第6話 復活、そして――別れ



 「開けてください。戻って来たよ」


 戸の外から聞こえるその声は、紛れもなくイエスだった。

 だが、イエスは死んで、皆に埋葬されたのだ。どうしたものか、とマリアが助けを求めるように、ミケーレを振り返った。

 しかし――。


 ミケーレはそこにいなかった。

 今し方までいたのに――とマリアは不思議に思った。彼はどこに行ったのか――?


「母さん。開けてください」

「え、ああ。待って。今開けるわ」


 戸を叩き、そう繰り返すイエスの声に、マリアが戸の傍に寄った。戸を開けると、果たしてそこに――イエスはいた。

 確かにイエスだった。それは間違いない。だが、その眼、表情はどこか虚ろで、マリアに話しかけておきながら、母の顔を見ていなかった。

 見ているのは――母の首筋。マリアは自分の首あたりに、イエスの視線を感じた。そのことに、マリアは違和感を覚えた。虚ろな表情なのに、そこだけは熱い視線だったからだ。


「イエス?」

「何だい? 母さん」

「何だか……いえ、何でもないわ」


 マリアは首を振って、そう言った。息子が帰って来たのだ。その息子を否定するなんて――。


「ああ、そうだ。お腹は減っていない? 何も食べてないんじゃない?」

「ああ。ずっと食べてないから、ペコペコだよ」


 背を向けて、卓上のパンに手を伸ばすマリアを見て、イエスが答える。ただ、イエスが見ているのはマリアの首筋。そして、そう言ったイエスの顔は、今にも舌舐めずりをしそうな表情だった。


「母さん……に、頼みがあるんだ」

「なあに?」


 食べやすい大きさにパンを切り分けているマリアを……いや、マリアの首筋を見詰めるイエスの眼が熱を帯びてくる。

 ぎこちなく両の手をゆっくりと伸ばすイエス。その様は、マリアの首を締めんとしているかのようだった。

 そして、その手はマリアの両肩に置かれた。捕まえた獲物を押さえるように――。


「どうしたの? イエス」


 マリアが問うた。それには答えず、口を開くイエス。その上顎に見えるのは鋭く尖った、2本の乱杭歯。

 ああ、それは――。

 その歯は――。


「イエス?」


 マリアが振り向こうとした。しかし、動けなかった。マリアを押さえつけるイエスの手の力が強かったのだ。

 マリアの首筋に口を近付けるイエス。


「がっ……!?」


 イエスが呻く。

 その胸から、剣先が覗いていた。剣はイエスの心臓を正確に貫いていた。イエスの後ろに、ミケーレの姿があった。イエスを刺し貫いたのは、ミケーレが所持していた短剣だったのだ。

 ミケーレは部屋の闇に潜み、ひっそりと事の顛末を窺っていた。彼は、イエスがマリアに何をする心算だったのかを知っていたようだ。マリアの危機に、ミケーレは躊躇うことなく、イエスに剣を振るった。

 心臓を貫かれたイエスは崩れ落ち、ミケーレに支えられて床に寝かされた。見開かれたままのイエスの眼を、ミケーレは閉じさせた。


「ミケーレ」


 ミケーレの一連の行為を見届けたマリアが呟いた。イエスの死に顔を見ていたミケーレが顔を上げ、立ち上がった。ミケーレはマリアの顔を見た。マリアはイエスを見ていた。我が子の死に顔を。


「イエスは死んだの?」

「ああ。今度こそ、間違いなく」

「イエスはどうしたの?」

「彼は〝吸血鬼〟という存在になってたんだ」

「〝吸血鬼〟?」

「他者の〝血〟を吸って、〝偽りの生〟を生きる〝〟さ。おそらく、はりつけにされたころには、もう……。、こうして生き返った」

「そう……」


 ミケーレの説明を聞いたマリアは、イエスの亡骸の傍にしゃがみ、その頬を愛おしそうに撫でた。


「この子が何になったかは分からなかったけど、この子が望むなら、私はどうなってもよかったのよ」


 イエスの髪を撫でつけながら、マリアが続ける。


「私の産んだ子だからね」

「そうだな。親ってのは、そういうものらしいな」

「そういうもの? らしい……って、ミケーレのご両親は?」

「親ってやつの記憶はないんだ。いたのかどうかも、覚えがない。だから、よく分からない」

「そう……」


 マリアはイエスの頭を膝の上に載せ、死んだ我が子を愛でた。その様は、後の15世紀末にイタリアはフィレンツェの大彫刻家ミケランジェロ・ブオナローティが若き日に制作した〝ピエタ〟のようであった。

