#18

 その日のセックスは楽しくなかった。


 彼の熱を全身で感じ、私の熱を彼に伝える。


 かつては心地よく感じていた熱の交換がいまはへばりついた澱みにしか感じれなかった。


 彼が洩らす吐息が、彼が搔いた汗が、彼が解き放つ欲情が、私の身体に湿り気を残すのが気持ち悪い。


 彼にとって私はどんな存在なんだろう。


 社会活動の盟友なのか。

 義胎妊娠反対を主張するための都合のいいパペットなのか。

 それとも単なる性のはけ口なのか。


 いつものようにゴムに欲を吐き出し、穢れを落とそうと立ち上がった彼の手を掴む。


「今日さ、ユウと会ったの」


 彼の手がピクリと震えた。


「貴方がこの活動をしているのは、お母さんへの復讐なの」


 自分を子宮で産んでくれなかった母親への意表返しなんじゃないの。


 私を見下ろす彼の顔を見つめ、そう尋ねる。


 暗い寝室の中で、その表情は見えない。


「弟となに話したんだい」


 彼の口調はいつも通りの悠々さ。

 優しい声色のまま、頭を撫でようと差し伸べられる手を振り払う。


「私は子猫じゃないわ」


 室内灯のスイッチがぼんやりと光る他は光源の無い寝室で、彼の姿はシルエットとしてしか見えない。


 振り払われた手をじっと見つめた彼は、ため息をつきベッドに腰掛けた。


「俺には母親がいないような気がするんだよ」


 これまで聞いたことのない声色だった。


 嫉妬や諦念なんて一言で言い表すにはあまりに淀んだ、物心ついたころから年月をかけ、地層を重ねながら、形作られた感情の堆積。


「彼らは賢く合理的に俺を生もうとした。体に負担をかけないように、キャリアに穴の開かないように。自分の責の及ばぬところで、俺が勝手に出来上がるように」


 それは私には存在しない感情だった。


「愛されなかったってこと」


 彼は首を横に振った。


「愛されてたさ」


 ぽつんと、水たまりにたたずむ小石のように呟かれた言葉。


「けれど、その愛は条件付きだった。俺が愛されていたのは、俺が学校の勉強ができて、運動も人づきあいもそつなくこなせるから、彼らと同じような有能な、生産性ある人間になることができそうだったから。それだけに過ぎない」


 彼はしきりに足を組んだり、手の置き場を変えたりして、ベッドのスプリングがギシギシと軋む音が耳に障った。


「小さいころからさ、親から『お前は手が掛からなくて助かるよ』ってよく言われてたんだよ。弟はしょっちゅう入院するからさ、六歳の時にはひとりで晩飯食って寝ることもできたし、学校でも親に迷惑かけるようなこともなかった。弟には言ったことはないけれどさ、俺は弟より優秀な子どもだって思ってたのさ」


 幼いころの驕り高ぶりを恥じるように、彼は短く笑う。


「三歳の頃から兄弟で一緒にスイミングを始めてさ。なんで両親が子どもの習い事にスイミングを選んだかは知らなかったけれど、たまには親が見学に来て、プールの上の方から手を振ってくれたり、練習が終わった後いつものおやつとは別口でアイスを買ってくれたりして、まあ普通に楽しんで水泳をやってたら、選手コースに誘われて、一〇歳の時にジュニアオリンピックカップに出場したんだよ」


 すごいじゃない、と相槌を打つけれど、彼は私の反応なんか求めてなかったようで、そのままブレーキが壊れた車のようにしゃべり続けた。


「コーチに連れられて国際水泳場での大会に出て、家に帰ったら珍しく母親がご飯を作っていてさ。大げさなことにシロクマの絵が描かれたケーキまで買ってきて、お祝いの準備をしてくれていたんだ。毎年三月の年度末は母親の仕事がめちゃくちゃ忙しいことは知っていたからさ、そんなに盛大に祝ってくれるなんて思ってなかったからたまらなくうれしくなったんだよ。けれどさ、弟が誇らしげに胸に着けていたシロクマのワッペンを見た瞬間にそれがとんでもない勘違いなことに気付いたんだ」


「シロクマのワッペン、って」


「平泳ぎで二五メートル泳ぎ切ったら貰えるジュニアスクールの三級のバッチさ」


 俺は小学生になる前にはもうバタフライしていたぜ、と子供っぽい自慢を付け加え、彼の話は続く。


「弟も俺が大会に出ていたのと同じ日にジュニアスクールの進級試験があって、俺のための手作り料理だと思っていた夕食は、それのお祝いも兼ねていたわけだ。いや、俺の方はおまけさ。大げさにも用意されていたシロクマのオーダーケーキを見れば、母親の興味がどっちに向いているかなんて、小学三年生にだってあからさまに分かってしまう。それがなんだかムカついてな。『俺はジュニアオリンピックで平泳ぎ五〇メートルに出場してきたけどな』って子どもっぽい嫌味を言ってしまったんだよ。そしたら母親がぶち切れてな。何歳でやれたかで優劣をつけるのは恥ずかしいだとか、フウマだって大会に出場しただけだとか、いろいろと脈絡もなく怒鳴りつけられてな。その時心底思ったんだよ。彼らは、弟が心底可愛いんだなと。機械任せで育った俺よりも、自分で腹を痛めて産んだ弟の方が何万倍も可愛いんだなって」


