第二話
「あ、青野さん……? こんにちは……」
銀行員であるらしい青野が、平日のこんな時間にいるのは珍しかった。
彼は大体疲れたような顔をしているのだが、今はいつにも増してやつれて見える。
「ちょっと、
青野はそう言って、気まずそうにちらりと悠大を見やった。
見知らぬ人間がいると都合が悪いことなのかもしれない。
「ごめん、悠大。ちょっと、先入ってて」
済まなく思いながら言うと、悠大は頷いて馨の部屋に入っていった。
「お友達に申し訳ないですね……」
「いえ……それで、話したいことって」
「ああ、えーと、それはですね」
青野は視線を下に下げた。
「あ、あのね一花さん。君はまだ元気な若者だし、あんまり咎めるようなことは言いたくないんだけど」
「? はい」
「一昨日からだったかな。夜の間、君の部屋からずっと……お、女の子の悩ましい声が漏れてきてるんだよね」
「……え?」
馨は耳を疑った。
一昨日なら、すでに馨が独りになってしまったあとの話だ。
女性の声などするはずがない。
馨があまりに険しい顔をしたからか、青野は慌てたように手を振った。
「あっ、そういう事情についてとやかく言うつもりじゃないんですよ? 若い内は、そ、それも含めて青春だと思いますから。ただ僕、最近仕事でも疲れてて、その、余計に眠れないから……程々にというか、抑えてほしいというか」
「……青野さん。それ、俺じゃないですよ」
「えっ?」
青野は隈の酷い顔で茫然とした。
「そ、そんな。だって、君の部屋に面してる壁から聞こえてたし……それに一花さん、彼女さんと暮らしてますよね?」
「いえ。もう、いません」
「えぇっ」
口を開けたまま、青野は固まってしまう。
触れてはいけない話題に触れたと思ったのか、それとも単純に馨の言葉が信じられなかったのか。
馨はそんな彼に静かに言った。
「その声、俺には聞こえてないですけど……青野さんちの上の部屋じゃないですか?」
「えっ……ああ、そうなのかな……」
「気になるなら大家さんに相談してもいいと思います」
「そ……そうですね、失礼しました。……ごめん。一花さん」
気まずそうに謝られて惨めになりながら、馨は首を横に振った。
「いや、全然……気にしてないです」
「そ、そっか。じゃあ……また。呼び止めて申し訳なかったです」
青野は軽く頭を下げて、いそいそと自室へ帰っていった。
悠大に会ったお陰で紛れていた喪失感を、青野との会話のせいで思い出してしまった。
虚しくなってその場に立ち尽くす。
そのとき、馨の部屋の中から鈍い物音がした。
「……!」
──ちょうど、衣装ケースが壁に当たったような音だった。
嫌な予感がして馨は踵を返し、自分の部屋へ飛び込んだ。
玄関から目にしたのは、壁際に除けられた
そして、開け放たれた寝室のドア。
悠大の姿は見えない。
彼のリュックとコンビニの袋だけが、リビングの床に
悠大はどこへ。
漠然とした不安に襲われる。
短い廊下を走り、躊躇わずに寝室に飛び込んだ。
「悠大……!」
「うわぁおっビックリしたぁ!」
寝室の中央辺りに立っていた悠大が振り返って叫んだ。
馨は慌てて寝室に足を踏み入れ、彼を強引にリビングへと引きずり出す。
「危ないから……! 早く出ろ!」
「わ、わりい! ごめん! 何かいるなら退治してやろうと思って! 開けちゃ駄目だった!?」
鼻先で両手を合わせ、彼はばつの悪そうな顔をする。
馨は答えるより先に寝室の方を見やったが、そこには何の気配もなかった。
「……い、いない」
実体があるとしたら、この狭い部屋の中に隠れられるはずもない。
やはりあれは、ただの幻覚だった。
馨がおかしくなっていただけ、ということだ。
体の力が抜けて、床に座り込む。
室内に漂う恋人との思い出が、流れ出てくる。
「……悠大。俺、おかしくなってる」
「え?」
「気力が湧かないだけじゃなくて……変なものが見えたりもしてるんだ。……お前にこんなこと言っても、仕方ないって分かってるけど……」
視界が滲んでいく。
半端に理性があるせいで余計につらかった。
いっそのこと我を失ってしまえば、悲しむこともないのに。
そんな思いが頭をよぎったとき、背後で悠大の溜め息が聞こえた。
少し強引に振り向かされる。
彼は呆れつつも優しげな表情をしていた。
「お前、俺の知ってる馨じゃねえわ。女に逃げられたくらいで、いつまでそんな落ち込んでんだよ? 女々しいなぁ」
「なっ……何だよ、大事だったんだから、仕方ねえだろ」
「あーそうね。でもお前がいくらそう言ったってもうあの子は帰ってこねーから。お前は振られたの! 現実見ろ!」
『振られた』。
何の遠慮もないその言葉に馨は打ちのめされる。
しかし、彼女に振られたとはとても信じられなかった。
他人に気持ちが移っている様子など全くなく、むしろ彼女の馨に対する好意は、常に最大限だったのだから。
「……そんな雰囲気、全然なかったのに」
「お前は気づけなかっただけ! 可愛かったけど、腹の読めねえ子だったじゃん?」
「…………」
「いいから切り替えろよ、な!」
馨がいまだ茫然としている一方、悠大はそう言って立ち上がった。
「まず第一歩として、この家にあるあの子の物を全部捨てようぜ!」
「は……!?」
彼の言うように、彼女は私物をここに置き去りにして姿を消している。
二人で暮らした思い出が、その全てに残っているのだ。
それらを捨て去ることは、今の馨には容易ではない。
「そんなこと、できねえよ」
「あ? うっせえ! あったって邪魔なだけだろ! ゴミだよ、ゴミ!」
悠大も彼女とは友人だったはずなのに、かなり酷い言い草だと馨は思った。
「そ、そんな言い方……。お前だって、あいつと仲良かっただろ」
「そうだけど! 俺だって腹立ってんだよ」
「え……?」
「お前があの子を大事にしてたの知ってたから。でも、あの子は裏切って傷つけたわけじゃん、まじめで一途な俺のダチをさ。そりゃ腹立つだろ」
思わぬ言葉に馨は少し驚いた。
付き合いこそ長いが悠大はいつもふざけてばかりで、真剣なことなどほとんど口にしない。
「悠大……」
「あ? 何!」
「その……ありがとうな」
「はいはい! いいから早くゴミ袋持って来い! 夜には立ち直ってもらわねえと、せっかく持ってきたゲームできねえんだから!」
さすがに恥ずかしかったのか、悠大は馨をわざとらしく睨んで声を上げる。
今の馨にこの喪失感から立ち直る自信はない。
しかしそれでも、少しだけ救われた気がした。
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