第34話 女神(ミューズ )《sideミシェル》

 西暦が二千と、十七を数えた年、そして、ルークとミシェルが結婚する一週間前は、天を星が埋め尽くすような澄んだ空気の晩だった。ルークはしばらく流星群がその軌跡を残しながら地球をなぞる様を見つめていた。


 ミシェルの家の玄関をこんこんと合図する。出迎えたニコラスとアルマはすっかり用意が終わっていて、ルークの肩を抱いたまま、なにも言わずに外へと連れ出した。


 三人とも無言で白いフォード・レンジャーに乗り込み、辺りを見渡す。誰も聞いていない、今しか出来ない会話は、三人とも幾度も話し合った事だった。


 ニコラスとアルマは、ルークを挟むように座席に座り、懇々と説明した。


 この子と結婚するという事は、普通に生活することも好きなことも出来なくなるだろう。最悪、眠ることもさえも。つまりはそういう事だぞ、と何度も説明していた。子供も作れないかもしれない。エルザのおもちゃにされかねないのだとも説明を受けた。もうひとりの娘、エルザには良心の呵責というものは存在しないのだ。


 ルークは臆することも怯むこともなく、ニコラスの疲れきり濁った目を真っ直ぐ見つめて言った。


「それでも、彼女こそが僕の“女神ミューズ”なんです。心底愛しているんです」


 それ以上はニコラスとアルマはなにも言わなかった。ニコラス自身、アルマとは駆け落ち同然に結婚した身だったため、強く言うことに抵抗がある。どうすれば愛する人をあきらめられようか? そんな術は知る由もない。悩んだ末に、ニコラスとアルマが何度も吟味した条件を紙に書いてルークの手のひらに提示する。“自分たちの支援を必ず受け入れる事”という条件を元にふたりの結婚の許しを出した。


 ルークとミシェルは結婚した。彼は毎夜出てくるごと受け入れたのだ。



 ***



 ――現在。


 癌細胞に脳を圧迫され続ける、父ニコラスは自宅療養させることになった。そうふたりで決めた。いや、正確には、ニコラスとルークで。ルークが面倒を見るからと、そう医者を説得したのだ。こちらには事後報告だけ。どちらにしろ、末期症状のニコラスに病院側が出来ることなど、薬で感覚を麻痺させるぐらいしかないのだ。実際、そう医者は告げている。後日、ニコラスを実家に戻してきたと、ルーク本人から告げられる。


 父であるニコラスから全ての過去を聞かされた放心状態のミシェルは、残る手続きを済ませた。『セント・ドミニク病院』から家路へとつく車内では一言も喋らず、外の流れていく景色を見ていた。


 ちらりと盗み見た運転席では、ルークがハンドルを握ったまま、なにかに没頭するようにぶつぶつと呟いている。まるで過去を変えようとしてすらいるようにも見える。


 運転席側を見ることはそれからなかった。誰とも話したくなかったし、誰の顔も見たくなかった。鏡の中の自分の顔でさえも。


 一昨日、“全て”を聞いた今でも信じられなかった。本当に自分の事なのかと未だに疑っている程だ。


 死の間際にいる父親が、娘に対して嘘をつく理由などあるだろうか? 恐らくはないだろう。でも、だからといって全てをそのまま信じられるほど馬鹿でもないのだ。


 “視線”についてもそうだ。ストーカーなんてものはいない。それは確かなのだろう。自分の中にもうひとりの人格がいて、それが目覚めようとしている時に“視線”を感じるという事なのだろうとも。これは合点がいく。実は双子だったというのもそうだ。シリアルキラーで、しかも“血染め花のマリー事件”の“犯人”というオマケまでついている。びっくりプレゼントだ。


 誰がそんな与太話を信じる? 小説の設定をこれでもかと盛ったような話しじゃないか。


 だが、父親とルークは真剣そのものの表情だった。あれが作り話なら、ふたりとも主演男優賞ものだ。


 それでも……今でも、自分にはそんな自覚がこれっぽっちもないままだ。


 家に帰ると、ルークは書斎の鍵のかかったデスクから、一枚のDVDディスクを取り出した。ソファーに座って爪を噛んでいるミシェルの前にしゃがみ込んだ。


 透明なケースの表面にはとだけ書かれていて、ディスク自体にはなにも書かれてはいない。ルークの手の上で行き場なさげに行き来している。


 ミシェルは今すぐ寝室まで歩いていって、二度とドアが開かないように念入りに閉めておきたいぐらいなのに、ルークはそこに座っていろと言う。


 仕方なくミシェルは憮然としてそこに座り、そっぽを向いたまま腕を組んでいる。


 ルークが目を泳がせながらミシェルの前にDVDをかざす。


「ミシェル……まだ、信じられないんだろう? 認めたくないんだろう? これが証拠なんだ。ミシェル……見たいか? 辛いだろうが……見た方がいいんだ」


 自分に秘密を話せたことで不思議と機嫌が良さそうなルークに、ミシェルはなにも答えなかった。


 ルークはテレビからアニメDVDを取り出して、代わりに真っ白なDVDを押し込もうとする。その手が小刻みに震え、カタカタとディスクトレイに振動を伝えていたが、手を離すと、ディスクトレイは無事に戻っていった。テレビは再生を始める。


