第一章『純美な友』①

 『人の肉体と精神は密接に繋がっており、決して切り離せないものであり――』

 『さりとて、””は穢されることなく、透明に澄んだまま――。

 『慈悲深く残酷な美しさこそ、”神の精神”なり――』


 不意に、大学時代に、瞳へ留まったとある詩人の句を思い出した。

 残念ながら、作者と著書の名前は記憶になかったが。

 まさには、その詩を彷彿させる異彩な人物だった。


 純粋無垢な美しい人――。


 今思えば、初めて顔を合わせた瞬間、私はあなたに魅入られた。

 冬の太陽さながら温かく澄み渡った瞳、と美しい顔立ち通りの人だった。


 『初めまして。今日から福祉相談室へ配属されたです』


 たかなし・はると――。

 華やかな雰囲気ではないが、私の瞳には彼こそが芸能人や学校・職場の人気者よりも遥かに美しい、と息を呑んだ。

 ああ、こんな純美じゅんびな人を見たのは、生まれて初めてだ。


 『最初は多くのことを学ばせていただくと思いますが、誠心誠意少しでもお役に立てれば幸いです。どうもよろしくお願いします』


 遡ること、半年前・二○二十年の春――和国・百合島ゆりじま・笹百合市の山沿いにある『私立白百合病院』。


 十字架に白百合の咲いた看板が目印の総合病院にある、精神・心療内科の福祉相談室へ、新人の精神保健福祉士PSWの男性は入職してきた。

 若者らしい爽やかな佇まい、気取らない丁寧な姿勢は、先輩福祉士ソーシャルワーカーと看護師達にかなり好印象だった。

 白い額と華奢な耳元で柔らかく揺れる、漆黒の髪。

 顔は、女性のように色白で繊細な線を描いている。

 一方、無駄の無い筋肉に包まれた長身は、凛と引き締まっていた。

 女性のように端麗な男性とも、知的で凛々しい女性でも通じそうな中性美に満ちていた。

 新米の美しさに、大半の同僚と先輩が浮き立つ雰囲気で、あいさつを交わしていく。

 最後に、私へ順番が回ってきた。


 『初めまして、小鳥遊さん。私は』

 『朝比奈・美天さん、ですよね?』

 『え・・・・・・?』


 小鳥遊に名前を呼ばれた瞬間――美天みそらは、心臓が凍りつきそうになった。

 初対面なはずの小鳥遊は、何故自分を知っているのか。

 まさか、のことを――。


 『あ、驚かせてすみません。以前、大学生同士の交換入学で百合山大学の授業の際、朝比奈さんを見かけたことがあったので』

 『え? そうなんですか。でしたら、すみません――』


 色を失っていた美天の緊張、と警戒を敏感に察したらしい。

 小鳥遊が美天を面識していた理由を聞くと、彼女は拍子抜けの息を吐いた。


 『ああ、気にしないでください。残念ながら、あの時は朝比奈さんと、ペアやグループを組む機会はなかったので・・・・・・所で、朝比奈さんもPSWですか』

 『はい。私は去年の春から、ここでPSWを始めました』

 『研修期間中、小鳥遊さんの教育係は、朝比奈さんに任せるから』

 『何か分からないことは、気軽に訊いてください』


