たとえ貴方が地に落ちようと

長岡更紗

第1話 おかえりなさいませ


 血の味がした。


 なんの罪もない者を斬り伏せて、その返り血がサビーナの頬を叩きつける。

 後悔を感じる暇などなかった。

 必死だった。

 ただ彼を救うために、夢中だったのだ。


「私と一緒に来てください!!」


 サビーナがそう手を差し出すと、彼はゆっくりと首を横に振った。


「貴女まで咎人にさせるわけにかいかないのです」


 こんな時にまで優しい笑みを向ける彼に、サビーナは力の限り叫ぶ。


「たとえ貴方が地に落ちようと!! 私は決して貴方を見捨てたりはしません!!」


 すると彼は困ったように、悲しそうに、でもどこかほんの少し嬉しそうに。

 緑青色の瞳をサビーナに向けた。


「苦労を、かけますよ」

「承知の上です!!」


 そんな苦労ならばいくらでも我慢できる。

 彼のためならば、いくらでも。


 二人は互いの意思を確認するように頷き合うと、共にアンゼルード帝国を後にするのだった。






 ✳︎✳︎✳︎




 サビーナとセヴェリの出会いは、アンゼルード帝国のランディスという街。

 帝国で一、二を争うほどの高貴な貴族の令息が、セヴェリ・オーケルフェルトその人だった。


「おかえりなさいませ、マウリッツ様、セヴェリ様!」


 オーケルフェルト家のあるじたちが外出先から屋敷に戻ってくると、彼らを迎えるのがサビーナの仕事だ。


「ただいま、サビーナ」


 いち召使いであるサビーナに笑顔を向けてくれたのは、次期当主であるセヴェリである。

 柔らかな金髪に優しい笑みを讃えていて、その顔を見るだけでサビーナの心はほんわかと温まる。


「サビーナ、後で私の部屋に紅茶を持ってきてくれますか?」

「は、はい! かしこまりました!」

「ありがとう」


 セヴェリの物柔らかな口調。貴族だというのに横柄な態度は微塵もなく、サビーナは憧れの眼差しを持って彼を見上げた。

 目が合うとにっこりと微笑まれて、サビーナの胸は勝手に高鳴りを見せる。しかしそれもすぐに、隣を歩いていた彼の父親の視線に壊されてしまった。


「セヴェリ。メイドなんぞに気を使うな。いちいち伺うことも、礼を言ってやる必要もない」


 父親であるマウリッツの指摘に、セヴェリは少し困ったようにニッコリと微笑みを返している。


「礼の心と、笑顔を忘れてはいけないと母さんは言っていました。私はそれを実践したいと考えています」

「フン、その教えは男であるお前には必要ない。そんなことは、女どもがやっていればよいのだ。セヴェリ、そんな態度ではこのオーケルフェルト家を守ってはいけんぞ」

「……はい」


 セヴェリはマウリッツの言葉に、優しい笑みを失う。父親に逆らうことなく従順な態度を見せる彼に、サビーナの胸は痛んだ。


 可哀想なセヴェリ様……


 セヴェリの悲しい背中を見送りながら、サビーナは彼を思った。

 マウリッツの妻であり、セヴェリの母親である人物は、何年も前に流行病で亡くなったのだそうで、サビーナは会ったことがない。

 名前はアデラというそうで、ホールには肖像画が飾られてあった。それを見ると、セヴェリは間違いなく母親似だ。

 明るく光る金の髪。緑青色した瞳。優しい目元と、緩く上がる口角。きっと、素敵な女性だったに違いない。あのセヴェリの母親なのだから。



 サビーナはそんなことを考えながら、サービスワゴンの上にティーセットを手早く用意した。そして少し考えてから、手作りのクッキーをワゴンの上に追加する。

 頼まれていないものだが、食べなかったなら食べなかったで別に構わない。


 ちょっと疲れているようだったし、甘い物を取ってくれたらいいな。


 そう思いながらゴロゴロとワゴンを押して、セヴェリの部屋の前に到着する。そして規則正しくノックをすると「どうぞ」と入室を促す声が聞こえた。


「失礼いたします。紅茶を持って参りました」

「ああ、いつもすみません。ありがとう」


 やはり、セヴェリは丁寧にお礼を言って微笑んでくれる。傲岸不遜な貴族が多い昨今、セヴェリのような青年は本当に珍しい。


「ああ、クッキーも持ってきてくれたのですか」

「あ、はい。私の手作りなのですが、ご迷惑であればすぐにお下げ致しますので……」

「サビーナの? へぇ、それは嬉しいですね」


 こんな何気ない一言でサビーナの口角は勝手に上がっていく。

 セヴェリはどうしてこんなにも穏やかで、人の心を和ませてくれるのだろうか。


 サビーナだけではなく、この屋敷に仕える者全員がセヴェリのことを好いていた。老いも若きも男も女も関係なく、それこそ身分の差も気にせずに、セヴェリは接してくれるからだ。

