第40話 帝妃

 俺は見晴らしの良い丘の上に出ていた。眼下には湖が広がっている。午後の陽光を浴びて、凪いだ水面が、一面に銀色のビー玉を敷き詰めたように輝いている。


「うわぁ……」


 思わず、そんな溜め息が漏れた。いや待て、感動は後だ。先ずはレティエヌを探そう、と見下ろすと、レティエヌが芝の丘を滑り台のように下っていくのが見えた。そして消えた。多分、崖になっているのだろう。


 俺はそろりそろりと慎重に下っていく。やはりレティエヌが消えた地点は崖だった。ただ、崖は高くはなく、人の身長くらいだった。崖を飛び降りてすぐ、はあった。


 崖は石で固められ、木で出来た玄関が備え付けてある。しかも、その周りには花壇が幾つも置かれ、色とりどりの花を咲かせている。なんだか、おとぎ話にでも出てきそうな家だ。


 俺が見とれていると、突然ドアが開かれ、中からレティエヌが現れた。


「遅いよ! 早く来なよ!」


「あ、あぁ……」


 俺は、レティエヌに促されるまま、中へ入った。


 中にはカンテラが幾つもあり、意外に明るかった。家具などのほとんどの調度品は木でできているらしく、非常に快適な空間に見えた。確かに洞窟ではあるが、「巣穴」ではない。「住居」だ。これは嬉しい誤算だ。


 そして、その部屋の中央に、一人の女性が立っていた。獣人ではない。帝国人の女性だ。


 俺は驚いて、声も出なかった。てっきり、レティエヌの実家というから、家にはターク族の獣人がいると思っていたので、あまりにも意外だった。誰だ? 飼い主か?


 歳の頃は三十代か四十代、綺羅星のお母さんくらいだろうか。とても綺麗なところも綺羅星のお母さんを彷彿とさせる。そして何より俺の目を引いたのは、彼女の右目が青で、左目が赤だったことだ。髪の毛は全て白髪、というより銀色だが、昔は半分は金髪だったのかもしれない。つまり、今の俺とほぼ同じ配色だということだ。


「あら……、レティエヌのお友達って……!」


 驚いたのは向こうも同じだったようで、レティエヌが連れてきたのだから、獣人だとばかり思っていたのだろう。ただ、この人は俺よりも動揺しているように見える。


「友達ってわけじゃねぇよ」


 レティエヌが小声で呟いた。


「こら、そんな口の利き方ダメでしょ、女の子なんだから」


 レティエヌは「はぁい」と拗ねながら返事した。おい、どうしたレティエヌ? 俺を殺そうとした彼女からは全く想像できないリアクションだ。


「私は……、この子の母親の……、フレーナと言います……」


 フレーナさんはそう自己紹介をした後も、俺をまじまじと見つめたままだ。その感じが、何とも言えない感じだ。あまり良い感じではない。と言って、責めるようなところは微塵もない。憐憫、とか、労い、とかが入り混じったような、一言で言えば同情的と言えばいいだろうか。


「あ、僕……、私は、私の名前は……、その……何というか」


 話せば長くなるので、どこから話せばいいものやら。


「母さん、その子……」


「帝妃様でしょ」


「なんだ。やっぱり知ってるのか。でも今は違うけどね。母さんは昔帝国に住んでいたんだ」


 後半は俺に向けて言った。


「え、あなた、今はもう帝妃じゃないの? 今は……?」


「はぁ……、色々ありまして」


 フレーナさんは興味深そうに、改めて俺を見た。


「母さん、帝妃の名前とかってわかんない? その子、自分の名前がわからないんだ」


「え? 名前って……、あなた……」


「えっとぉ……、訳あって記憶がなくてですね……」


「そう……」


 フレーナさんの表情には憐憫の色が濃くなった。


「あの……。帝妃にはね、名前はないの。帝妃は帝妃なの」


 その時、「やめて!」という声が心の中から聞こえたような気がした。もちろん、気のせいだったかもしれない。


「え……! 帝妃って、名前、ないんスか?」


「えぇ、例えば、神様に名前はないのと同じ……」


 参ったな。じゃあ、これから何て名乗りゃいいんだ?