 精神心療内科の福祉相談室のPSWは、十年勤めのベテランである小倉・優姫、と去年入社した美天しかいない。

 PSWは、看護師ほど人手を要することはない。

 しかし、精神心療内科の患者とその家族への生活に関する相談と支援の需要は高まる中、一人でも多くの専門職の配置と若手育成が急務だ。

 となれば、たった一年先輩である美天が、小鳥遊の教育係に指名されるのは必然だった。

 同じPSWで年の近い同僚が加わるのは、美天にとっても心強い。

 とはいえ、数年経っても慣れる気はしない仕事の教育指導する立場には、多少の責任と圧力プレッシャーは湧いた。


 『分かりました。お世話になりますが、よろしくお願いします』


 しかし、美天の杞憂は、小鳥遊の爽やかな微笑みと後に実感する彼の頼もしさによって、消えることになった。

 美天と対面する小鳥遊は、好意的に話しかけながら手を伸ばしてあいさつする。

 柔らかな美貌に飾られた黒曜石色の瞳は、やはり優しく澄み渡っていた。

 小鳥遊の眼差しに瞳を奪われた瞬間、何故だか美天は直感的に悟った。


 『こちらこそ・・・・・・よろしくお願いしますっ』


 小鳥遊晴斗の瞳に、”嘘”はない。


 彼は裏切らない――純真で心の優しい人だと。


 真っ直ぐ見つめてくるあどけない瞳は、相手の不安や恐怖を包み込んでくれる寛容さに、満ち輝いていた。

 当初の美天が、彼の魅力に惹かれていることを自覚するまで、時間は有さなかった。


 「あの、すみません。一○三号室に入ったばかりの、えっと認知症の高齢男性の方の診療録カルテは、どちらか知っている方は・・・・・・」

 「朝比奈さん。探しているのは、こちらですか」


 前日入院したばかりの患者の名前を忘れた美天が、ファイル探しに苦戦していた時のこと。

 隣のデスクで事務に務めていた小鳥遊は、何気なくファイルを発見してくれた。

 棚に押し並べられた膨大なファイルの海から、数少ない手がかりで患者の名前とファイルの場所を、即座に特定したようだ。


 「! はい、これです。ありがとうございますっ。小鳥遊さん。よく分かりましたね」

 「一○三号室に最近入ってきた患者さんで高齢男性、脳血管性障害型認知症となれば、仲田・康夫さんではないかと思いまして」

 「まさか小鳥遊さん、患者さんのフルネームとファイルの場所を覚えているの?」


 規模の大きな白百合病院は、一つの診療科病棟にいる患者の数も担当事例も多く、病状や入退院の変動も激しい。

 患者全員の名前と特徴を記憶するのは、至難の技だ。

 美天も、自分の担当する患者の顔と名前を一致させるようになれたのは、つい最近だ。

 一方、小鳥遊はたった一ヶ月で美天と一緒に担当することになった五十人もの患者の基本情報からファイルの位置まで、頭に入っているようだ。

 確か入社前に小倉先輩から小耳に挟んだ話では、小鳥遊は某・名門国立大学・医療福祉学部、とPSW国家試験の首席卒らしい。

 小鳥遊の高い学歴を鑑みれば、彼の優れた記憶力と情報処理能力の高さも頷ける。

 