 彼の嫌がる顔や怒った姿を、ここの誰も見たことがない。こんな温和な人物を嫌う者など、居はしなかった。


 セヴェリはクッキーに手を伸ばすと、ゆっくりと味わってくれている。どうだろうかと少しハラハラしながらその様子を見ていると、食べ終わると同時にセヴェリはコクリと頷いた。


「うん、美味しいです。知りませんでしたよ、サビーナにこんな才能があったとは」

「さ、才能だなんて!」


 サビーナは慌てて両手を左右に振る。才能なんて言えるものではない。お菓子作りは好きだが、それは趣味の範囲内だ。本格的な職人に比べて、それは遠く及ばない代物である。


「本当ですよ。少しボソボソとしていて、粉っぽくて、すぐ喉が渇いてしまいます。中々こうは作れません」

「……えっ」


 そう言われて、サビーナの顔は燃えるほどに熱くなった。セヴェリの言う才能が別の意味であったことを知り、勝手にいい方の解釈をいた自分が恥ずかしくなる。


「うう、お下げしますーっ」

「あ、待ってください」


 クッキーを下げようと手を出すと、上から阻止するようにセヴェリの手が触れる。サビーナは無意識にビクッと震え、思いっきり手を引っ込めた。

 しまった、今の態度は悪かった……と思ったサビーナだったが、当のセヴェリは少し驚いた顔をしただけですぐにいつもの笑顔となっている。


「本当に美味しいんですよ。……この味は、母が作ってくれたクッキーによく似ている」

「アデラ……様の……?」

「ええ、懐かしい味です。また、ぜひ作ってください」

「は、はいっ!」


 サビーナが元気よく返事をすると、セヴェリは目を細めて頷いてくれていた。

 セヴェリの言うことが本当なのか、気遣いなのかはわからなかったが……それでも、セヴェリにクッキーを食べてもらえたことが嬉しかった。




 セヴェリの部屋を出てワゴンを押して行くと、後ろからトンと背中を叩かれる。ふと見ると、そこには騎士服を纏った大柄の男……兄のリックバルドが立っていた。


「リック」

「どうだ、サビーナ。仕事は慣れたか?」

「うん、まぁまぁ、かな」


 兄と言っても親同士が連れ子再婚したため、血の繋がりはない。

 祖父がラウリル公国出身のため、この地には珍しい深い緑色の髪をしているサビーナに対し、リックバルドは黒髪である。

 そのリックバルドが、サビーナの髪をくしゃくしゃと撫でつけた。

 現在二十九歳のリックバルドは、十三も年の離れたサビーナを、妹というよりは最早娘のように思ってくれている。

 一般庶民であるサビーナが、こんな高貴な貴族のメイドになれたのは、この兄の口利きのおかげだった。


「あんまり部屋の中で裸でいるんじゃないぞ」

「し、下着は着けてるから大丈夫だよっ」

「まったく、裸族が……」


 リックバルドは呆れたように息を吐き、サビーナはむうっと口を尖らせた。

 彼はサビーナが物心ついた時から、ずっと一緒にいる。忙しい両親に代わって、このリックバルドが育ててくれたようなものだ。

 割と最近まで一緒にお風呂に入っていたりもしたので、素っ裸で家を歩き回っていてもなにも言われることはなかった。というのも、彼の母親も同じような裸族だったからでもあるが。しかしさすがにここではまずいと思ったのだろう。

 見習いのメイドは一年間、この屋敷で暮らして勉強することになっている。立派な一室を与えられて、正直家より快適なくらいだ。裸族でいられないという一点を除けば、ずっと住み続けても構わないなぁなんて思ってしまっている。


「お父さんとお母さんは元気?」


 サビーナが話を振ると、リックバルドはサビーナの頭の遥か上で頷いた。


「ああ、サビーナを毎日心配している。お前のことだから、マウリッツ様やセヴェリ様に粗相をせんかとな」

「うう……今のところ、大丈夫……だと思う」


 今日のクッキーは、粗相というほどでもないはずだ。似たような失敗は、何度もやらかしてしまっているが。


「セヴェリ様は優しい方だが、メイドであるお前が甘えてはいかんぞ」

「わ、わかってるってば」

「ならいいが」


 そう言うとリックバルドは目を細めて笑い、もう一度サビーナの頭をグシャッと撫でると立ち去っていった。

 リックバルドはオーケルフェルト騎士隊の班長という立場にあり、それなりの地位にいる。ここに来て初めて知ったことだが、リックバルドは意外にモテるようだった。

 長身で切れ長の目、剣の腕前は隊長に匹敵するとも言われている、らしい。

 見た目は無骨で近寄りがたいが、割と誰とでも仲良く喋ることができる、気さくな人物である。


 血は繋がっていないが、そんな兄を持つと鼻が高い。サビーナには色々と小言を言ってくる、ちょっと鬱陶しい存在でもあったが、身内が人から好かれるというのは嬉しいものだ。

 できれば、リックバルドにもそんな気分を味わわせてあげたい。当主に信頼され、みんなに好かれるメイドになれば、きっとリックバルドに自慢の妹だと言ってもらえるだろう。


 今は無理でも、いつかリックに自慢してもらえる妹になりたいな。


 そんな風に思いながら、サビーナは日々の仕事をこなすのだった。

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