 「帝妃です」とは言えないよなぁ。だって俺、もう帝妃じゃないし。「元帝妃です」。まぁ、そうなんだろうけど、なんか締まらない感じだ。「ザ・レイディ・フォウマリィ・ノウン・アズ・帝妃」。ややカッコ良くなったが、ちょっと長い。この際、マークか何か作って「好きなように読んでくれ」とでも言ってみようか。


 突然、フレーナさんが俺を抱きしめた。なんだなんだ?


「お前、どうしたんだよ……」


 レティエヌが俺を見て驚いている。


「どうしたって?」


「だってお前、泣いてるじゃん……」


 言われて初めて、頬が冷たいのに気がついた。一つも悲しくなんかないのに(困ってはいたが)、涙が溢れて仕方がない。全然止まる気配もない。


 いや、違う。だんだんと、そう、だんだんと、悲しみが俺の内側から溢れてきた。いや、もうダメだ。悲しくて仕方がない。悲しくて悲しくて仕方がない。


 俺は声を上げて、申し訳ないが、フレーナさんにしがみついて泣いた。


 ただ、この悲しみは俺のじゃない。俺の中のもの、多分、隠界に行く前の帝妃のものだ。だから、なぜ悲しいか、俺には全然わからない。


 いや、違う。だんだんと、やはり、だんだんと、悲しみの理由がわかってきた。


 帝妃とは、産まれてすぐにわかるものなのだ。青と赤の目、金と銀の髪。それは四つの属性を持つ者の証なのだ。その子が産まれたら、すぐに城に差し出される。そして親とは引き離され、「帝妃」として育てられる。


 帝妃とは、人ではない。


 兵器なのだ。


 だから、大事にはされるが、それはだ。


 何の決定権もなく、ただ枢密院に言われるがままに災害を起こし、敵を殲滅する。それだけの存在なのだ。


 思い出した、というより、加えられた。帝妃の記憶が、俺の記憶の中に加えられていく。


 私には、親はない。家族もない。人ですら、ない。ただの、道具だ。



 泣き疲れたので寝かせてもらったら、それまでの疲労もあったのだろう、起きたら一両日が経っていた。


 実はそれだけ寝てもまだ寝足りなかったのだが、なぜ起き出したかと言うと、腹が減ったからだ。眠気と空腹の人間の二大生存欲求の壮絶な格闘の結果、勝利を収めたのは空腹であった。


 のそのそとベッドから這い出て居間に行ったら、タイガーマスクがいた。


 まさかこんなところに、と思いサインを貰おうとしたが、まさかこんなところにいるはずはなく、なんと、というか、案の定、というか、レティエヌの親父さんであった。


 やはりターク族で、身の丈は優に二メートルを越える巨漢であった。猫というよりは、そのものズバリ虎である。


 この親父さん、俺を見るなり、寄ってきて、その巨大な顔を二階から打ち下ろすように近づけてきた。


 食われる!と思って思わず目をつむったが、食われることはなく、俺の頭をごく軽くポンポンと叩き(本気でポンポンやられたら砕けるだろう)、俺の頬に自分の頬を摺り寄せてきた。多分、歓迎の証であろう。なんとなくそんな風に感じた。


 そして、自分を指さして、


「ラギティエフ」


 と言った。どうやら、この親父さんの名前らしい。


「あ、初めまして。私は、その……」


 そうだった……。今の俺には、名前なんて、ないのだ。


 しかし、事情は聞いてるのか、俺が言い淀んでいると、また俺の頭をポンポンと軽く叩き、頬を摺り寄せてきた。そして俺の名前を尋ねることはなかった。

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