第9話 吸血鬼



「吸血鬼?」


 沙月はマリアの言った言葉を繰り返すように呟いた。当然ながら、俄かに信じられることではない。


「そうです。そこにいるミケーレ・ヴェッキオと名乗る男は、吸血鬼です」


 マリアはもう1度、今度は静かに断言した。


「え……? だって……」


 沙月が戸惑うのもむべなるかな

 今日は晴天。晩秋とはいえ、朝の陽光は燦々と照りつけているのだ。沙月の足元には、くっきりと影が落ちている。それは、確かにミケーレの足元にも――。

 そもそも、伝説やファンタジーで聞き及んでいる吸血鬼は、主人公たちを散々に手古摺らせた挙げ句、ようやく『陽光を浴びて滅ぶ』のがハイライトであり、ラストシーンなのだ。

 それでは――。


「そう。彼は〝〟なのよ」


と、マリアは付け足した。その意味を問おうとした沙月を制するようにマリアは、


「日下部さん。もう予鈴が鳴りますけれど、よろしいのかしら?」


と、言った。沙月が腕時計を確認すると、確かに予鈴が鳴る時刻だ。沙月はミケーレに向き直り、


「あのは家に置いてきちゃったの。今日は土曜日で、本当なら半日で終わりだけど、講習があるから。それからで良ければ――」

「ああ、構わんよ。待つさ。そうだな、そこのエノキの木陰で休んでるさ。終わったら、木の下に来てくれればいい」


と、ミケーレは校門と校舎の間に植えられている、大きな榎を指差しながら、そう言った。


「わかったわ。じゃあ、放課後に!」


 沙月は頷いて、慌てて駆け出した。教室までは、あと数分は掛かる距離だ。走り去る沙月を見送っていた2人の間に、微妙な空気が漂い出した。


「まあ、お優しいこと」


 優雅に口元に手をやり、マリアが言った。その動作の1つ1つが美しい。


「何言ってんだ。あの娘を巻き込むような真似をしたのは、お前さんじゃないか」


 ミケーレが、やれやれ、といった表情で答える。


「あら、何のことかしら?」


 切れ長の美しい瞳が、冷たくミケーレに向けられた。


「昨夜はよくも邪魔してくれたな。とっとと片が付くところだったのに」

「実力があれば、邪魔なんて物ともせずに、片付けたでしょうに」


 マリアが冷笑を浮かべて、言い返す。どうも、ミケーレには食って掛からずにはいられないらしい。美人が冷淡に話すと、冷たい印象ばかりを与えるものだが、このマリアにはどことなく愛嬌がある。


「それとも、あとは私に任せて、依頼を取り消して貰う? 私はそれでも構わないわよ」

「お断りだね。枢機卿から何も言われてないんだ。――ってことはだ。まだ、解雇されたわけじゃない」


 べえっ、とミケーレは舌を出した。こちらもマリアが相手だと、子供っぽくなるらしい。


「それにしても、あんな離れた場所から、よくあの娘の顔まで見られたもんだ」

「あなただって似たようなものでしょう? 私のことを見てたじゃない」

「まあ……な。それで、あれから、この学校に入り込む手配をしたのか? 相変わらず、段取りのいいこった」

「元々、ここの教会は今回の拠点の候補だったのよ。あの娘の制服がここの物だったから、ここに決めただけよ。その方が色々と都合がいいでしょ?」

「まあ、あの娘もあいつと出食わしたからな」

「そういうことよ」

「ふうん……」


 気のない返事をすると、ミケーレはそのまま歩き出した。


「あら、どこ行くの?」


 問い掛けるマリアに、校庭のエノキの大木を指差し、次の瞬間、ミケーレはまだ黄色い葉が多く残っている梢の間に消えた。



 午前中の授業が終わり、昼休みになると沙月は、昼食も摂らずに、校舎横に設けられている教会堂へと向かった。マリアにもっと詳しく話を聞こうと思ったのである。

 今日は土曜日なので、帰宅する生徒たちで混雑する廊下を、沙月は上手く擦り抜け、足早に進んだ。


 教会堂の脇には宿舎が併設されており、居住も可能であるが、今はマリアだけが使用していた。本堂は古い木造製で、元々はこの教会があり、その敷地内に学校が建てられたのである。

 窓には美しいステンドグラスがはめ込まれており、正面には磔刑に処せられたキリスト像が設置されている。教会内は静謐で、荘厳な雰囲気が漂っていた。木製の作り付けの長椅子がずらりと並んでいて、ざっと80人は座れるだろう。

 本堂にマリアの姿がなかったので、沙月は正面脇にある、宿舎に繋がるドアをノックしてみた。


「どうぞ」


と、マリアの声が告げた。

 ドアを開けると、頭衣を取ったマリアが沙月を見返していた。光輝くような金色の髪が、美貌と相まって、神々しいほどであった。沙月は溜息が出そうになるのを感じた。女でありながら、女性に嫉妬しているのかも知れない。