 その嘆きを感じ取ったのか、


「恨んでくれて、構わんよ」


と、ミケーレが言った。マリアは否定するように首を振った。


「いいえ。あなたが、私を思ってしたのは分かってるわ」


 マリアはイエスの顔を見詰めたまま、そう言った。そうは言ったが、我が子を殺された――その事実を受け止めることの重大さに揺れてもいたのだ。

 そこへ、


「母上様」

「師が宣言通り、復活なされました!」


と、扉の向こうから声が掛かった。ペトロを始めとしたイエスの弟子たちが来たのだ。マリアは顔を上げ、ミケーレを見た。


「師が復活なされたのです」

「師がこちらにお越しではありませんか?」


 弟子たちの問い掛けに、マリアが扉を見たまま、ミケーレに声を掛けた。


「行って、ミケーレ。この子のこの姿を見たら、彼らと争いになるわ」

「ああ。それじゃあ、達者でな。マリア」

「えっ……?」

「さよならだ」

「ミケーレ?」


 マリアが振り向くと、既にミケーレの姿はなかった。



 その後、復活したはずの師が、再び亡き骸となっているのを見たペトロたちは激高した。マリアの執り成しにも耳を貸さず、ミケーレを探し出して殺しかねないほどの剣幕で憤慨したのだ。しかし、弟子たちの探索にも拘らず、ミケーレの行方はようとして知れなかった。

 弟子たちはイエスを、復活し、昇天された――として喧伝した。すでに多くの信者たちがいたからである。教義を広めるため、師が〝昇天された〟ほうが都合が良かったのだ。

 弟子たちは再度、ひっそりとイエスを埋葬し直した。

 イエスを埋葬し終えたマリアは、度々ミケーレが良く座っていたへと足を運んだが、ついにミケーレに会うことは叶わなかった。



 やがて――マリアも老いて亡くなった。

 その葬儀の際、見知らぬ若い男性が現れ、葬儀を手伝った。この頃にはイエスの教えを信仰する者たちも増えていたため、多くの者が出入りしても誰何すいかされることはなかった。イエスの弟子たちも葬儀に忙殺されており、手伝いに来た多くの者の内の1人など、気にしている暇はなかったのである。

 彼はマリアの死を惜しむように、長い間、棺の前に佇んでいた姿を目撃されている。

 その彼も、イエスの弟子たちが、時間的にも気持ちにも余裕が出来た頃には、いつの間にか姿を消していた。



 さらに後年のことである。

 ローマ帝国の皇帝ネロによるキリスト教への弾圧に恐れをなし、弟子の筆頭のペトロがローマを逃げ出した。しかし、『信徒を見捨てるのか』――そう、師に諫められたとローマに引き返すパオロは、道中で1人の男と出会った。

 その男はミケーレだった。ペトロはミケーレを見ても、彼だと気付いていないようだった。ただ、単に覚えていないのか、もう、そんなことはどうでもよかったのかも知れない。

 ミケーレが言った。


「ローマに戻れば、捕縛されることになるよ?」

「されど、戻らねば。先ほど、師が私に言ったのです。『お前が逃げ出すなら、私が戻る』と。ならば、私が戻らねば」

「師に出会った?」

「ええ。先ほど」

「亡くなられた師に?」

「はい」

「ほう」


 それはペトロの良心、罪悪感などが見せた〝幻〟であったが、彼にとっては紛れもなく師であり、師からの叱責であったのだ。


「では」

「戻れば、死ぬことになるぞ」


 ミケーレがさらに忠告した。と足を止めたペトロであったが、意を決したか、ミケーレに答えた。


「それでも、行かねばならないのです」

「そうかい」

「では。ご忠告、感謝します」

「いや。要らんことを言ったようだ。謝罪する」

「いえ。お気持ちだけで」

「それじゃあ、気を付けて」

「ありがとうございます」


 そう言って、ペトロは再びローマを目指して歩き出した。ミケーレはしばらくの間、遠ざかる彼の背中を見詰めていたが、やがてどこかへと消えた。

 ミケーレの言葉通り、ペトロはローマに戻ると捕縛され、逆さ十字に架けられて殉教した。



 この殉教したペトロの墓の上に建てられた――とされているのが、イタリアのローマ、ヴァチカン市国にあるカトリックの総本山、サン・ピエトロ大聖堂であり、現在では、ペトロは初代のローマ教皇と見なされている――。



 

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