 「いえ、まさか。昨日ファイルを整理していたので、偶然覚えていたんです。研修時から、朝比奈さんが丁寧に教えてくれたおかげです」

 「そ、そんなことは・・・・・・」

 「いつもありがとう。朝比奈さん」


 小倉先輩が驚嘆を零す一方、本人は謙遜する。

 自分の経歴キャリアや能力の高さを鼻にかけず、むしろ周りを持ち上げる。

 それも、小鳥遊特有の純朴な雰囲気のおかげか、お世辞や嫌味にはまったく聞こえない。

 不意打ちでさり気なく褒められた美天は、照れくさくて反応に窮してしまう。

 一方、恥じらいに俯く美天を、小鳥遊は微笑ましそうに、小倉はニヤリと見ていた。

 決して天狗にならない謙虚さには、周りだけでなく人見知りな美天すら、強い好感を覚えた。

 今まで知る限りでは、高性能ハイスペックで人気者な異性は、皆自信にみなぎっており、矜恃プライドの高さから他者に厳しく傲慢だった・・・・・・。


 そう、例えばのように。


 中には謙遜する人もいたが、表に出さないだけでここぞという所で自己顕示欲を発揮する。

 しかし、小鳥遊のように自分の優秀さよりも他者の行いを顧みて、心から感謝を示すのは彼ぐらいの気がした。

 ファイルを見つける、ただそれだけの行為を、彼は自分の手柄だとは微塵も感じていないのだから。


 「そうでしたか。苦しい気持ちを信じてもらえなかったのは、辛かったですね・・・・・・よろしければ、こちらで、数分だけでもお話しませんか」


 小鳥遊は器用さと頭の良さだけでなく、PSWとしても豊かな素質と人間性にも富んでいた。


 とある壮年の男性患者が誇大妄想と被害妄想の激しさから、時折叫びながらドアノブを蹴る問題行動を、小鳥遊はやんわりとなだめたことがあった。


 自分よりも大柄で腕力も強く、大声量で怒鳴り散らしてくる相手に美天のような若手職員が萎縮する中、小鳥遊は温和かつ毅然とした態度を貫いていた。


 他にも、帰宅願望が強く無断で院外を徘徊するアルツハイマー型認知症の高齢女性に対し、散歩という形で話し相手になり、機嫌を直した本人をさりげなく病室へ送ったこと。


 退院希望の患者と、退院断固拒否の家族とのいさかいの仲介と双方の利害一致を整理する面談でも、小鳥遊の寛容さは最適な円滑油となっていた。


 小鳥遊に独特の、静穏な佇まいに寛容な眼差しは、相手の激情を和らげる不思議な雰囲気を醸しているのだ。


 「小鳥遊君って、本当に気が利くし助かるわ。こっちの仕事も、さりげなくフォローしてくれるわよね」

 「しかも、うちらと違って、嫌な患者の悪口とか不満とか一切零さないものね」

 「今どき、あんなに素直で思いやりのあるしっかりした若者がいるなんてねぇ」


 基本的には、四六時中多忙な病院内で職員が奔走する中、小鳥遊は周りへの気配りも欠かさない。

 デスクに溜め積みした書類の整理や洗濯物、食事の遅い患者の下膳、食器や器具洗いまで業務の片手間に、さりげなくこなしてくれるのだ。

 おかげで、雑然としていた事務所のデスクや水場も、以前よりさっぱり清潔・整然とした。


 「頭も良くてルックスも綺麗で、しかも優しい。何よりも若い! あんな男性、息子としても彼氏としても最高だわ」

 「やっぱり、恋人はいるのかしら」


 まさに、頭脳も人徳も才色兼備である小鳥遊晴斗は異彩を放ち、同僚にも患者にも慕われた。

 天は二物を与えず、というのは小鳥遊に限って当てはまらない。

 基本的に他者や噂には無関心な美天ですら、小鳥遊には惹かれる魅力を感じた。  

 異性として恋愛的な深い意味ではなく、人としてという意味だが。


 「朝比奈さんの下の名前って、どんな字を書くの?」


 小鳥遊と美天は、互いに勤務歴が一年しか違わないため、院内では新米同士だ。

 研修時の教育指導と患者の共同担当も、二人の距離を自然と縮める接点となった。

