昔話

第3話 命名者



 西暦3*年、2月。


「そちらの方もいかがですか?」


 背後から声を掛けられ、大きな岩の上に胡坐をかいて座っていた男が振り向いた。その男は見た目、20代。黒い髪に黒い瞳、体格は並みで細身だったが、けして貧弱というわけではなく、付くべきところに必要な筋肉の付いた身体をしていた。

 男を呼ぶ声は、大きかった。およそ20メートルの距離を隔てていたから、その女性は大きな声で男を呼んだのだ。

  女性は手に小さなパンを持っていた。左手に下げた籠から出した物だ。その女性と、他にも数名の男女があたりに群がる粗末ななりをした人たちにパンを配っていた。

 ところが――。


 男は前に向き直り、ぼんやりとだだっ広い風景を眺めた。興味がなさそうである。

 街外れのこのあたりは陽射しが強いせいか、気温が高く空気も乾燥気味で、所々に低い灌木が生えているばかり。荒涼とした大地が広がっていた。

 そんな風景を、ただ眺めているのだ。


「そちらの方もいかがですか?」


 その女性は先ほどと同じことを言いながら男の前まで近寄り、


「いかがですか?」


と、パンを差し出した。男は眼前に立つ女性からパンを受け取った後で、


「ありがとう」


と礼を言った。一度目に声を掛けた時の無反応さから、不愛想な男かと思われたが、礼を言うその顔は穏やかで、どこか人懐っこい印象すらも与えた。

 礼を述べられたその女性は一瞬、きょとんとした顔を見せたが、柔らかな表情を浮かべて、


「どういたしまして!」


と、優しく笑った。こちらも、魅力的な〝〟顔だった。

 年の頃は40を過ぎていたが、多感で快活な表情を浮かべるためか、実際よりも若く見えた。言動などで推し量ると、20代のようにも見えるほどだ。


「他にも何か、お困りのことはありませんか?」

「いや? ないよ」

「そうですか?」

「うん。ない」

「お困りのことがあれば、いつでも言ってくださいね。出来ることでしたら、お手伝いしますよ!」

「ああ、ありがとう」

「いいえ~!」


 女性は明るく返答した。その様子のどこに興味を持ったのか、男はふと、言葉を継いだ。


「ちょっと聞いていいかな?」

「何ですっ? どうぞ何でも聞いて?」


 彼女は男が話しかけてきたことに嬉しそうだった。男が疑問に思ったことを口にした。


「何故、こんなことを?」

「何故って……。そうね」


 女性は首を傾げ、そして、また先ほどの〝いい〟笑顔を浮かべて、


「やっぱり、〝喜んでくれる〟から――かな!」


と、答えた。その答えを聞いた男は微笑し、


「そうか」


とだけ言った。


「じゃあ、困ったことがあったら、言ってね? 私はマリアよ。よろしくね。あなたは?」

「ん?」

「名前よ。あなたの名前。何ていうの?」

「ああ。……さて、何だったかな?」

「名前、ないの?」


 マリアが〝何か、複雑な事情でもあるのか〟――と心配そうな顔で、男の顔を覗き込むようにして聞いてきた。今度は男のほうが首を傾げ、しばし熟考した後、得心するように頷いた。


「どうやら、そのようだ。そういや、必要がなかったからな」

「じゃあ、私が名付け親になってもいい?」

「うん?」

「名前よ。あなたの名前、付けてもいいかしら?」

「変なのでなかったら」

「任せてっ! う~ん。そうねえ……」


 マリアは腕を組み、目を閉じて黙考していたが、片眼を開けて男を見た。それから、何かを思いついたようにおもむろに言った。


「〝ミケーレ〟はどう?」

「うん?」

「〝ミケーレ〟よ。確か、神様の名前……あれ? 天使様だったかな?」

「どっちなんだ?」

「まあ、どちらでもいいじゃない。どちらでも、ありがたい名前なんだから」

「そうか」

「ね、決まり。あなたは今から〝ミケーレ〟よ」

「そうか」

「うん。いい名前よ」

「そうか」

「うん」


 そんな感じで、男の名前が〝ミケーレ〟と決まった。マリアは満面の笑みで、そのことにご満悦のようである。

 ちなみにマリアが付けた〝ミケーレ〟とは〝大天使ミカエル〟のことであったが、マリアにとっては、そんなことはどうでもよかった。楽しそうなマリアを、ミケーレも穏やかな表情で見つめていた。子を見守る父親のていであった。

 と、長衣を纏った1人の青年がマリアに近寄ってきて、


「こんなところにいたのか、母さん」


と言った。


「こちらの方は?」


 マリアを〝母〟と呼んだ青年が、ミケーレを指して、そう聞いてきた。穏やかな表情だったが、僅かにその眼の奥に、敵愾心が見え隠れしていた。おそらく、本人も気付いていない感情だ。

 振り向いたマリアがミケーレを手で指し示して、

 

「こちらは……」


と紹介しようとし、そこで、ふと思いついた顔でミケーレを見た。楽しい悪戯を思いついた子供のような無邪気な顔だった。そんな顔でミケーレを見詰めた。


「ん?」


 ミケーレが何か言いたげなマリアを見返した。マリアが目配せをしてきて、


「ほら」


と、ミケーレを促してきた。


「ああ」


 意図を察したミケーレが、大岩を降りて青年の前に立った。青年のほうが頭半分ほど背が高かった。そして、手を差し出して、言った。


「〝〟です。よろしく」

「こちらこそ。私は〝〟と申します」


と、青年――イエスも名乗り、ミケーレの手を取った。その横では、マリアが満足そうに頷いていた。ミケーレが、彼女が名付けた〝ミケーレ〟と名乗ったからだった。してやったり――そんな顔をしている。

 しかし、このマリアがイエスと名乗った青年の母親ならば、彼女は後に、〝聖母マリア〟と呼ばれる女性ということになる。


「1つ、聞いてもいいかな?」

「どうぞ」


 ミケーレは続けて聞いた。


「あなた方は何をしているんです?」

「私たちは〝慈愛〟を説いて回っているのです。その過程で施しを」

「ほう」

「あなたもご一緒に、〝奉仕〟しませんか?」

「奉仕?」

「はい、奉仕です。皆様のお役に立つのです。ぜひ、ご一緒に」

「いや、止めとこう。柄じゃない」

「そうですか。それは残念です」

「悪いね」

「いえ」


 イエスは気を悪くした様子もなく、穏やかに微笑んでいる。ミケーレは傍のマリアにも謝った。


「マリアさんも」

「〝さん〟付けはやめて。〝マリア〟でいいわよ」

「そうかい? ありがとう、マリア」

「気にしないで。ミケーレ」


 終始、にこやかなマリアであった。しかし、その横にいる息子イエスのほうは、やはり面白くなさそうな顔である。母と仲良くしているミケーレに、嫉妬しているのかも知れない。


「私たちは、この街の外れの〝あばら家〟にいます。よろしければ、いつでも来てね」

「ああ。ありがとう」

「どういたしまして」


 そうして、その日はミケーレと、マリアたちは別れた。



 

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