 テレビは再生を始める。砂嵐から始まり、画面が変わるとミシェル自身がベッドに横たわっていた。しばらくすると、ミシェルの銀髪が頭の先から毛先へと向かって徐々に伸びていく。そしてゆっくりとだが確実に黒く染っていく。完全に黒く染まる前に、ルークは先程より少し高くなった鼻をつまんで、空気を求めて開いた口にスポイトから透明な液体を舌に含ませるように一滴ずつ与えていった。


 自分でも気付かないうちに立ち上がり、先程までの怒りも、瞬きすら忘れてテレビにかぶりついていた。膝の力が抜け、倒れるようにソファーに深く座り込む。一瞬、気が触れたように現実逃避をして、現実なのかと頬を撫でた。子供の頃から馴染んできた顔なのだろうかと確かめるように両手で覆った。その間も画面の中のミシェルは変化を続けていて、今では別人のように見えるほど違う。髪は長く、漆黒の帳のよう。肌は陽の光を浴びていない、透き通るような白さだ。


 現実を突きつけ、少しずつ理解させようとしているのか、ルークは何も言わなかった。膝を床にくっつけたまま、じっとこちらを見ている。こちらも別人のように見える。


 目線をこれでもかと動かし、逃げ道を探る。しばらく沈黙すると、ミシェルは立ち上がってバスルームへと向かった。


 ミシェルは蛇口を捻り、暖かい雨を浴びながら咽び泣いた。子供の頃のように泣き腫らし、嗚咽が襲ってきたがミシェルはなすがままにした。ただただ、心の負荷を吐き出すように泣き叫んだ。


 ミシェルは目を真っ赤に泣き腫らし、タイル地の上で糸の切れた操り人形のように座り込んでいた。疲れ、虚ろな瞳だ。膝上の高さに踵で蹴って、砕いたばかりの壁がある。


 空っぽになり、麻痺した頭の中で、とっ散らかったパズルのピースをひとつひとつ、ゆっくりと組み合わせていく。


 ルークはずっと私の……いや、私の意識の外であの女の世話をしていたということ? 父と母もそうだ。それも子供の頃から。普段飲んでいるあの薬類ですら、その世話のためだった。それにみんなはずっと嘘もついていた。


 自分が抱えている問題は精神が不安定な事でも、ストーカーがいる訳でもない。頭の中にいるイカレた化け物なんだと。みんな分かっていたんだ。私は……私はただの化け物の入れ物。そう“花瓶”のようなものだったのだ。


 ミシェルは疲れたように笑った。


 泣き腫らした目に再び雨粒が貯まる。


 まだ……涙が枯れないのね。指先で拭い、水滴を見つめながら不思議とそう思った。


 仮説も疑問も晴らせる風は、下の居間で待っている。


 ミシェルは乱暴に濡れた身体を拭くと、ジーンズと白いシャツに着替えた。


 リビングに降りた先では、疲れた顔のルークがソファーに座り、背中を小さく丸め、自分好みに温くなったコーヒーを啜っていた。


「いいわ、ルーク。あなたが知っている事を教えて。全部よ」


 ルークは躊躇い、まだ迷っているかのようにコップをそっとテーブルに置いた。


「まだ全部は受け入れられない。でも……覚悟は――本当は出来てないけど、聞く。私は……私の中にいるのは連続殺人鬼、“血染め花のマリー事件”の犯人なのね? そして、私がストーカーだと思っていた視線も恐怖も、全部、私の中の妹、エルザのものだった」


 合点はいっていた。公園を走っている時、後ろにぴったり誰かがいる気配を感じていた。姿も見えなくて、その場からいくら走っても離れなくて、とてつもなく怖かった。それは内にいたのだと考えれば、皮肉なことに納得がいく。


 ルークは視線を逸らし、映ってもいないテレビを見つめた。生唾を飲み込んでゆっくりと頷いただけだった。


 ミシェルがルークの隣に腰掛けると、古いソファーがギシリと傾いた。


 ルークの肩にもたれ掛かり、その肩と頬を水気の残る髪が撫でる。それらは儚げに涙の跡を撫でた。

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