 小鳥遊も立場の一番近い同僚へ、親近感を寄せてくれているらしく、時折美天を屋上での昼食に誘ってきた。

 ほとんどの同僚が食堂に行く中、自炊弁当組は、美天と小鳥遊ぐらいだ。

 屋上では晴天の温かな陽射しとそよ風、院内の喧騒と消毒の匂いから解放される心地良さが好きだ。

 それに小鳥遊とは、異性とか周囲の目を不思議と意識せずに気楽でいられた。

 今日はお昼の誘いも約束も、特に交わさなかった。

 それでも、美天が何気なく屋上に行ってみれば、小鳥遊はそこにいた。


 「美しいって漢字に、天空の天を取って、みそらって読むの」

 「美しい天、か・・・・・・綺麗な名前だね」

 「そうかなあ・・・・・・名前負けするのに」


 自分で美しいって台詞を言うのすら躊躇するのに、天空の天という壮大な漢字は何気に面映い。

 空っぽの空の方は、むしろに相応だというのに。


 「そんなことない。僕は好きだよ、美しい天・・・・・・な朝比奈さんにぴったりだ」

 「えっと・・・・・・じゅん、び? って・・・・・・?」


 お世辞らしからぬ素直な口調で紡がれた、聞き慣れない単語に、美天は問い返す。

 何とも言えない緊張感に、思わず固唾を呑む。

 相変わらず小鳥遊は、ほんわかと微笑んだまま柔らかに答える。


 「って意味だよ」


 相次いだ小鳥遊の発言は、美天にとって不意打ちの爆弾投下だった。


 「だ、大丈夫!? 朝比奈さんっ。はいお茶!」


 自分でも何をしているのか、と恥ずかしくなった。

 小鳥遊でなければ、歯が浮きすぎて寒気不可避の誉め殺しに、美天は壮大にせてしまった。

 激しい咳込みを、喉へ必死に押し込めて悶絶する美天に、小鳥遊は慌ててペットボトルを渡す。

 窮地の美天は、脇目をふらずに受け取った冷たいお茶を、喉へ注ぎ込んだ。


 「っ・・・・・・はぁはぁ・・・・・・ごめんなさい、恥ずかしい」

 「いや、いいんだ。僕こそ、何だかごめん」


 美天が壮大に咽せた原因を、明確に自覚していない小鳥遊の謝罪に、かえっていたたまれなくなる。

 小鳥遊と接してきた中で薄々気付いたが、彼は少々天然だ。

 患者の長所を見つけて伸ばしていく職業柄、人を褒め慣れているに違いない。

 とはいえ、好きとか美しいといった言葉を、ましてや小鳥遊のように実際に美貌の相手から対面で伝えられたのだ。

 お世話ではない真っ直ぐな言葉で褒められたことのない自分には、少々心臓に悪い。


 「ううん、小鳥遊さんは悪くないよ・・・・・・ただ、あまり褒めすぎだから驚いて・・・・・・お世辞でも嬉しいよ」

 「いや、本当だよ」


 苦笑で誤魔化す美天の耳朶を、透き通った声は撫でる。

 不意に小鳥遊へ視線を向けると、柔和な眼差しと目が合った。


 「朝比奈さんは、素直で優しい人だ。この病院のことや職員や患者さんのことも、色々丁寧に教えてくれた。看護師や先輩達が対応に追われている時とか、さりげなく洗い物とか片付けも済ませてくれるし」

 「それは・・・・・・まあ、私にできることって、そのくらいだから」

 「朝比奈さんにとって小さなことでも、先輩達にとって大助かりだと思います」


 具体例まで添えて説明されると、どう謙遜すればいいのか反応に窮してしまう。

 小鳥遊の指摘通り、美天は洗濯物や食器の片付けから書類の整理まで、先輩達が溜めがちな雑務をこなすのが常だ。

 さりげなく、自分がやったのだと、相手に意識されないよう密かに。


 「そんなこと、ないよ。本当に」


 ただし、美天が担当患者との関わりよりも、雑務に多くの時間と労力を費やすのは、小鳥遊の思うように立派な理由からではない。

 むしろ、自分のを解消するための気紛れに過ぎないのだ。


 「私、PSWとして就職できたけど・・・・・・小倉先輩や小鳥遊さんみたいに、患者さんと上手く話題を広げたり、気の利いた助言とかできないから・・・・・・基本、不器用で遅いし」


