第九章『純粋―Purity―』(終)

 美天――美天――。


 透き通った優しい声。


 懐かしくてたまらない音色に、愛しさを掻き立てられた。


 「晴、斗? 晴斗だぁ……」

 「美天……?」


 ゆっくりと開いた瞳に映る、朧気な気配を直ぐに理解した美天は、無邪気に両手を伸ばす。

 先程から、心配そうに美天を呼び続けていた晴斗は、彼女を静かに抱き留める。

 晴斗の胸へ猫のように擦り寄る美天が、いつになく甘えている様子に、彼は不安に駆られた。


 「大丈夫? 美天……」

 「大丈夫って、何が?」


 心底不思議そうな眼差しで、晴斗を見上げる。

 美天を見つめ返す晴斗の瞳に一瞬、探るような色が灯る。


 「さっきまで、中々目を覚さなかったから、心配で」


 何気なく視線を横へ流すと、時計は午前十一時を回っていた。

 晴斗の口ぶりから、どうやら自分は、いつもより長い眠りに沈んでいたらしい。

 今日は、休日で出勤も用事もないため、寝過ごす分には問題ないのだが。


 「ん……ありがとう、晴斗。私は大丈夫だよ……」


 以前にも増して自分を気にかけてくれる晴斗に、美天は若干の申し訳なさを覚えるが……そんな心配も、愛しさと幸福で薄らいでいく。


 「ちょっとね……を見ていただけ」


 自分で言葉に出してから、美天は朧気に思い出す。

 確かに先程まで、自分は長い夢を見ていたのだ。

 それも睡眠十二時間で、くらいにも及ぶ出来事について。


 「どんな夢を見ていたんだい?」


 「?」


 何故そう思ったのか、理由は上手く説明できない。

 けれど、確かに夢の中で、晴斗は自分を美天わたしと呼んでいた。

 美空わたしは、晴斗になって行動していた。


 「夢で僕は何をしていた?」

 「ん……ごめん、何かよく思い出せないの……」


 しかし、残念ながら肝心の内容だけは、どうしても思い出せなかった。

 何故、夢の記憶は覚めた瞬間に失ってしまうのか。

 よりによって、今回の夢に限って。


 「怖い夢だった?」


 晴斗は心配そうに伺う。

 母親を心配する純粋な子どもみたいな表情に、美天は穏やかな微笑みを浮かべた。


 「怖い、とは少し違うかな……何だか寂しいような……でも、最後はホッとしたような……」


 唯一、目覚める直前の記憶と感情だけは、鮮明に覚えていた。

 確かに、晴斗美天美天晴斗に微笑み――囁いていた。


 だけは、あなた許します許すよ、と――。


 「美天……?」

 「やっぱり晴斗だ……」

 「僕はここにいるよ?」


 晴斗の胸に顔を埋めてしがみつくと、爽やかで優しい香りのぬくもりに満たされる。

 晴斗の存在を感じられる現実、晴斗が隣にいる現在に、瞳の奥は熱を帯びる。

 いつになく甘えてくる美天を、晴斗は静かに抱きしめ返す。

 自分より小さな背中を優しく撫でる手付きは、晴斗自身も安心させるためのようだった。


 「晴斗がいい……晴斗に触れられる私で、よかった……――」


 もう離れることなんて、考えられない。

 この温かい胸も優しい手のぬくもりも、どれほどかけがえのないものか。

 一度失ったからこそ、大切でたまらなくて、また失うことが、前よりもずっと恐ろしい。


 だから、晴斗と一つになれたらいいのに、と不意に願ったこともあった。


 きっと夢は、自分のささやかなの幻想夢だったのだろう。


 しかし、いざこうして夢から覚めてみれば、自分と晴斗が別の人間でよかったと思える。


 「当たり前だよ……美天が美天でないと、僕が困る。僕は美天じゃないと、ダメなんだから」


 美天の心と共鳴するように囁く晴斗に、胸は甘い炎で高鳴る。

 ああ、そうだ。

 晴斗と美天わたしは、一つ一つの異なる命。

 違う存在だからこそ、こうして互いを見つめ触れ合える。


 「晴斗……」

 「何だい、美天……」


 名前を呼んだ美天を、優しく見下ろす晴斗の瞳は瞬く。