「ようこそ。来る頃だと思ってましたよ」


 沙月の行動を見透かしていたかのように、マリアはそう言った。


「失礼します。シスター・マリア」

「そんなに畏まらなくて結構ですよ。日下部さん」


 ソファーを勧めながら、


「ミケーレのことでしょう?」


と、マリアが言った。沙月は示されたソファーに腰掛けながら、問い掛けた。


「あの人が吸血鬼……って本当ですか?」

「ええ」


と、沙月の質問に、簡潔に答えるマリア。さらに、こう続けた。


「ミケーレは、〝始祖〟と呼ばれる吸血鬼よ」

「始祖……ですか?」

「〝始まりの吸血鬼〟という意味よ」


 マリアは沙月の対面に座りながら、静かに言った。


「ミケーレの名前、〝〟は、〝〟という意味なの。いつ頃から、そう名乗るようになったのかは知らないけれど、彼は私たちの記録で確認されている、最古の吸血鬼よ。紀元30年頃にはすでに記録があって、おそらくは、さらに遡るほど古いでしょう。ところで、あなたは吸血鬼というのが、どんなものかは知ってるわね?」

「はい。映画とか、マンガなんかで出てくるくらいは……。人の血を吸って……」

「そう。おおよそは、それで合っているわ。彼らは人の血を吸って生きている。そして、血を吸われた者も吸血鬼になる。そうやって、彼らは増えていくけど、それを遡れば、3人の吸血鬼まで辿りつくの。日下部さん。あなた、競争馬のサラブレッドの事は知ってる?」

「え?」

「馬のサラブレッドよ」

「は、はい。知ってます……けど?」


 突然、話題を変えられたように思われて、沙月は戸惑った。だが、マリアの話の内容は続いていた。


「アラブ種の牡馬ぼば――雄馬おすうまとイギリスの在来種のひん……雌馬めすうまとを掛け合わせて造られたのがサラブレッドだけれど、サラブレッドもその血統を遡れば、3頭のアラブ種に辿りつくわ。ダーレー・アラビアン、ゴドルフィン・アラビアン、バイアリー・ターク。全てのサラブレッドが、この3頭の子孫なの。現在のサラブレッドは、大勢をダーレー・アラビアンの血統が9割ほどを占めていて、残りの2系統はごく少数よ。ここまではいい?」

「はい。何となく……」


 マリアが確認するように問い、沙月が何とか理解して、ぎこちなく答える。マリアは話を続ける。 


「で、ここからが本題。文献、伝承、口伝。現存しているすべての記録を調べると、サラブレッドと同じように、吸血鬼も元々は自然発生的な3人しかいなかったの。現在、確認されている吸血鬼も競走馬と同様で、1人の系統が大勢を占めていて、もう1人の系統も初期は栄えていたのだけれど、彼はすでに滅ぼされているわ。先ほど言った大勢を占めている1人は現在、行方知れず。残った最後の1人が、ミケーレよ」


 沙月は黙ったまま、あとを促した。


「彼らは血を吸った者を吸血鬼にして、眷属を増やしていく。例外もあるし、稀に突然変異も起きるけれど、大抵、吸われた者は吸った者の能力を全て、あるいは一部を引き継いでいるから、眷属たちを調べれば、元々の吸血鬼の能力も大まかには特定出来るのよ。滅ぼされた1人はそうやって、調べ上げられたの。念入りにね。今、最も眷属の多いもう1人は、を恐れて行方を晦ませたわ」

「じゃあ、あの人は?」

「ミケーレの能力は、ほとんどが未知のままよ」

「判らないんですか?」


 沙月は不思議そうな顔で、マリアを見た。


「彼には眷属が1人もいないからね。彼はのよ」


 そう言ったマリアの表情は、少しばかり誇らしげにも見えた。


「血を吸わない……って、吸血鬼なのに?」


 沙月は疑問に思ったことを素直に口にした。


「生まれてからこれまで、1度も吸わなかったのかは分からないわ。でも、少なくとも記録上には残っていないの」

「それじゃあ、吸血鬼って判らないんじゃ……」

「吸血鬼よ。間違いなく」


 マリアが強く断言した。有無を言わせぬ迫力であった。


「彼の口を覗いてごらんなさい。乱杭歯が見えるでしょう。彼を斬りつけてごらんなさい。たちどころに傷口は痕も残さず治るでしょう」


 感情が高ぶったのか、憎悪すら含まれているようなマリアの言動に、沙月が何も言えないでいた。あまりの剣幕に怯えたような沙月の様子に我に返ったのか、すぐにマリアがいつもの物静かな口調に戻って言った。


のに、ミケーレが平気だったから、信じられない?」

「……はい」


 硬い表情で、沙月は頷いた。授業中も、それが頭から離れなかった。

 吸血鬼の伝承には、様々なものがある。

 曰く――。


 影がなく、鏡に映らない。金槌であり、川などの流水を渡れない。霧になったり、狼や蝙蝠などの動物に変身出来る。見つめるだけで、人を魅了する。大蒜や、聖水を嫌い、十字架に触れると火傷を負う。昼間は眠り、活動が出来ない。人を遥かに凌駕する五感や膂力の持ち主である。不死身であるが、白木の杭を心臓に打たれると、滅びる――等々、枚挙にいとまがないほどである。

 その1つに、陽光を浴びると灰になり、滅びる――というものがある。絶対――とは言い切れないものの、闇の眷属たる吸血鬼は、陽の光の中には居られない。

 それを指して、マリアは言っているのだ。


「彼は〝〟なのよ」



 

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