 美天は思わず口を突いて零してしまった卑屈な本心に、少しの後悔と自己嫌悪を覚えた。

 さすがの小鳥遊でも、返答と励ましに困るはずだ。

 けれど「本当の自分」は誰かに感謝され、褒められるに値するような人間じゃないのだ。

 こんな自分がやれるのは精々雑務、優秀有能な同僚達の影に徹することだ。

 別に、美天自分でなくてもいい。

 替えは、幾らでも利くのだから。


 「僕は・・・・・・朝比奈さんのおかげで、先輩も僕も患者さんとの関わりに、ゆとりを持てると思います」

 「ゆとり・・・・・・?」

 「以前、朝比奈さんは僕のこと、すごく気が利いて助かるって褒めてくれました。その時の僕の返事は覚えてますか?」

 「それは」

 「あれは、本当のことです。朝比奈さんや先輩に感謝される僕の仕事は全て、朝比奈さんを見て学んだことなんですから」


 小鳥遊の純真な眼差しと好意は、容赦なく抉る。

 不安と卑屈で守り固めた美天の心を。

 違う・・・・・・やめてほしい。

 どうか、そんな優しい言葉を与えないでほしい。

 自分は、人に良くされていい人間ではない。

 本当は臆病で不安で、自信がなくて、いつも、怖くてたまらないのだ。

 誰かと必要以上に深く関わることも、互いに感情移入することも。

 他者と言葉を交わす度に、空っぽで歪な自分を思い知らせるのも、正視に耐えがたい醜さを突きつけられるのが苦しくて。


 「朝比奈さん・・・・・・?」


 美天の視界は、急に霞みぼやける。

 あどけない瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいることは、声色からも窺えた。

 名前を呼ばれたのに、唇は凍りついたように動けない。

 震え始めた心から、何かが瞬く間に氷解していく。

 もはや、自分の力では抑制が効かないまでに。

 美天のまぶたに溜まり、やがて零れ落ちたぬくもりは、白い腕を濡らした。


 嘘――。


 「大丈夫です、朝比奈さん。ここには今、あなたと僕しかいません」

 「――」


 嘘――信じ難い状況に現実感を持てない美天は、愕然と凍りつく。

 安心させるような甘い囁きが耳朶を打つと、それ以上の言葉も問いかけも奏でられなかった。

 嘘か夢か。

 美天を驚愕させているのは、双眸から止め処なく溢れる透明な滴ではなく――自分自身が今、小鳥遊に――しかも、”異性”に触られているという現実だった。


 「美天さん・・・・・・」


 不意に下の名前で呼ばれる。

 慈しむ鳥のような調べに、不覚にも心臓は熱く高鳴った。

 心音が抱きしめてくる腕と胸の皮膚越しに伝わってしまうのではないか、と心配になる。

 しかし途中、目前のぬくもりを振り払おうと突き出した両手が、寸での所で止まったのは何故なのか。

 ただ、黙って抱きしめてくれる。

 それだけのことは、美天を何よりも心慰めた。

 今思えば、相手が小鳥遊だったからこそ、久しぶりに安らげたのだろう。

 きっと母か父、昔一緒によく遊んだ友達、世話になっている恩師や先輩に同じことをされても、今みたいにはならない。

 むしろ、孤独と寂しさに心は凍え、己のを思い知らせる生理的嫌悪感に拒絶していた。

 けれど・・・・・・。


 「すみません・・・・・・厚かましい真似をして」

 「いえ、私の方こそ、ごめんなさい・・・・・・目に塵が入ったみたいで」

 「そうでしたか。顔を洗いに行きますか」

 「ううん、もう平気。ありがとう」


 数分の沈黙後、少し落ち着けた美天は、口角を意識して微笑み返す。

 我ながら苦しい言い訳に、小鳥遊は納得したように優しく微笑む。

 天然だが決して鈍感ではない小鳥遊は、きっと気付いているが、あえて追求しない。 

 無表情で涙を零した美天を心配し、理由が気になっているはずだが、態度に出そうとしない所に優しさを感じられた。