 広い背中に回っていた細い両手は、晴斗の顎に移動していた。

 美天は首をうんと伸ばすと、晴斗の唇にそっと口付ける。

 小鳥のついばみさながら初々しく、甘い花のように濡れた唇を、晴斗は双眸を閉じて受け入れる。


 「晴斗……私、もっと晴斗を感じたい……晴斗と一つになりたい」


 「――美天……おいで」


 切なさに甘く濡れた瞳で訴える美天に、晴斗も熱に満ちた微笑みで迎えた。


 再び重なる唇は、風に踊らされて触れ合う百合の花びらのように、柔らかく甘美だった。


 *


 きっと、美天は知らないし、永遠に知ることもないだろう。


 は、純粋無垢な心優しい子として、人々に愛されて育った。

 とりわけ祖母は、少年を「天使の生まれ変わり」と呼ぶほど愛でた。

 少年も、深い慈愛に満ちた祖母を敬慕した。


 ――いかなる現実と不条理に身を置いても尚、胸に愛と優しさを灯して。


 ――あなたは「心の純潔」の持ち主なのよ。


 純粋無垢な少年は、周りの期待通りの心優しい好青年として育った。

 昔から両親の部屋に置かれた精神医学から心理学、哲学、神話、古典・現代文学を中心に、本を読み漁った。

 人間と世界はいかなるものかを悟った青年は、あらゆる正義と慈愛を、あらゆる不条理と暴虐、悪徳と罪を、、と受け入れる――。

 そんな「慈悲と残酷」を兼ね持つを培った。

 これこそ、少年が言葉を覚え始めた頃から、祖母によって受け継がれてきた「精神の教育」の賜物だ。


 ただし、青年は世界と人間、人生にまではしていなかったが、も抱いてなかった。


 他の子どもや大人にすらない、多様で高い次元の視野を持つ純粋な青年の心を揺るがすほどの友達も導き手も、現実にはいなかった――。


 あのまでは――。


 『この百合は、最後まで綺麗に咲いているわ』


 高校の校舎裏庭で枯れていた一輪の白百合を眺めながら、は穏やかに呟いた。

 愛らしい赤子や小動物を見るのと同じ、甘い眼差しで眺めていたのは、枯れ果てた白百合の花だった。

 大多数の人間は、美しさの見る影すらない白百合のどこが美しいのか、といぶかるだろう。

 しかし、きっとこの瞬間では、彼女と青年ぼくだけは知っていた。

 この百合の花が芽吹いた頃から、厳しい冬を超えて凛々しい純白の花びらを、太陽へと咲かせていた姿を。

 淡いセピア色に萎れても尚、茎を伸ばしたままの高潔な佇まいを。


 『

 『――? うん、またね』


 この瞬間は、未だ互いの存在を知らなかった僕と彼女は、同じ唯一輪の花を見つめていた。

 二人のを、僕が理解するのは、だいぶ後だった。

 高校卒業後、王百合市で一人暮らしを始めた。

 市内で通い始めた大学内で、僕はを見つけた。

 高校だけでなく、大学も学部まで同じだったことに、僕は素直に驚いた。

 ただの偶然だとは思えなかった僕の目線は、密かに彼女を追うようになった。

 彼女自身と周りの人間を観察していく中、彼女のことを少しずつ知った。


 朝比奈・美天、福祉学部のBクラス、英語サークル所属、高校時代から交際している恋人が経済学部にいること、花と紅茶が好きな、純朴で和やかな性格。


 しかし、僕は声をかける時期を、完全に逃してしまったのだ。

 美天の笑顔の先には、既に別の男の存在がいたこともそうだ。

 さらに、彼女を無意識に瞳で追ってしまう自分の気持ちに、僕自身が気付くのに遅れたことにも、一因がある。


 僕にとっては、だったのだから――。


 ただ、同じ白百合の花を見つめ、愛しただけだというのに――。


 それでも、美天を知りたいと思った。


 僕は美天の知り合いや同級生を介して、巧妙に入手した彼女のウィスパーやフォトグラムといったSNSのアカウントから、彼女の基本情報や日常的な行動様式を調べた。


 SNSで何気なく投稿された食べ物やレストラン、外出先の名前と場所と日時、買った物、写真の背景、投稿者の手の特徴、大学ノートや課題の写真、友達とのツーショットや仲間の集合写真。

