第二章『幸福恐怖症』①
人は匂いを嗅ぎ分ける――同類の気配を。
視線から足音、手の形、呼吸と心拍に至る細部から、敏感に察知する。
洞察眼に優れた心の専門家や探偵すら気付かない深淵を、一目覗き見ることすらある・・・・・・。
「晴斗・・・・・・私」
「うん、分かったよ美天。ちょうど、僕も君に話がある」
七ヶ月目の秋晴れの日――。
白百合病院の精神心療内科並びに小児科病棟は、今までになく剣呑な雰囲気に包まれていた。
両科の担当医師と看護師達、医療福祉士同士の集う、異例な合同会議も開かれた。
難航する会議の途中で一度休憩を挟むと、美天と晴斗は互いを呼び止めた。
不思議なことに、二人は言葉にせずとも互いの用件が合致していた。
「晴斗・・・・・・私ね・・・・・・嫌な予感がして、聞いてみたんだけど」
「大丈夫だよ、美天――」
打ち明けようとする美天本人が怯えている事に気付いた晴斗は、宥めるように囁く。
ぽんぽんっと優しく頭を撫でられた美天が瞳を丸くしていると、晴斗は全て見透かしたように微笑んでいた。
「たとえ誰が何を言おうと、僕だけは信じるよ」
決して裏切らない微笑みと優しい言葉に、美天の不安も憂いも払拭された。
だからこそ、美天は相談も兼ねて、晴斗へ真っ先に話しておきたかった。
「ありがとう、晴斗。それでね・・・・・・」
かつての自分とよく似た瞳の「少女患者」から、さりげなく耳にした話について。
*
翌日――。
「最近、増えてきている事とはいえ、本当に信じられないですよね!」
「ええ・・・・・・まさか、あの優しそうな人がねぇ。子育ての孤立化や周囲の無理解、貧困とか様々な背景が唱えられているけれど・・・・・・この事例に関して、父親には同情の余地もないわね」
精神心療内科病棟の事務所にて。
先日、対応した少女患者の事例に関して、多くの同僚は未だ釈然としなかった。
複雑困難事例の対応経験の未だ浅い百華は、嫌悪感を露わにし、ベテランの小倉すら沈鬱な面持ちで悪態吐く。
「あの女の子・・・・・・三浦・咲ちゃんは、大丈夫なのでしょうか」
「心配なのは分かるわ。後は引き継がれた『児童相談所』と警察、あの親子次第かしらね」
他機関との橋渡しを担当した小倉の現実的な言葉に、百華を含む若い看護師は、憂いに瞳を伏せる。
「そうね。暫くは、ウチの小児科へ定期的に世話になるだろうけれど、もし見かけたら、声をかけてあげましょう。さて! クヨクヨしている内にも、これから私達を必要としている患者は、たくさん来るから! 頑張っていきましょう!」
筒井看護師長の激励に、気を取り直した若い看護師達は強気な笑顔を戻す。
自分達が関わった患者の行く末を、心配するのはいい。
一方で、新たに訪れる患者とその親しい人達とも向き合うために、いつまでも後ろを向いてはいられない。
それでも――。
「これから咲ちゃんとお母さん、大丈夫かな・・・・・・」
昼休みの屋上に、太陽のぬくもりを纏う風はそよぐ。
花壇に咲いた彩りの百合は、清廉な佇まいで舞い揺れていた。
「そうだね・・・・・・むしろ、あの子と母親にとって闘いは、今から始まったと思う」
傷ついた人達は傷つけられても尚、これ以上何と闘わなければならないのか。
単純な怒りとは違うやるせない感情が、胸に燻る寸での所で、冷静な思考に鎮められた。
珍しく感傷を帯びた晴斗の言葉と眼差しに、共感する自分がいたからだ。
三日前――美天達は、十一歳の女児・三浦咲並びにその母親の支援に関わった。
体育の授業中、激しい高熱と下腹部痛を訴え、保健室へ向かう途中で意識を失った三浦咲は、救急車で白百合病院へ搬送された。
当初、小児科医は疲労と貧血が原因だと思っていたが、胸に聴診器を当てた途端に表情を強張らせた。
いたいけな胸や腹部、背中には、痣が幾つも浮かんでいた。
痣について訊くと、本人は「ぶつけた」と言っていたが、医師は嘘だと看破した。
元気な盛りの子どもならぶつけたり転んだりしても、ここまで痛ましく広範囲な痣ができるとは考えられない。
むしろ、顔や手足などの目立つ場所を巧妙に避けた卑劣な手口すら、匂わせた。
『三浦咲ちゃんは。虐待されている可能性が高いです。しかも、一度や二度ではなく、日常的に』
ただ事ではないと気付いた小児科医は、精神心療内科の医師と看護師達、福祉士とのチームによる医療福祉支援を要する、と判断した。
先ずは、病院関係者同士の情報共有を経てから、病院を訪れた三浦咲の両親にも事情を話した。
案の定、我が子が誰かに日常的な暴力を受けたという事実に、ショックを抑えられない様子だった。
しかも、本人への聞き取りと詳しい検査の結果、さらなる残酷な事実を突きつけられた。
「どうして・・・・・・あんな
三浦咲からは、性的虐待の痕跡も見つかった。
膣と子宮頸部の小さな裂傷と炎症が確認されたが、幸い性感染症の心配はなかった。
とはいえ、一番の問題は本人の癒え難い苦痛、そして彼女の肉体と魂を傷つけた相手の正体は・・・・・・。
「しかも、親が、血の繋がった我が子に・・・・・・」
三浦咲へ密かに暴力を振るっていたのは、彼女の実父だったことが発覚した。
彼女に対する性的接触が始まったのは、四歳の頃からだった。