 「あの、朝比奈さんさえよかったらだけど・・・・・・二人でいる時だけでいいから・・・・・・下の名前で呼んでもいいかな?」


 昼休みが終わる寸前、小鳥遊ははにかむような微笑みで、意外な希望を問う。

 珍しく歯切れの悪そうな様子は、照れているようにも見えた。

 綺麗な顔立ちに背も高いのに、純な子どもらしいあどけない表情に、美天は苦笑で応じた。


 「いいよ・・・・・・小鳥遊さ・・・・・・なら・・・・・・」


 自分でも情けないほど小さな声で、おずおずと呼んでみると、小鳥遊は瞳を丸くした。

 やはり変だったのか、と一抹の不安に駆られ後悔するも束の間。


 「ありがとう、


 普段の自分なら、他の異性に対するのと同様、適当な理由で言葉を濁して逃げていた。

 けれど、小鳥遊・・・・・・晴斗の無垢な期待と不安に満ちた眼差しが、嬉しそうにほころぶ様に、胸は温かく満たされたのだ。

 それに本心では、美天も晴斗の名前が好きで、呼べることが嬉しかった。

 ここ数年、他者と親しい関係を望めなかった自分にとって久しぶりで、尚且つ初めての感覚だった。

 ましてや、こんな私が自ら相手と一緒にいたい、相手をもっと知りたいと関心を芽生えさせるなんて。

 不安や戸惑い以上に、胸は躍った。


 「所で失礼だけど、小鳥遊さんは両親がイタリア人とか?」

 「いや、両方とも生まれも育ちも生粋の日本人だよ? まあ、昔は二人と一緒によく、ドイツに行ったことはあるかな」


 晴斗は天然で相手を褒め殺しに来るし、距離感も遠慮深い和人らしからない。

 しかし、友好的で紳士と思われるイタリア人疑惑は、外れた。

 晴斗の口から出た、両親とドイツの話題に、美天は思わず興味をくすぐられた。


 「ドイツに? いいなあ。クリスマスマーケットとか、有名だよね? どうして?」

 「実は父が精神科医で、母も父と同じ医大出身の臨床心理士なんだ。ドイツは留学時代に行ってから、現地の友達とよく交流していて。美天さんは海外には?」

 「えっと、高校の時に一度だけ、三カ月間のオーストラリア交換留学には・・・・・・」

 「オーストラリアいいね。そっちでは、サンタクロースが海辺でサーフィンして、いるんだよね?」

 「晴斗君、サンタがサーフィンするのは本当だけど・・・・・・さすがにカンガルーには乗らないよ・・・・・・実は意外と獰猛なとこあるし」

 「え? そうなの? てっきり」

 「そうだよー、あははっ」


 美天のオーストラリアの話に今度は晴斗が食いついてきた。

 オーストラリアへ渡航したことのない人間が真っ先に思い浮かべる、嘘みたいな本当とその逆の話に、美天は破顔してしまった。


 「あ・・・・・・何だか初めて見た気がして新鮮かも・・・・・・美天さんの笑顔」

 「え?」

 「普段の美天さんもいいけど、さっきみたいに自然に笑っているのも、僕は好きだな」


 またしても、晴斗がさりげなく零したくすぐったい言葉に、美天は顔を真っ赤にするが、反論する気力すらなかった。

 しかし、先程みたいに屈託なく笑うのは数年ぶりかもしれない、と美天自身も感慨深かった。

 今は普段、どれほど陰気な表情で過ごしているのか、自分でも分かっているくらいなのだ。

 しかし晴斗と一緒にいる時だけ、美天は数年よりも遥か昔の自分に帰って笑い、普通に話すことが出来た。

 今思えば、晴斗の存在が自分に失われていた笑顔、と楽しみを心に蘇らせてくれたのだ。


 かくして、一年先輩の新米PSWの美天、と一歳年下の優秀な新卒PSWの晴斗は、距離を急速に縮めた。

 互いに下の名前で呼び合う親しい同僚から、感情を共鳴し合うまでの仲へ至るまでに、時間は有さなかった。



 ***

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