#5

 翌日土曜日。いつもの妊娠健診よりも早い朝九時、私たちはいつもと同じ面談室で、いつもと同じ椅子に座り、いつもと同じ医師と対面していた。


「これが昨日撮影したお子様の心臓になります」


 目前に、実際の大きさの何倍にも拡大されたモノクロの心臓が表示される。


「そしてこれが心臓内の血流の流れです」


 覆現の心臓が半透明に透け、内部の血流が赤から青へと変わるグラデーションで示される。

 医師が心臓の一部をさらに拡大すると、四つに分かれた心臓の部屋の内、二つの部屋の間に血流の流れが見えた。


「これは」と問いかけたツキミに、医師が「心室中隔欠損症です」と告げた。


「ツキミさんは心臓が四つの部屋に分かれていることは知っていますか」


「ええ。心室と心房が左右に二つずつあるんですよね」


「はい。そうです。ヒトの心臓は心房と心室を持つ右心系と左心系に分かれ、全身から戻った血が右心系を経由して肺に、肺から戻った血が左心系を経由して全身に血液を送ることで全身に酸素を含んだ血液を届けています。ですが心臓は最初から四つの部屋を持って大きくなるわけではなく、一本の血管を捻じ曲げるようにして作られます」


 モノクロの心臓の隣に、心臓の発生を示すアニメーションが表示される。

 はじめ一本の管として作られた原始心臓管、これが横倒しのSの字のように屈曲することで大まかな心臓外形がつくられ、ガワの中で中隔が発達し心臓の中を仕切ることで、心臓の中身は二心房と二心室に分かれていく。


「この過程で何らかの異常が発生したことで、心室間を仕切る中隔に穴が開いてしまうのが心室中隔欠損症になります」


「危険な状態ということですか」


 ツキミの質問に医師は首を横に振る。


「出生まで不都合は生じません。正常な場合でも、胎児の心臓には右心房と左心房の間に卵円孔と呼ばれる穴が開いています。子宮の中にいる間、胎児は肺ではなく胎盤を通じて酸素を受け取るので、血液が肺を経由しない方がむしろ好都合なのです。ですが子宮から出て自分の肺で呼吸するようになると、右室から肺を通って左室に到着した血液が再び右室へと逆流してしまい、逆流した分の血液だけ心臓が余計に仕事をしないといけないので負担が掛かります」


「そうなるとどうなるんですか」


「穴の大きさによって症状は変わります。穴が小さければ症状はほとんど出ないと言われています。ですが穴が大きければ心不全の症状として脈が速くなり、息切れや全身のむくみを起こしますし、肺に血が多く行き過ぎることで肺高血圧症を来す可能性もあります」


「それは」


 ツキミが質問を続けようとして、口を抑える。


「大丈夫」


 緊張しすぎて吐き気を覚えたのだろう。心配し彼女の背をさする。

 ツキミが動揺したのを見て、医師が「お子様の穴は小さい部類に入ります」と慌てて付け加えた。

 覆現の心臓の穴が緑色の輪で囲まれ、その周径が示される。


「中隔の穴は大動脈弁輪のおおよそ四分の一程度の大きさです。三分の一以下の大きさであれば小欠損として肺動脈圧の上昇も起きず、症状も通常であれば出ないとされています」


「そうなんですか」


 ツキミは平静さを取り戻そうとハンカチを取り出て額を拭く。


「ところで卵円孔はどうなるのですか。産まれてからも開いたままなのですか」


 彼女の様子をみて、私が質問を続ける。


「いえ、生後しばらくすると自然と閉じていきます」


「この心室の穴も自然に閉じないんですか」


 そう聞くと医師は「その可能性は大いにあります」と答えた。


「可能性、ということは閉じない場合もあるということですか」


「ええ。そうですね。ある穴が絶対に閉じるかどうかは判断できません」


 これまで淡々と感情を交えずに事実を伝え続けてきた医師が頭を掻き、説明に迷う姿を見せる。


「かつてこの病気は生まれるまで見つからないことも多い疾患でした。出生前に異常が生じないので今回のように検査で見つけるしかないのですが、母親のお腹の上から見た超音波画像やMRI画像では胎児の心臓の小さな穴は見つからないことも多かったのです」


