第35話マッドな友人の話


 薬学部の端のほう、大学の敷地において一番端っこに位置する場所に、彼女の研究室はある。

 二年間たまにとはいえ継続的に通っていたせいで、自分の学部の次に通いなれた場所になってしまった、一条望の研究室兼隔離室、ついでに誠也と望の愛の巣。

 誠也が、入るぞ、と言って返事も待たずにずかずかと乗り込んでいく後ろから部屋に入る。

 いかにもな白衣を身にまとった背中を見せて椅子に座る部屋の主がくるりと振り向き、錆びた鉄のような煤けた茶色のウェーブロングを揺らしながら、澄んだ青空のような瞳がこちらに向けられる。

 その瞳の中には、愛しい人しか映っていないようで、ほにゃりと溶けるような笑みを浮かべると、両手を突き出す。


「風呂、入ったんだろうな」


「さすがに、来客の前に入らないほど恥知らずじゃないさ」


「ならばよし」


 手の届く位置で立ち止まった誠也は、不愛想な様子で問いかける。

 毅然とした様子で答えた望の態度からするに嘘はないのだろうが、たとえ嘘だったとしても誠也は彼女を抱きしめるだろう。

 人目もはばからない恋人同士のイチャつきを見せられているからはたまったものではなく、これ見よがしにため息を吐いてしまう。

 これで止まるとは思っていないが、これくらいはしないとやってられないのだ。


「おや」


 だから、誠也に抱きしめられてうっとりと夢見心地に瞳を細めていた望が、急にこちらを認識してきて、心臓が止まる心地がした。

 うっすらと細められた瞳はそのままだが、うっとりとした光は無くなり、無機質な輝きで俺を映している。

 邪魔をした、と認識されたのであれば今すぐにでもハクに最後の伝言をしなければならないところだが、そうではないはずだ。

 目の前で交通事故が起きようとも、その程度で行動を収めるような存在ではないことは、この二年間でよく知っている。

 ならば、なんだ。分からないからこそ、怖い。


「怖がってるね。どうしてかな?」


 値踏みをするような視線で、俺の表情をまじまじと見つめる望に、ごくりと喉を鳴らしてしまう。

 怖がっているのは、見てわかるだろうが、なぜ怖がっているのかと言えば。


「俺は……。これ以降、被検体になれそうにないです」


 彼女が聞きたいのは、こういうことだろう。

 そう考えて発言すれば、興味なさげな相槌と、さらに続きを促すような目線。


「あー、のぞみ。恋人ができたらしいぞ」


 これ以上何を言えばいいのか分からずに困惑する俺の助け船なのか、誠也が俺の近況について話し始める。

 誠也は説明をしながらも、望を力強く抱き上げて望の座っていた椅子に座り、膝にのせてぬいぐるみのように抱きしめる。

 よく見る光景なのだが、その光景がここ最近見たことのあるものだったために、いたたまれなくなって視線を逸らす。


「なるほどねぇ。真藤にも、そんな相手ができたのかい」


「めでたいことだろう」


「……それはどうだろうね?」


 誠也の両腕をさらに抱き込むようにして前で手を組んだ望は非常に上機嫌なまま、疑問の声を上げる。

 薄く引き延ばされた唇に、とろりととろけた瞳は、いつもと変わりがない。

 危惧していたような状況ではないが、予想とは違う状況でもある。


「キミは、随分と変わったねぇ?」


 からかいまじりか、ただの興味か、事実確認か。

 真意の読めない声色に、思わず望の後ろにある誠也の顔に視線を向ける。

 しかし、誠也にも事情は分からないなしく、ゆっくりと首を振られた。


「残念ながら、ボクはキミの来歴を知っているものでね」


 そんなアイコンタクトを知ってか知らずか、望は全くいつもと変わりない様子で、何でもないことのように重大な事柄を暴露する。

 何の不思議もないし、そうだろうとは思っていたが、急に言われては顔がこわばってしまうのも仕方のないことで。

 それに気づいてしまった誠也は、続きを促すように望の頭の上に顎をのせる。


