第3話大学についての話

 ハクとの同居も2週間を過ぎ、だんだんと慣れてきたのもあって、日常を過ごしている中でも、帰宅を楽しみにしている時間が増えてきたある日のこと。


 2年までで取れる限りの単位を取っていたこともあり、受けている講義数はだいぶ減っているとはいえ、全休とはなかなか無いもので。

 その中でも、午前に講義がある日は、寝起きの悪いハクよりも早めに起きて家を出ることになる。

 そうなれば、ハクとの朝の触れ合いの時間が無いことでハク成分が欠乏してしまうため、さっさと帰りたくなるのは当然である。

 そんなわけで、友人たちとの昼食を断り、足早に大学から出ようと歩いていた時、ふと普段は通らないが、近道になるルートがあることを思い出した。


 普段通らない近道、それは他学部の内部を通るルートである。


 別に立ち入り禁止とかではないし、迷子になるような複雑な道でもないが、あまり他学部に近寄るのも気まずいし、近付くような用事も無いので、普段は通らないのだが。

 今日は一刻も早く帰りたい気持ちをおさえきれず、そのルートを通ることにした。


 他学部というだけで、同じ大学内なのに見覚えのない景色に思える。

 3年通っている大学の中にも、知らない場所というのはあるのだな、と少しきょろきょろとしながら足早に歩く。

 そんな時、前から歩いて来た女性がぎょっと目を見開いて俺を見つめて来た。


 女性にしては身長が高いし、俺の低身長に驚いてるのかなぁ。

 なんて思いつつ、そそくさと横を通り抜けようとしたところを、サッと前に出てこられる。


「ちょっとキミ、時間大丈夫?」


 目の前から女性の声、当然ながらそこに居る黒髪ボブに眼鏡をかけた、ちょっとかわいめの女性から声を掛けられているのだろうけども。


 クルリと後ろを見て、周りを見渡して、他に誰も居ないことを確認する。

 もう一度向き直り、自分を指さすと、女性は困ったように笑いながらうなずいた。


「なるほど。……宗教はもうこれと決めてるものがあるので」


「いやいや、宗教勧誘じゃないって。キミさ、最近綺麗な女の人と付き合ってないかな?」


 俺の言葉に焦ったように手を振りながら、強引に自分の話を始める女性。


 綺麗な女の人……?

 一瞬ハクのことが思い浮かんだが、一般的に考えて綺麗な女の人という評価は得られないだろう。

 どちらかといえばかわいい女の子、という感じだし、キャバクラで働けないほど幼く見える彼女を指してそう表現するのは、逆に失礼だろう。

 ハク以外となると、ちょっと思いつかない。自慢じゃないが、女性とのおつきあいはしたことが無い純情派なのである。


 そんな風に少し考えた後、シンプルにふるふると首を横に振る。


「んー、そっか。お付き合い、って言っても別に恋人じゃなくてもさ、ほら、綺麗なお姉さんとかに会いに行けるお店とか……」


「行ったこともありませんね」


「……じゃあ、単刀直入に聞くけど。女の人に貢いでるとか、無いかな?」


 貢ぐ……、確かに貢いでいるようにも見えるかもしれないが、ハクは喜んでいるわけでもないしなぁ。

 この間買ったテレビも、暇つぶし程度には見ているものの、ほとんど話のネタにしか使ってないようだし。

 何かしてほしいことは無いのか、と聞かれるたびに家に居てくれるようお願いしているわけで、むしろ貢がれそうなのを止めてる状態だよな……。


「貢げたら良いな、とは思いますね……」


「えぇ……。そういうの、良くないと思うよ。世の中には、人を人と思わない存在だって、たくさんいるんだから。もしもおかしいなって思ったら、すぐに連絡して。これ、名刺あげるから」


「いやそういうのはちょっと。自分、友達少ないんで」


「もー! マルチでもないってば。いきなり話しかけたのは悪かったから、私は布津牧彩良ふつまき さら、人文の2年。ほら、これで知らない人じゃないよね」


「いや、名前を知っても怪しいのは変わらないと思います」


「ぐぬぬ……強情だなぁ。どうしたらいいのさ」


 こっちが聞きたいくらいですが。そういえば、強情という評価はこの短期間で二度目だったったな。この調子だと周りの方が強情なのでは、と一瞬頭をよぎる。

 というのは置いておくとして、どうやらこの後輩は俺がハク、つまり化け狐にたぶらかされているのではないか、と怪しんでいるらしい。

 そうでなければ、存在、だなんてぼかした言い方はしないだろう。

 まずその時点でお門違いだという話なので、まあ相互理解は遠そうである。


「……ちょっと急いでいるので、この辺で失礼します」


「あっ、ちょ。名刺だけでもっ……」


 そんなわけで、脱兎のごとく逃げることにした。

 急いでいるのも嘘ではないし。


 ただ、よく考えたら名刺くらい受け取っても良かったかもしれない。そうすれば、もうちょっとハクとの話のネタも増えただろうし。

 でもまた会いそうだしなぁ、と不思議な確信を持ちながら、すたこらと走って家まで帰ったのだった。


 ***


「と、いうことがあってね」


「あー。……そうじゃな。それはおそらく退魔師じゃろう」


 急いでいたこともあり、つい息を切らしながら家まで帰ってしまったので、心配した様子で出迎えてくれたハクに、事情を説明していた。


 聞き終わると、仕方がないのう、とでも言いたげな表情で教えてくれる。

 耳がピコピコと調子よく動いているあたり、べつに天敵というわけでもないようで、一安心といったところ。

 しかし、あちらは敵視しているような雰囲気だったのだが、一方通行なのだろうか?


