第8話

 泥の様な鈍重な疲労感が曹瑛の全身にまとわりついていた。修練所では大柄な年長者と組み手をして容赦なく打ちのめされ、教官による無慈悲な制裁を受けた。小さな体は毎日悲鳴を上げていた。しかし、今ほど倦怠感を覚えたことはない。

 昨夜の出来事がフラッシュバックする。上品そうなスーツの男が獣の如き浅ましさを見せたこと、異国の暗殺者竜二との出会い、あまりにもいろいろなことが起きて心が置いていかれるような気分だった。


 安宿のスプリングがへたったボロいベッドだが、修練所の堅い寝台とは比べものにならないほど寝心地が良かった。けばけばしい緑色のカーテンの隙間から気怠い朝日が射し込んでいる。曹瑛は重い体を持ち上げてベッドから起き出した。

 カーテンを開けると、窓の外は抜けるような青空だ。空がこんなにも広かったことを思い出す。牢獄のような修練所で見る空は岩壁に切り取られた狭い空だ。曹瑛はしばらく天上の青を見つめていた。


 窓の下ではパラソルを立てた屋台が並ぶ。食欲をそそる匂いが鼻をくすぐった。屋台の近くには不揃いなテーブルと椅子が並び、Tシャツに短パン姿のおっさんたちが大声でテレビの話をしながら朝食を食べている。その脇でおこぼれに預かろうと野良犬が待ち構えている。

 コンクリートで粗雑に舗装された道路は穴ぼこだらけで、水たまりを跳ね上げて2人乗りのバイクが駆け抜けていく。ラジオからは古くさい歌謡曲が大音量で流れている。

 何気ない田舎町の風景が曹瑛には新鮮に映った。微かな記憶の残るハルビンの寒村よりもこの町の方が“都会”だ。


「起きたか」

 部屋のドアが開いて、竜二が戻ってきた。両手にビニール袋を提げている。狭いテーブルに置き、中身を広げた。油条にカップ入りのお粥、茶葉卵、肉まん、オレンジジュース。

「どれでも好きなものを食え」

 そう言って、竜二は缶コーヒーを開ける。曹瑛は油条に手を伸ばす。油条は20センチほどの長さの棒状の揚げパンだ。一口食べると食欲が刺激された。揚げパンにかじりつき、お粥を啜る。修練所で出される飲み物は水だ。絞りたてのオレンジジュースの瑞々しい甘さに、思わず一気飲みした。


「細身だが良い食いっぷりだな」

 笑いながら竜二はタバコに火を点ける。曹瑛は肉まんをひとつ手にしておずおずと竜二に差し出した。

「ガキのくせに気を遣っているのか、気にせず食えよ」

 竜二は大きな手で曹瑛の頭をくしゃくしゃと雑に撫でた。曹瑛は気恥ずかしくなり、肉まんをそっと置いて、茶葉卵を剥き始めた。


 テーブルの食料があらかた無くなり、竜二が二本目のタバコに火を点ける。何かを待っているような素振りだ。曹瑛は沈黙を守ったままの竜二の横顔をじっと見つめている。

不意に、ドアをノックする音が聞こえた。その礼儀正しい響きに、曹瑛はビクッと体を震わせる。

「開いてるよ」

 竜二がタバコを灰皿で揉み消した。ドアが空き、そこには冷たい目をした黒い長袍の男が2人立っていた。曹瑛はこの男たちが修練所に出入りしていたのを見たことがある。そして、それは自分がまたあの巣窟に連れ戻されることを意味していた。


「さあ、行くぞ」

 感情の無い声。長袍の男は曹瑛の腕を掴んだ。曹瑛は一瞬抵抗しようと試みたが、竜二は何もしようとしない。竜二は自分をこの男たちに引き渡すのだと理解した。曹瑛は大人しく長袍の男たちに従い、部屋を出て行く。ドアのところで立ち止まり、竜二を振り返った。竜二は何も言わず、真鍮製のジッポを弄んでいる。

「竜二さん、ありがとう」

 一緒に連れて行って欲しかった―曹瑛はその言葉を飲み込んだ。背後でドアが閉まる音がする。曹瑛は黒塗りのバンに乗せられ、安宿を後にした。


 フルスモークのバンの中から外の風景を見ることはできない。だが、修練所に向かっているのは確かだった。曹瑛は心にぽっかりと穴が開いたような気分だった。昨夜、初めて出会ったばかりの竜二は、曹瑛の中に忘れ得ぬほどの鮮烈な印象を残した。彼の鮮やかなナイフ捌きは今も脳裏に焼き付いている。そして、その黒い瞳に惹かれた。それは何故だか分からない。


 信じられるのは自分だけ。物心ついたときからずっとそう言い聞かせてきた。竜二は初めて信じても良いと思えた人間だった。しかし、それは曹瑛の勝手な期待だったのだ。運転席にいる黒い長袍の男たちと自分を連れ戻す話が予め通っていた。竜二が居場所を告げたに違いない。竜二も組織の人間だったのだろう。


 信じた人間に裏切られた、というショックがじわじわと曹瑛の小さな心を苛んだ。きっと彼もそうしなければ、組織に目をつけられるに違いない。頭では分かっていても、どうして連れていってくれないのか、となり振り構わず泣きわめいて竜二に縋り付きたい気分だった。曹瑛は目尻に浮かぶ涙を乱暴に拭った。


「脱走者には厳しい処分が待っているのは知っているな」

 助手席の男の低い声に、曹瑛は震える唇を噛む。日の光の当たらぬ懲罰房へ30日間放り込まれるか、寝台を取り上げられ、床で寝ることになるか。もしくは、死か。

「しかし、お前は下衆な連中に連れ去られた、そう聞いている」

 竜二が事情を説明したのだろう。曹瑛ははっと息を呑む。

「お前の処分は見送る」

 長袍の男たちの会話から、昨夜自分を連れ出した奴らは始末されたようだった。


 再び、高い絶壁に囲まれた修練所での毎日が始まった。戻ってきた曹瑛は変わらず修行に熱心だが、その反面心ここにあらずといった雰囲気を纏っていた。それを見た周囲の子供たちは曹瑛を指さし、噂話をした。夜中に姿を消し、戻ってきたものは呆然としてまるで魂が抜けた状態になる者が多い。それはとても口に出来ないような屈辱的な目に遭ったのだと。

 言いたい者には勝手に言わせておけばいい。彼らの陰口は気にならなかった。誰とも相容れぬ曹瑛は以前にも増して孤立した。


 一心不乱に鍛錬を重ねるだけの日々に目標が出来た。竜二のような暗殺者になることだ。技の切れが良く、冷静で迷いが無い。この世界でどんな汚いことをしても生き延び、兄の復讐を果たす。そのためには心を殺して強くならねば。曹瑛は岩壁の隙間から冷たい光を放つ月を見上げた。

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