#20

 夜の九時にバスに乗って、新宿バスターミナルに着いたのは朝の九時。


「あんまり寝れなかったね」


 ファストフード店の固い机に頬杖をついて、ハンバーガーをほおばりながらカエデが言う。


「帰りも夜行バスに乗らないといけないって考えると憂鬱ね」


 リニアに乗るって案もあったけれど、少しでも東京滞在時間を延ばそうとバスを選択したけれど失敗だったかもしれない。


「二日前まではキャンセル料かからないし、用事が早く済んだらリニアで帰るのもありね」


 予定を立てている間はあんなに観光リスト作りに熱心だったのに、夜行バスのだるさのせいでふたりとも意気消沈している。


今ではちょっと古めかしく感じる角ばった大きな駅舎を出て、駅から離れた場所にあるレンタカーショップへと覆現の案内を頼りに歩いていく。


「暑いわね」


 パトリエの夏休みに合わせて計画した旅行だから暑いのは覚悟の上だったけれど、東京の八月は想定以上の暑さだった。


「朝でこの暑さだったら、昼の暑さが恐ろしいわね」


 冷房対策に上に羽織っていたカーディガンは早々と脱いでバッグの中に押し込み、代わりに出してきたタオルで額の汗を拭きながら、人気の少ない狭い路地を抜けてなんとかレンタカーショップにたどり着く。


 エアコンの利いた店内でちょっと涼んでから受付の老女にこの日のために取った原付免許を見せ、予約していた電動スクーターを借りる。


 電動スクーターは初めてだったから詳しく説明を聞きたかったのだけれど、老女は「ナビに行先を入れればあとはアクセルを踏むだけ」としか説明してくれなかった。

 最安値の店を選んだのが失敗だったなと後悔しかけたけれど、今どきの電動スクーターは免許センターで乗ったおんぼろ原付よりよっぽど賢かった。

 車線も信号もスクーターが勝手に判断してくれて、私がすることは信号が青になったらアクセルをちょっと踏み込むだけ。老女の説明は必要十分だった。


 新宿の狭い道を緊張しながら走り出した私たちはおもちゃみたいな操作方法にすぐに慣れて、走りながら覆現で会話を楽しむようになった。


「さっきも思ったけれど、なんだか福岡の方が栄えているね」


 新宿駅に吸い込まれていく大勢の人々を見たときはさすが首都だと思ったけれど、駅から外れると途端に人影が減った。


「建物も古臭いよね」


 駅舎が古めかしいのはまだ分かるけれど、周りの小さな建物も二一世紀初頭に建てられたような古めかしい角ばった箱物ばかり。3Dプリンティング法で作られた丸みを帯びた建物はぱらぱらとしか見当たらない。


 福岡の卵が密集したような景色とは違う、古い映画やアニメで描かれた街並みをそのまま持ってきたような景色が珍しくてキョロキョロと周囲を見渡していると、廃墟になったビルのピロティで酒瓶を片手にこちらを物色するように見つめる上裸の男たちと目が合った。


 ぞっとしない。慌てて目線を外し、空に巡視ドローンが浮かんでいることを確認する。


「バイク借りて正解だったね」


 カエデも同じ気持ちになったようだった。


 今回の東京旅行の下調べで様々なサイトでおススメされていたのがこのバイク旅行。

 巡回ドローンの目がある地上と違って、地下街は故障した監視カメラで死角になっている場所が数多くあり、また廃線になった地下鉄にガラの悪い連中がたむろしているらしく、土地勘のない旅行者は地下に入らないで動いた方が安全らしい。


 記述のすべてが本当か嘘かは判別が付かなかったけれど、このさびれた雰囲気を思えばあながちまるっきりの嘘とは思えない。


「東京を舞台にした古い漫画ってたくさんあるよね」


 立ち入り規制線が張られたさびれたコンクリートビルを横目にカエデが言う。


「AKIRAとかさ」


「それは古すぎるんじゃないかな」


 カエデがあまりに古いマンガを例に出すから笑ってしまう。


「ああゆう作品に出てくる東京ってとても栄えているか、核とか落ちてめちゃくちゃに崩壊しているかのどっちかだよね」


こんなただ古くなっていくだけの東京を描いた作品は覚えていない、とカエデが呟く。


「だって何の面白みもないじゃない。未来の東京は今と変わらない風景のまま、ただ古くなっていくだけです、なんて」


「新型爆弾が落ちて東京が壊滅するのはいいのに」


「終末論は人類開闢以来の人気コンテンツだからね」


 核兵器の発明以前から、私たちは終末論を夢見てきた。


 アンゴルモアの大王に末法思想に終末の日。


 どんな時代にも終わりは近いと終末を待ち焦がれる人々がいて、核戦争や異教徒の襲来、大洪水に大噴火と様々な事象が私たちの世界にケリをつけてくれることを願っていた。


「繁栄もなく破滅もなく、ただ老いていくだけの未来図はさみしいだけでしょ」


 もしかすると、東京は自分が老いることを想像できなかったのかもしれない。


 若者にとって老いは理解不能だ。


 名誉や破滅の方が想像できる未来で、まさか自分が何も成しえず、長い下り坂を降りる一方だなんて想像はただ不愉快なだけ。


「でも昔は世界最大の都市圏だったんでしょ。それがたった数十年で、こうなるなんてね」


 道ひび割れているから注意ね、と前を走るカエデがスクーターを揺らしながら注意喚起し、速度を緩める。


「都市には持続可能性がないからね」


 人間が集まるから勘違いされるけれど都市の出生率は低い。無秩序な増殖スプロールと表象される都市の拡大はむしろ周囲を引き付ける力、重力に近い。


「江戸の昔からね、東京は地方からの流入民によって大きくなった都市なの。農村から職を求めて江戸に集まった、日傭人足で生きていくしかない食い詰め者たち。宵越しの金も定かでない彼らにはもちろん結婚なんて夢の話だったから、江戸の未婚率は現代と変わらないくらいに低かったし、もちろん出生率も低かったんだよ」