 いったいどういう関係なのだろうかと考えつつ、椅子に座ると、ハクが特にどうという事も無く口を開いた。


「わしの同族が、キャバクラなどで働いておるのは言ったな? そこであまりよろしくない手段を取るものも、多少はおるんじゃよ」


「よろしくない手段というと。退魔師に狙われるくらいだし、なんか妖術みたいな?」


「そうなるのう。だいたいは魅了、いわゆる相手に好意を抱かせる術じゃ。逆に言えば、それ以外の役に立つ術はあまりないがの。とはいえ、それを使われておると、同族の立場が悪くなる。それゆえ、わしらの間でも見つけたら罰しておるほどに、厳重に禁止されておる」


 自浄作用もある、という事か。


 しかし、俺は別にそういった妖術にかかっていないはずなのだが。

 あの調子だと、妖術を使われていない相手にも声をかけているというより、化け狐に関わった人に無差別に話しかけていると思う。

 それとも、気づかぬうちに俺は妖術をかけられているのだろうか。


「それはそれで本望だな」


「なにを言うておるか」


 やれやれ、と肩をすくめながら、ため息を吐くハク。

 椅子に座っているため尻尾の様子は見えないが、大きな動きが無い時点で、嘘はついていないらしいと分かる。

 妖術がどんな感じなのか、結構興味があったのだが、この様子では何にもないらしい。


「おぬし、わしのこと好きすぎるじゃろ。効きもせん術を使うほど、わしは無駄好きではないぞ?」


「元から好きな人には魅了の術が効かないやつか、なら仕方ないな」


 そう言われると、確かに俺に魅了の術は効かないだろう。

 見た目も性格も超好みなので、そりゃあ使われるまでも無く大好きである。

 やはり杞憂であったか、と大きくうなずいて、窓の外を見れば、青い空。


 空模様と同じく、気分も晴れやかである。ハクが大好きなのは事実だし、妖術についての興味もあるが、術を使う必要もないと太鼓判を押されれば、気分も良くなるというもの。


「否定せんのか……」


 そんな俺の様子に、呆れたような声をハクがこぼす。

 耳心地の良いハクの声は、ほんのりとした安心感を与えてくれる。

 変な人に絡まれて、寄り道は良くないなぁ、なんて考えていては、やはり疲れてしまうもので。

 まあね、と頬杖をついて空を眺めながら、ハクの声が聞きたくて、何も考えずに言葉を続ける。


「今更だし。好きでもない奴と同棲できないでしょ」


「それもそうじゃなぁ……。ん、んんっ」


 わざとらしく咳ばらいをしたハクに驚いて、そちらを見る。


 ちょっと頬を染めたハクの真っ赤な瞳が、ふいっとあらぬ方向へ泳ぐ。


「そ、そういえば。おぬしの学生生活について、聞いたことは無かったのう」


「言うほどのことも無いからなぁ」


 動揺した様子のハクが気にならないわけではないが、それほど重要なことでもなさそうな感じなので、彼女の話題に乗っかることにする。


 ただ、大学も3年目で、目新しいことが特にないというのも事実である。

 今日のように変わったことでもあれば、いくらでも話のネタにするのだが。


「であれば、わしが来るまでのことでもよい。ほれ、彼女の一人はおったじゃろう?」


「いないよ。そもそも、俺の好みがハクなのは知ってるでしょ」


「少しぐらいは妥協できんのか……」


 妥協できる男なら、ハクに無理させることも無いんだろうけども。

 ちょっとバツが悪くなって、点けっぱなしだったテレビに目線を移す。

 テレビでは、いつも通りに料理番組が流れている。

 どうやらシリーズ物らしく、見たことのあるキャストが司会をしている。


 向かいで、ハクがかすかに笑う声がして、また視線を戻す。

 いつの間にか、ハクがこちらをまっすぐに見つめていた。


「そうじゃな、わしは大学というものを知らん。教えてくれんか?」


「それもそうか。いや、教えるなんて大層なもんでもないし、恩に着せる気はないけどさ。何か知りたいことある?」


 優し気に目じりを落としたハクの表情に、毒気が抜かれる。

 彼女も居たくなければ居ないのだろう、と何となく確信させてくれる。

 そうなれば、少しでも居心地のいい空間を提供するために努力したいものだ。


「なにを学んでおるんじゃ?」


「一応、情報工学だけど。俺の研究室はもっぱら会話用のAIかな」


「AIか、難しいのか?」


「学部生がいじれる部分なんてほとんどないよ。ほとんど先輩の作った情報処理プログラムのバグ取り」


「十分すごいではないか。わしにはちっともわからぬことじゃ」


 そんな、何気ない会話で時間が過ぎていく。

 こうして自分のことを話すのは、あまりない経験だ。

 興味深そうに耳をかたむけるハクに、どうすればわかりやすくなるのかと頭をひねりながら話を続ける。


 それを聞いて、ハクがほう、と頷けば、俺も話をするすると続けられる。

 俺の何事もないと思っていた日常を話す時間は、結局どちらかのお腹が鳴るまで終わらなかった。


「……お腹、すいたな」


「すいたのう。では、何か作るか……。わしも手伝うが、良いじゃろ?」


 その言葉を聞いて、窓の外を見ると夕焼けも半ば以上沈んで、空のほとんどが真っ暗になっている。


 いつも夕食を食べている時間よりも、だいぶ遅くなってしまったようだ。


「そうだね。時間も時間だし、手早く作っちゃおうか」


 まあ、この程度のことでハクが居なくなると不安になる必要もないのだろう。

 俺の許可が出て、嬉しそうに尻尾を振るハクの姿を見て、そんな風に思った。

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