパーを取り出した。


 「これが円錐に近いと思う。反対にすると、ほら」


 店員がドリッパーを反対にしてみる。これを二つ上下に合わせた形は。


 「レモンだ」


 レモンエロウってそのままじゃないか、サガはびっくりした。びっくりした自分におかしくなって笑った。


 「ご名答。うちにもあるよ。ほら」


 店員が冷蔵庫の中から取り出し、サガに手渡した。レモンは油を塗られたかのようにぴかぴかと輝いており、サガの掌に冷たさと重みを与えた。


 鼻先にもっていくと唇に触れ、ひんやりとした冷たさが心地よかった。


 あの子の名前は水口檸檬。手の中にあるこの可愛らしい果物と同じ名前。


 「それお土産にしていいよ」


 「また来ます」


 代金を支払い、サガは片手にレモンを握りしめ、アパートまで走った。走らなくてもいいはずなのに、不思議な昂揚感がサガを走らせた。


 


 「はい、水口です」


 アパートのチャイムをならすと、れもんが出てきた。今日は休みだからか制服ではない。


Tシャツにカーディガンを羽織っている。


 「俺です。サガです」


 ドアがガチャリと開くと、サガが立っていた。頬を上気させて、右手に持っているレモンを差し出した。


 「爆発はしないよ」


 にやりと笑ってサガが言う。前にも見た笑い方だと、れもんが思い出すと、出会ったあの日に向けられたにやり笑いだった。


 「変な名前でしょ?」


 れもんはレモンを受け取った。レモンはサガに握りしめられていたせいか、冷たさはなく温かい。


 「素敵だよ」


 サガはれもんをまっすぐ見つめた。素敵な名前だよ、と繰り返した。


 れもんは自分の心の中にも不吉な塊があっただろうか、と思った。今サガに言われた言葉がじんわりとれもんの胸の中に溶けて、暖かかく広がった。


 「ありがとう…ございます」


 じゃあまた、とサガは隣の部屋へと帰って行った。れもんは部屋に戻ると受け取ったレモンでレモネードを作った。


 飲むと甘酸っぱくて、苦かった。


「檸檬」は両親が好きだった小説なのだと、檸檬とそのまま名づけることはできないからひらがななのだと、今度サガに会ったら伝えてみよう。


 サガから受け取ったレモンは、実はれもんにとって爆弾だったのだと、気づくのはもっとずっと後だった。

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