第50話 六花編 11 橘の娘

「ご武運を」


 銭湯を出て、別れ際にA子さんは私にそう声をかけてくれた。


 私は深く頭を下げた。

 そこには彼女への大きな感謝と、深い謝罪を込めた。


 私はあなたとの約束を守れないかもしれない。

 その時は、どうか許していただきたい。

 ……私の命に免じて。


 卑怯な私は最後の最後まで嘘を吐いた。

 A子さんが去り行く私の背中を見送ってくれているのを知りつつ、その背中ですら嘘を吐いた。

 勝てる見込みなど、如何程のものか。

 ましてや、生還できる見込みなど……



「ろーっかちゃん」

 どこからともなく声がした。

 紅蜂の声だった。


 ここは人気ひとけのない路地裏。

 人の気配を察知するなど造作もない状況。

 にもかかわらず、私は目の前に紅蜂が現れるまでその存在すらも認識することができなかった。


「待ちきれなくって、迎えに来ちゃったよ」

 屈託なく微笑む紅蜂。

 その笑顔の裏に常軌を逸脱した凶暴を秘めている事に、改めて寒気を覚える。

「例の話……どうするか、決まった?」

 紅蜂の問いかけに、私は首を縦に振った。

「その前に少し話がしたい。場所を変えないか?」

 私の提案に、紅蜂はその笑顔を張り付けたまま数舜沈黙した。

「……いいよ? どこでお話しする?」

 微動だにしない微笑は、私の提案が彼女の意に反する事を物語っていた。

「……静かな場所がいい。広ければ尚の事」


 私の希望は彼女とふたりきりになれて、出来るだけ広い場所であればどこでもよかった。

 紅蜂はうーんと考えるそぶりをみせ、直ぐに端末を取り出して私の希望する条件に見合った場所を探り当てた。

「ココとか?」

 端末を私に向け、表示された航空地図を指した。

「……うむ、ここならば」

 そこは随分昔に廃墟と化した、とあるテーマパークだった。

「決まりっ!」


 紅蜂はニッと笑うと、私の背後に視線を投げた。

 すると、音も無く一台の車が近寄って来て、私達のそばまで来ると後部座席のドアを開けた。

 運転席には誰もいない。自動運転車だった。


「さ、乗って乗って」

 紅蜂が私を促す。或いは罠かとも疑ったが、運転席のモニターに橘製作所のロゴマークを見つけて私は決心した。

「……分かった」

 私達が乗り込むとドアは静かに閉まり、車は発進した。



 流れていく景色。隣の座席の紅蜂はどこか楽しげに車窓を眺めていたが、私への警戒は微塵も緩めていない。

 その殺気を肌で感じつつ、私は改めて運転席のモニターを見た。

 そこには、橘製作所のロゴが鈍い光を放っていた。


(私は、橘六花……)


 私は自分の名前が好きだ。

 それは橘製作所を愛してるからであり、家族を……橘そのものを大切にしていたいからだ。


 どのような結果になるにせよ、私が橘の娘である以上、その運命からは逃れられないと悟った……というより、再認識したのだ。


 私が橘六花であるために、為さねばならない事を。

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