薄っぺらな嘘

「愛っていうのはさ、あたしはね、心の中に宿るとか、そういうものじゃないと思うんだ。きっと、それはコミュニケーションそれ自体の中に介在するの。そう思わない?」


 という小説の中の台詞をわたしは思い出す。誰のどういう小説に出てくる台詞かというと、わたしが十三年前に書いた小説同人誌の中に出てくる主人公の台詞です。もちろん完全に忘れていましたが、さっき読み返したばかりなもので。いやー、青かったね。当時十六歳ですよ。


 愛とは何かって? 分かるわけないだろ、そんなこと。……みたいに言うと、恋愛小説なんか書いてるくせにそんなことも分からないのかって言われることもあるのだけど、それは話が逆で、分からないから恋愛小説なんか書いてるんです。愛とは何ですか、と問われて、一言即答ですぱっと答えを言えるような奴、小説家には向かないよ。ま、それも私論だけど。


 ちなみに、この台詞はどういう場面で出てくるかというと、ヒロインが初めてキスをするシーンで出てくる。十六歳当時のわたしにはその経験も無かったので、いろいろ空想して書きました。お前は知らないが、実際にはイチゴの味などはせんのだぞ、16歳のわたし。


「俺もさ、昔小説書いてたことがあるんだ」


 と言うのはわたしのことをまだ23歳のフリーライターだと思っているわたしの彼氏。


「むかしって?」

「高校の時。文芸部にいてさ」

「なるほど」

「でも、なんていうか自分よりうまい小説を書く人があまりにも世の中には多くいるんだってことに気付いて。それで筆を折ったんだけど、一番の原因は、『苹果と甜橙』を読んだのがあまりにもショックでさ」


 りんごとてんとう。貫井潜夏のデビュー作にして代表作である。つまりわたしが書きました。


「密さんは小説って書いたことある?」


 なんと答えるべきか二秒悩んだ。


「いや。ライターと小説家はちがうので。そういうのは畑違いかな」

「そっか」


 仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略という。明智光秀の言葉(※本当)。


「貫井潜夏の恋愛思想って、本当にすごくてさ。例えば、『苹果と甜橙』の第一部に出てくる、ヒロインの台詞なんだけど——」


 そこから延々、自分の小説についての解説を聞かされ、うんうんなるほどと相槌を打つわたし。まあ確かに愛というものはある意味ではそういったコミュニケーションの中に介在するのかもしれない。


「しかし、どんな人なんだろうね、貫井潜夏って。たぶん女性なんだろうとは思うけど。どんな恋愛遍歴辿ったら、あんな小説が書けるようになるんだか」


 作家・貫井潜夏のプロフィールは、顔写真はもちろんのこと生年月日すらも公開されていない。Wikipediaにも載ってない。


「そういう君の恋愛遍歴は?」


 たぶん生身での恋愛経験は君の方が豊富だよ。それは作家としての霊感だけで分かる。


「知りたいの?」

「うん。初体験いつ?」

「……16歳」

「相手は?」

「当時の文芸部部長。その人に貫井潜夏の作品を紹介された」

「わお」


 わたしも文芸部の女部長だった経験がありますが、その当時はまだ……いえなんでもありません。


「まあ、昔のことはそのくらいにして。そろそろ……その。電気消していい?」

「いいよ」


 性行為そのものは愛ではない。それは知れ切ったことだ。ついでに言えば別にこれらの行為が愛における不可欠の要素というわけでもない。でも、それでも。


「密さん……それ……」

「こういうのは、初めて?」

「……密さんは慣れてるの?」

「ううん。君にするのが初めて」


 誰かに受容されるということ。誰かを受容するということ。そこに介在するものが、愛でなければ何だろう。そういう風に考えると、16歳のわたしの発想もそれなりのものではあったかもしれない。言葉にはいくらでも嘘を混ぜることができるが、受容という行為から愛を取り除くことはできないでしょう?


「……シガレットなんて名乗ってるから」

「ん?」

「こういうタイミングで煙草吸ったりするタイプなのかと思ってた」

「あー」


 わたしはツイッターを開いてエゴサーチをする。なんで貫井潜夏のサイン会が突然中止になったのか、という話をしている人がちらほらいる。さあ、何ででしょうね。急病かなんかじゃない? ほら、お医者様でも草津の湯でも、ってよく言うじゃないですか。知らんけど。

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