 余所者が寄り合う街だからこそ、江戸っ子なんて自称が産まれたのかも。


「それは武士にとってはよくないことだったんじゃないの」


「うん。だから歴代の将軍たちは江戸の人口を減らそうとした。奉公や出稼ぎで江戸に来た人々に故郷へ帰るよう促し、旅費を補助したり、地方からの出稼ぎを許可制にして無許可の出稼人を佐渡の金山に送ったりした」


 江戸城の天才たちがあの手この手で江戸の人口流入を止めようとしても効果は薄く、それはその後継者である霞ヶ関の天才たちにしても同じだった。


「なにがみんなを都市に引き寄せたんだろうね」


 父親のことを考えているのだろうか。カエデの言葉はちょっと湿っぽかった。


「レオナルド・ダ・ヴィンチって知ってる」


 カエデの独白を聞いて、私は話の方向を変える。


「ええ。近世の天才でしょ。最後の晩餐を描いた」


「この名前はね、ヴィンチ村のレオナルドって意味なの。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ。ヴィンチ村の公証人ピエロの息子のレオナルドって意味ね。彼にとってヴィンチ村は幼少期に生まれ育っただけの土地で、一番有名なモナ・リザだってフィレンツェで描かれている。なのに彼の存在は彼の名であるレオナルドとしてではなく、ヴィンチ村のレオナルドとして伝わっている。世界初の内視鏡下手術ロボットの名前だってダヴィンチ」


「それで」


 聞き上手のカエデが先を促す。


「かつては、私たちを規定してくれる多くの定義があったってこと。人々は故郷や血筋、職能によって定義され、名付けられていたの。人名はある人間を独立した特定の個人として認識するための記号だけれど、だからこそ人名は社会の側から定義されるの」


「よく分からないわ」


 走りながらだと危ないだろうに、カエデが首をかしげるのが見えた。


「中臣鎌足は知ってる」


「それくらい知ってるよ。大化の改新で活躍した藤原氏の始祖でしょ」


 馬鹿にしないでよ、とカエデが怒る。


「中臣って氏は、自分たちがカミとヒトの中間でカミに仕える、神事に仕える者たちであることを表す氏なの。彼らは大和政権の中で神事という仕事でもって定義されていた。けれど改革を進める過程で、氏族を職能で定義することは不都合になった。だってある仕事をどこかの氏族の独占物にしていたら、効率化は進まないし要らなくなった仕事を無くすこともできなくなるから。古墳がもう必要ないからって、古墳を作る氏族まで消し去るわけにはいかないでしょう。だから鎌足は藤原という姓を天智天皇から賜ったの。神事を司る者としてではなく、天皇の臣下として自分を再定義した。集権化のために、人々を仕事ではなく天皇からの距離で定義しようとした」


「昔はややこしかったんだね」


「そうね。ややこしくて、わずらわしかったの。私という存在が私の意思ではなく、周囲の思惑で定義されてしまい、名称すらままならないことが」


 共同体の中で自らが取るに足る人物であると示すため、確固たる血筋、職能、土地と結びついていると示すため、名乗られる氏や姓。


「かつてはそのような不自由さを受け入れなければ生きていけなかったのだけれども、文明の発展はヒトを土地や血筋、職に縛られず生きていくことを可能にした」


「それが都市ってこと」


 カエデが結論にたどり着いた。


 都市は自分を定義する様々なわずらわしいものを拭い去るには最適な場所だった。

 というより土地や職、血筋に縛られない者が生きていける場所は都市しかなかった。


「そうね。もはや苗字すら自由意志で選択可能な私たちにとっては世界そのものが都市みたいなものだから想像もつかないけれど」


 私もカエデも米倉兄弟でさえも、現代の子どもたちは本当の意味で苗字を持っていない。十八になったときに、両親どちらかの氏かもしくは自分で選んだ独自の苗字を戸籍に記載することになる。


 けれど、結局この氏名はかつての古い習慣の名残りで、本当の意味で私を定義するのは十六桁の〇からFまでの十六種類の記号で表される個人識別番号。

 私の体中に埋め込まれている覆現(コート)インプラントにこの64bitのIDが書き込まれ、私がもしも記憶を失い物言わぬ肉片になったとしても私が私であることを定義してくれる。


「そしたら私たちがやってることは本末転倒だね」


 再び路面の亀裂を超えて、大きく車体を揺らしたカエデが、笑いながらそう言った。


「どうして」


「だって私たちが東京に来た理由って自分のルーツを知るためでしょ」


 カエデは父親に会うために、私は両親が恋をして私を産んだ場所へと巡礼するために。


 何者にも束縛されない夢の地に、私たちは自分を定義してくれるものを追い求めてやってきた。


「本当、そのとおりね」


 道路の亀裂を乗り越え、車体の上で体を揺らしながら、なんとも皮肉な話だ、と思った。

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