「キミに恋人ができたというのが事実だとして、それをキミが受け入れることができたことが、不思議でたまらないのさ」


 わざわざ事前知識の確認などはしない望らしさのせいで、誠也は置いてけぼりを食らってしまったが、俺と望の会話には何の支障もないので考慮に入れないでおく。

 いや、誠也の不憫さのおかげで少し頭が冷えてくれたので、そこは感謝しておく。


「今のところ、受け入れ途中ってところです」


「ふーん、そっか。ま、ならいいや」


 あっけらかんに目を細めて笑うと、誠也の胸に後頭部を押し付けて甘え始める望。

 これは、話は終わりの合図であり、これ以上の言及は必要ないという事なのだが。

 大事なところを聞けていない状態でそれは困る、と顔を引きつらせてしまう。


「もういいのか?」


「うん、言い訳でもないみたいだし。馬に蹴られるのもごめんだし」


「だ、そうだ」


 誠也が気を使ってくれて助かった。

 望が切り上げた話を無理に続けようとすると、それなり以上に不機嫌になってしまうのに、穏便に終わりそうな気配があるときにそんなことはしたくなかったのだ。

 意外にも何事もなく終わったことに安堵して一息つく。

 そうとなれば、さっさと帰るに越したこともない。

 今は誠也が機嫌を取ってくれているが、望の地雷を完全に避けきる自信が俺にはないのだ。


「それでは、俺はこれで失礼させていただきます」


「ん、待ちたまえ」


「はい、何でしょう」


 反射的に答えたが、心臓が止まるかと思った。

 考えている傍から不機嫌になった望は、俺の目を真っすぐに睨みつける。

 何が原因か分からない俺は、顔をひきつらせながらその視線を受け止める。


「敬語、いらないよ」


「は、はい?」


「キミはせいやの友人だろう。まさか、それまでやめるわけじゃないだろう?」


「そりゃあ、そんなわけないですけど」


 誠也と友人になったのは、望とは一切関係のない場面だし、なんだかんだでかなり気の合うほうだとも思っている。

 望に言われるまでもなく、友人関係を立つつもりなど毛頭ないわけだが、それが敬語につながる理由がよくわからない。


「せいやもキミのことを気に入ってるからね。ボクのことも友人だと思いたまえ」


「はあ……」


「ま、のぞみもお前のことはそれなりに気に入ってるんだよ。素直に受け取っておけ」


「はあ……」


 望と誠也から説明を受けて、納得できるかと言われればあまりできないような雰囲気で空返事を返すしかない俺の様子を見て、二人してニコニコと笑いはじめる。

 望の機嫌がなおったのはいいが、やはり困惑のほうが先立つ。

 誠也以上に人との関係を選り好みする望との友人関係を許されるのは珍しいのだが、嬉しさよりも怖さのほうが大きくなる。


「そんな表情しなくてもいいと思うが」


「さすがに、友人に無体を働くようなことは無いんだがねぇ」


「友人でなければ働く可能性がある時点で怖いんで……、怖いんだよ」


 敬語が出かけた瞬間に望の視線が鋭くなったので、慌てて言い直す。

 誠也も止める様子はないし、俺としても嫌ということはないのだが、やはり感情的なものはあるわけで。


「そうだねぇ。こちらも受け入れ途中ってことで、手を打ってあげようじゃないか」


「貴女が言うのか」


「キミから言わせるのはあんまりだろう? ボクだって人のことを考えることはあるさ」


 さらりと心を見透かしたような望の発言に俺が軽口で返せば、さらに軽口が返ってくる。

 ニヤリ、と笑う望に対して、俺はため息を返す。

 まずは行動で示す、シンプルながらも確実な方法であると同時に、俺がそれに気づけるかを試す意味合いもあるのだろう。

 彼女らしいと言えばその通りだろうし、これは俺が折れるしかなさそうだ。

 俺たちの様子を見ていた誠也が、ほんの少し笑っているのを横目に、俺は望と友人になるのを承諾するのだった。

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