 情報の宝庫といえるSNSを分析すれば、個人情報は容易に推察可能だ。

 僕は、現代の超情報社会の恩恵を受けた。


 ずっと、美天だけを追いかけ続けた。


 だから僕は、――。


 美天の身に降りかかった「不条理と悲劇」も。


 犯された美天の焦がす己への「負の烙印」も。


 美天が大学を中退した後、専門学校で勉強し直して、白百合病院へ就職したことも。

 王百合市から離れた青百合市で、一人暮らしを始めたことも。

 だから一年後、後輩に当たる僕が美天と同じ職場へ入ってきたのも、喫茶・薔薇園で鉢合わせたのも、決して偶然ではない。


 ずっと傍から、美天を見ていたのだから。


 僕にとっては再会したばかりの美天は、とりわけ異性への恐怖と不信感を、植え付けられていた。

 だから僕は、一緒にいて安心できる特別な異性の後輩として、徐々に美天の心の懐へ踏み込んでいった。

 やがて、美天が僕に心を許した時点で、をかけた。

 読み通り、僕を意識してくれた美天は、自分の感情に気付いて僕を受け入れてくれた。


 そこで、ようやく僕が長年待ちわびた『』は、始動した。


 今まで鉢合わせることのなかったはずの美天に、田辺孝雄が接触できたのも、偶然ではない。

 別人として変田辺と親しくなった僕こそが、美天の居所を彼へ漏洩したのだ。

 『計画』を早く推し進めるために。


 傷ついた美天の心を救い癒すために。


 案の定、僕の正体にもにも気付いていない田辺孝雄と太山庵土竜は、大体思い通りに動いてくれた。

 僕の悲願が成就した事実を鑑みれば、協力してくれた太山庵土竜、そして田辺孝雄にも、すらしている。


 美天は、のだから――。


 癒え難い傷ごと美天を愛して理解する存在は、僕一人だけだ、と――。


 田辺孝雄の携帯端末もノートパソコンの他、使用した情報端末機等、『計画』の痕跡を残すモノは、全て嵐の海底へ沈めた。

 変装時の潜伏と監視のためだけに、契約していたアパートも出払った。

 『計画』において、多大な協力と貢献をしてくれた太山庵土竜もいない。


 これでもう、僕と美天を引き離すあらゆる脅威証拠は、ほぼ全て消え去った……。


 *


 「ごめん……嫌だった? それとも、痛かった?」

 「ううん、違うの……」

 「じゃあ、どうして、?」


 清らかでありながらも艶かしい眼差しで、自分を翻弄していたはずの瞳は、心配そうに覗きこむ。

 母親を見つめるようにあどけない瞳に、またしても愛しさを掻き立てられる。

 身体にとっては数年ぶり、精神こころにとっては初めてとなる体験に、美天は涙が止まらなかった。

 けれど、晴斗が心配してくれているような理由から、零れたのではない。


 「、ふふふ……っ」


 現在では、自分の全てを知っていると言っても過言ではない、晴斗なら分かっているのではないか。

 そんな確信と晴斗の謙虚さに、美天は涙に濡れた顔に含みのある笑みを咲かせた。

 ここにきて、初めて知ることになるとは思わなかった。


 という感覚を。


 愛する人との咬合こうごうこそ最も幸せだ、というのは嘘ではなかった。


 愛欲の眼差しに触れられた場所から、炎のように燃え広がる甘い波紋。

 心臓を焼き震わせる、愛しさと聖なる渇望。

 永劫の炎にべられても。

 朽ちることなく咲く花のような慈愛。

 一つへ繋がりあった場所から脳髄を駆け昇った、精神まで浄化されるような白炎の


 もしも晴斗と出逢っていなければ、きっと永遠に知ることはなかった。

 誰かと再び愛し合いたいなんて、あんな事があった後では二度と望めない、と諦めていたはずだったのに。

 あの忌まわしき過去の出来事に縛られ、自分を恥じていた事すら、馬鹿馬鹿しくなる。

 愛も幸せも許しも、これほど近くにあったことに、先程まで気付きもしなかった自分の単純さ。


 これが、泣くほど笑わずにいられるのだろうか。


 「ありがとう……晴斗」

 「どうして、お礼を言うんだい?」


 今度は、晴斗の方が可笑しそうに柔らかく微笑む。

 目蓋にかかる優しい唇と吐息は、くすぐったくて心地良い。

 頭から髪の毛、うなじを優しく撫でる手のぬくもりに瞳を閉じて委ねながら、美天はいたずらっぽく微笑む。


 「だって、晴斗がいてくれて……幸せだもん……」

 「それなら、僕だってそうだ……ありがとう、美天……僕を信じてくれて」

 「なら、信じさせてくれてありがとう、晴斗。ふふふっ」


 本当に幸せで、こんなにもだったことに、美天は笑みが止まらない。

 晴斗も呼応するように、互いに柔らかく笑い合い――それから、二人だけの熱原へ、再び時間を忘れて溺れた。


 「愛しているよ、美天……永遠に――」


 「私も……愛している――晴斗」


 ああ、そうだ。


 今度の休日に、結婚式の衣装を選びたい。


 そう、たとえば白百合の花のように美しい純白は、よく似合うだろう。


 来週の土曜日が待ち遠しい。


 白百合色のウェディングドレスで着飾った愛しき人の美しい姿を、晴斗は想像しながら微笑んだ。



 ***終***

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る