 言葉尻に向かうにつれ、彼の言葉は細く弱弱しくなっていって、弟の方が可愛いんだなと繰り返す言葉は、幼子の駄々のようだった。


「それが義妊を嫌うようになったきっかけなの」


 私の問いかけに彼は恥じるように笑い、

「自分でもマザコンみたいで気持ち悪いと思うんだけどな」

 と言った。


 私には私の地獄があり、他人には他人の地獄がある。


 地獄は結局私の内側にしかない。頭蓋の奥底、あまりに繊細な器官に刻み付けられた傷を理解するのは自分自身だけ。


 私も義胎で生まれてきた子だけれども、彼のような嫉妬は持ち合わせていない。


 なぜだろう、と考えると、幼いころ母が私の心臓をひどく気にかけていたのを思い出した。


 お風呂に入る前、脱衣所ですっぽんぽんになった私の胸に母が医者が使っているような高い聴診器をそっと当てて心臓の音を聞くのだ。


 金属でできた聴診器のベルは冷たくて、くすぐったくて、なんでそんなに心臓の音が聞きたいのか不思議に思う私に、母は私が心臓の病気で、産まれる前に手術をしてもらったのだと滔々と語ってくれた。


「まだ心臓に穴が開いているの」


 不安げに尋ねる私に、母は心底の心苦しさを顔に出しながらも、

「いいえ。もちろん穴はちゃんとふさがっているわ。病院で心臓の写真を撮ってもらったでしょう」

と優しく教えてくれたけれど、穴がちゃんと塞がっているのになぜ母は私の心音を聞きたがるのだろうと疑問だったのを覚えている。


「愛は理屈じゃないよ」

と父が苦笑しながら私に諭してくれたのも覚えている。


 愛は理屈ではない。


 母は私でさえ見えない体の奥深くまで知ろうと気を配り、私の健やかな成長に責任を持とうとしてくれる。


 小学生になる頃にはそんな風習も自然となくなってしまったけれども、それでもあの不合理な儀式は、私にとって幼少期の暖かい思い出、母の愛を感じさせる原風景として記憶に残っている。


「分かったわ」


「なにが」


 唐突に呟く私に彼が不安げに尋ねる。


「私がなんで義胎で産みたくなかったのか、その理由が」


 去年からずっと凍り続けていた嫌悪感がすーっと揮発するように解けていく。


 クリスマスの日、子どもを作ろうとあの人に言われて感じた言い知れない嫌悪感の正体に気付いたのだ。


 結局私はあの人に「自分たちの子を産んでほしい」と言ってほしかったんだ。


 学生出産の是非だとか女性の健康問題なんて抜きにして、ふたりで責任を分かち合いたかったんだ。


 何も知ろうともせず、考えようともせず、自分に責が及ばないよう無遠慮に子を作るなんてまっぴらだったのだ。


 それが私にとっての愛だったから。


 母が私にそうしてくれたように、私もだれかを全身全霊でもって愛したいと。


 あの暖かな幼少期にもう一度、今度は立場を変えて戻りたいと、私はそう望んでいる。


「私が愛してあげる」


 だから気づいた時には、そう言っていた。


 彼の手を取り、ベッドへといざなう。


 ふたりの重みでスプリングがかすかに軋む。


「私は貴方を愛しているわ。貴方はどう……」


 問いかけながら、彼の唇が欲しくて顔を近づける。


 暗がりの中で見えなかった彼の顔、そのディティールが見て取れるようになる。


 初めて会ったときには私をリードしっぱなしで大人びて見えたその顔が、今ではまるで初めて女性と同衾する初心な少年のように見えた。


「もちろん。愛してるよ」


 上擦った彼の声を聞くと、なんだか満たされた気分になった。


 今、彼の頭の中は私で一杯だ。


「なら私と貴方の子どもが出来ても、ちゃんと愛してくれる……」


 問いを重ねながら、唇を重ねる。


 もう何度も体を重ねているのに、彼の唇は固いままでもう少しで笑ってしまうところだった。


 接吻と共に彼の体の強張りが徐々にやわらく解けていき、私をぎゅっと抱きしめ、ベッドへと押し倒してくれた。


 言葉なんかなくても、答えは分かりきっていた。


 そうして私たちはひとつになった。


 愛するため、愛されるために。

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