最初は風呂場や昼寝の時に軽く触る程度だったが、彼女の成長につれて触り方はエスカレートした。
やがて、十歳で初潮を迎えた彼女を父親は――。
以降、母親の目を盗んで度々交わされたおぞましい行為によって、彼女は幾度と傷つけられた。
最近、彼女の体にできた痣は行為を拒絶した際、父親から受けたものらしい。
「先天的な小児性愛や幼少期の心的外傷体験、社会での意識や風習、文化的要因まで、様々な背景が考えられている。でも・・・・・・どんな理由があれ、父親の行為は咲ちゃんの人生と心を踏みにじろうとした、決して許されないことだ」
「うん・・・・・・でも、父親に罪を償ってもらう機会はないのかもしれないのよね・・・・・・?」
やるせなさに震えた美天の言葉に、晴斗の瞳も静寂に澄み渡る。
母親は娘を信じて味方につくことを選んだとはいえ、ある意味家族の中で最もショックを受けているだろう。
夫に対する強い不信感、と娘の安全を考えた母親は離婚を決断したが、警察沙汰にするかは直ぐに決心がつかなかった。
『百合島・性被害ワンストップ支援センター』に連絡し、三浦咲と母親への支援を引き継がせることにした。
支援センターは性犯罪・性暴力の被害にあった人のための、総合相談支援を行う。
性犯罪にあった場合の相談から、産婦人科医療やカウンセリング、法律相談などの専門支援機関とも連携し、必要に応じて無料相談や医療費助成もしてくれる。
今後、白百合病院は三浦咲の心身に対する医療的ケアという、側面的な支援に回る。
社会の
人も社会も不利益を被った人達を理解し、応援できるほどの意識も仕組みも未成熟だ。
むしろ、彼らの存在を排除し、孤独な闘いを強いてくるのが後を絶たない。
今回、美天達の胸へ、救いの光と不安の影を落とした親子の件も、例に漏れず。
「それでも・・・・・・美天が咲ちゃんに気付いて、信じてくれたことは、彼女にとって大きな救いになったと思うよ・・・・・・きっとこれからも」
弾かれたように顔を上げる美天。
晴斗は、このうえなく優しい眼差しに美天を映していた。
小さくも眩い希望を灯した晴斗の言葉に、美天は幾ばくか救われた気持ちになった。
「ありがとう・・・・・・お礼を言うのは私の方だよ。晴斗が私と咲ちゃんの背中を押してくれた。咲ちゃんとお母さんは、お互いを想い合う絆で結ばれた”本当の家族”だった」
三浦咲は、自分を傷つけてきた相手の正体を明かすことを、最初は恐れていた。
沈黙を頑なに貫く彼女の態度に、胸騒ぎを覚えた美天の勘は、晴斗の分析による想像と一致した。
両親の眼を気にせずに、彼女が安心して話せる場所へ連れて行った美天と晴斗は、慎重に話を伺った。
本来であれば先輩へ事前の相談もなく、本人への聞き取りを行うのは、不文律違反だ。
しかし一刻の猶予もなく、二人の予感通り家族が彼女を虐待していたとなれば、そのまま彼女を帰宅させたくはなかった。
「咲ちゃんは優しくて、勇敢な子だったよ・・・・・・」
本当なら言えるはずがない。
よりによって、血の繋がった優しそうな父親が、我が娘を鬼のように
口にするのもおぞましい行為を実の父親にされたなんて、家族を想う子どもなら嘘でも口に出せない。
「僕もそう思う。声に出して言えなかった咲ちゃんは、勇気を振り絞って僕達に打ち明けてくれた・・・・・・きっと今後も思い出したり、深い後悔で辛くなる事はあると思う・・・・・・それでも、二人は乗り越えていけるかな・・・・・・っ?」
「きっと、今後も僕達の助けを必要とする時もある。そんな時は声をかけて、力になろう」
被害者としてではなく、
「本当にありがとう、晴斗。咲ちゃんを・・・・・・ただの『かわいそうな子ども』で終わらせようとしなくて」
美天にとっても、救いとなる言葉だった。
涙は零していないが、震えた声で感謝を紡ぐ美天に、晴斗は微笑む。
「当たり前だよ。彼女を憐れんだりすれば、それこそ侮辱に繋がってしまう から・・・・・・彼女とよく似た瞳をした君にも、ね」
晴斗の意味深な台詞に、美天が首を傾げた瞬間――氷の空気に喉を掴まれたような窒息感に見舞われた。
「晴斗・・・・・・?」
暑いわけでもないのに湧き溢れる汗と動悸は、強い緊張と焦燥を示す。
晴斗の声も眼差しも、この上なく優しい。
しかし、この時何故か、初めて・・・・・・。
「休憩はお終いだね。行こうか、美天」
晴斗は悠々と立ち上がると、美天へ手を差し伸べた。
美天は、改めて晴斗の顔を見上げた。
そこには、普段と変わらない柔和な花の微笑みが咲いていた。
多分、自分の気のせいだったに違いない。
きっと、三浦咲の件で普段より
美天は憂いと違和感を、心から振り捨てた。
「そうだね、ありがとう晴斗」
太陽のぬくもりを帯びた晴斗の手を取った美天も、立ち上がった。
果たして、誰が気付けるのだろうか。
花壇に咲く花の位置の、微妙なズレを。
清美な花に忍び寄る、虫と雑草の気配に。
いつのまにか散落した、花びらの名前を。
*
過去が襲ってくる――。
過去へ葬った怪物が、牙を剥く。
心のかさぶたへ、爪を立てる。
過去は、幸せの絶頂にある瞬間に襲ってくる。
嗤いながら、絶望の深淵へ突き落とす――。
*
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