「けれど、この画像は義胎の上から見てるんですよね」


「そうです。義胎のパネルを開け、人工子宮に直接プローブを当て、得られた画像を立体画像として構築し直したものになります。腹部超音波画像の何倍も鮮明な画像で、小さな穴でも出生前に見つかることも増えました」


 覆現で示された心臓は、モノクロなことを除けば現実に目の前に存在していてもおかしくない精密さを備えている。

 表面を走る動脈が心臓の拡張と共に血流で満ちて怒張する様すら分かる。


 手を伸ばしさえすれば、その重みや熱を感じ取れるのではないかと疑ってしまうほどに。


「もし、穴が閉じなかったとしたらどうなるんですか」


「一般に小欠損であれば経過は良好です。聴診器で雑音が聞こえるほかは自覚症状もなく、運動や日常生活も普通に行えます。ですが長期的には、心臓の中に乱流ができることで感染性心内膜炎を引き起こしやすいことが知られています」


「穴を塞いだりはできないんですか」


 「可能です」と医師が答えた。


「カテーテルを血管の中に入れ、心室の穴の周囲に細胞を植え付けることで、細胞が増殖して欠損を埋めてくれます。足りない粘土を補ってやるようなものです。かつて行われていたパッチを当てる手法より、術後の合併症が起こりにくいのがメリットになります」


「その手術は胎児治療で行えるんですか」


「胎児治療も可能ですし、出生後乳児期に行うこともできます」


「どちらがよいんですか」


「先ほどお伝えしたように自然に穴がふさがる可能性も高いので、経過を観察するのもよいと思います。手術の手法もデバイスも進化して、かつてより格段に安全な手術ができるようにはなりましたが、それでもやはり手術は手術。侵襲性のあるものですから」


 質問に答える間、医師の視線は微妙に左右に揺れていた。答えづらい質問の答えを迷うときの彼の癖なのだろう。


「経過観察の方が望ましいということでしょうか」


 重ねて質問すると、医師はたっぷり時間をとってから口を開いた。


「出生後に治療を行う場合と胎児期に治療を行う場合の優劣は決まっていませんので。経過観察後、治療が必要であれば臨床症状が現れる前に手術を行う。そのような戦略も取れると私は考えています」


 医師は言葉を切り、力を込めて「ですが」と言った。


「ですが、最終的にはおふたりが決めることになります。胎児治療をする場合でも、胎児がもっと大きくなってからすることになるので。ゆっくり考えていただいて、また次の妊娠健診の際に治療方針についてお話させてください」


 結局最後は両親が決めるしかないということだ。


「分かりました」


 私が了解の返事をしたのち、かなり長い沈黙の後、ツキミも「ありがとうございます」と礼を言い、頭を下げた。




「それでどうしようか。医者の意見だと自然閉鎖を待ってもいい口ぶりだったけれど」


 クリニックからの帰り際、目の前でくるくると回る自動運転車のハンドルを眺めながら尋ねた。


「私は手術したいわ」


 即答だった。ツキミがこんな力強く断言することなんてそうそうない。


「胎児治療をしたいってことだよね」


 あまりに早い決断に躊躇して、確認を取る。


「だって様子を見て悪かったら結局手術するんでしょう。それなら生まれる前、早いうちにやった方がいいわ」


「けれど確率は少なくても手術でなにか問題が起きることはあるんだろ」


「産まれてからやったら怖い思いをさせるじゃない。私はあの子を健康な状態で産んであげたいわ」


 ツキミの意志は固い。


「そうか」


 内心様子を見てもいいのではないかと思っていたけれど、その考えは結局医師の受け売りだ。医師が手術したほうがいいかもしれないと言えばそう思っていただろう。


 手術の合併症を気にしていたのだって、それは医師の立場に沿った見解だ。オペをするのは医師で、何か問題が起きたとき責任を負うことになるのも彼らだ。


 ツキミの乳児期に手術をさせることを嫌う意見にも一理あるし、説明の仕方ひとつで判断が左右される私よりもしっかりと子供のためについて考えるように思えた。


「うん。ツキミの意見の方が妥当だと思う。胎児手術するつもりで考えようか」


 ツキミは黙ったまま、うなずいた。

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