第16話 夜明け

「放して! これ以上、ひとの事情に突っ込まないでください!!」


 真昼間の道路の真ん中で、掴んだその手を振り払われた。

 大人しい彼女らしからぬ拒絶の姿勢に、俺は大きく狼狽える。

 涙目の青は、こちらを睨みつけていた。


「ハッキリ言って、迷惑だわ」


 お前には、分からない。

 

 明確な拒絶を突き付けられた俺は、黙って彼女を見つめていた。

 


 




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  泡沫の人魚姫  第16話 夜明け




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 時は少し前に遡る。

 昨日、上浜とシレーヌが神谷家に帰るのを見届けた後、俺は一人で考え込んでいた。


 シレーヌの正体が判明した今、俺たちは新たな目的をもって動き出した。

 目的とはもちろん「青を救い出す」ことであるが、それがいかに難しい事か。頭を抱えていたのだ。

 

 俺たちと青の関係性を問えば、よくて知人と言ったところだろう。

 それもそのはず、青としての彼女に会ったのは、昨日が初めてなのである。

 しかも、たった数十分話した限りの仲だ。

 そんな相手から、


「君は虐待を受けているよね、逃げ出そう!」


などと言われて、どこの誰が手を取るのだろうか。


 一番確実な方法は、徐々に距離を詰めてから悩みを聞き出すことだろうが……彼女と仲のよさそうな上浜の妹ですら、そういった話は知らない様子だった。

 だとすれば、青は全てを抱え込んでしまう人種なのだろう。

 自分もそういう部類だと自覚している分、気持ちは分かる。

 俺のような人間は、他人からの干渉を嫌う。

 以前、上浜がグイグイ関わろうとしてきたときなんて、正直ストレスで禿そうだった。


 けれど、そういう人間は、荒治療でもしないと前に進めないのだ。


 俺は、誰かに感情を揺さぶられて吐き出すことで、今まで前に進めてきた。

 大きな博打となる可能性もあるが、時間をかけている暇もない。

 虐待など、いつ取り返しのつかないことになってもおかしくないのだ。


 俺は嫌われるのを覚悟で、彼女を揺さぶるのが一番の最適解だと判断した。




*




 その翌日、昨日と同じ時間に、俺は駅のホームにいた。

 もちろん、青の降車を待っているところだ。

 

 そんな回りくどいことをしなくても、会いに行くのは簡単だろう。

 青の家を訪ねれば一発だ。

 しかし、教えたはずのない相手がいきなり訪ねてくるなど、恐怖体験以外の何物でもない。

 そういった事情を踏まえて「偶然」また駅で出会った体が無難だろうと考えたのだ。


 そして時間通り、電車から降りる彼女の姿を目撃した。

 上浜妹は寄り道をしなかったのか、今日は青一人のようだった。

 階段へと向かう彼女の元に駆け寄った。


「こんにちは、青さん」


 笑顔で声を掛ければ、足元に視線を落としていた青が、こちらに注目した。

 

「……凛久さん。またお会いしましたね」


 彼女は暫し驚きの表情を見せた後、頬を優しく緩めた。

 どうやら、警戒はされてないらしい。


「青さんは学校の帰り? 俺も塾があって、さっき帰ってきたんだ」


 嘘は言っていない。

 電車の時間を合わせるためと自習室に少々籠ってはいたものの、紛れもない事実である。

 行動だけで考えると、自分が変質者になったようで胃が痛んできた。


「そうです。学校の授業だけじゃ不安なので、夏休みに補講を」


 青と話すための、いい口実を見つけた。


「そうなんだ。もしわからないことがあれば、教えようか?」


 彼女は私立中学に通っているようだから、高校の範囲を進めていてもおかしくはないが……まあ大丈夫だろう。幸い高校2年終わりまでの内容であれば、頭に入っている。


「けれど、そんな……」


 青は少し躊躇いをみせた。

 そりゃそうだろう。昨日会ったばかりの人間に誘われて警戒しないわけがない。

 しかし、押せば行けそうだ。

 そこで俺は、言葉巧みに畳みかけることにした。


「会ったばかりの人間にそんなこと言われれば、驚きもするよな」


 薄っぺらい笑顔を張り付けて、口を開く。


「俺、教師を目指していてさ、人に教えるって経験してみたくて。塾講師の募集は大学からだしさ、中々難しいんだよ。だから、青さんの話を聞いてよかったら教えさせてもらえないかなって」


 教師になりたかった?

 そんなの俺だって初耳だ。完全なる口から出まかせであるが、案外いい嘘をつけたのではないか。

 初めてシレーヌに会った時のような外面を張り付け、悲しそうに青へと語り掛ける。


「……そ、それなら」


 押しに弱い性格なのだろうか。

 渋々といった態度で、青は小さく頷いてくれた。


 


*




「ごちそうさまでした。長い事教えてもらっちゃって、申し訳ないです」


「大丈夫だよ、ドリンクバーとポテトだけだし。こちらこそありがとう」


 長い事ファミレスに居座っていたせいか、空はもう赤くなり始めていた。

 ここの通りは、なぜファミレスができたのかと住民が首をかしげるほどに、人通りも少ない。

 今の時間帯は小学生が帰るのには少し早く、学生が遊びに出かけるのには少し遅い。

 その事情も重なって、人っ子一人もいなかった。

 青を送ってくという口実の下、俺は二人きりで相手を探る機会を得たのだ。


「それにしても、青さんは覚えがいいね。すぐに理解してくれるから、教えるのが楽しかった」


「そんな、凛久さんが分かりやすかったからです」


 定型文を言い合うように、お互いの能力を褒めたたえ合う。

 けれど、そんな話をしたいわけじゃない。


「そう言ってもらえて嬉しいよ。俺、父親に教師になるの反対されてるから」


 親の話と不安な心情。青の抱える問題の核心を突く内容を話題に取り入れてみた。


「……そうなんですね」


 気まずさを感じたためか、青は長い睫毛を下へと向ける。


 食いつかなかったか……


 ならばと、俺は追撃の態勢を整えた。


「けどさ、やっぱり人に教えるのってやりがいがあるな。今日改めて気づかされたんだ。俺、やっぱり教師の夢を諦めきれないからさ、父親と話し合ってみようと思って。おかげで覚悟ができたよ、ありがとう」

 

「いえ、本当に……凛久さんは、凄いわ」


 彼女の口調が緩まった。

 シレーヌの話をしていた時のように、本心を語っているときは敬語を取り払ったその口調になるのだろうか。

 俺はここぞとばかりに、話を進める。


「凄いって、どうして? まだ中3なのに高校生の範囲を扱っている青さんの方が凄いよ。それに、応用問題だって問題なく解けていただろ? あの問題は大学入試にも……」


 彼女が反論しやすいように、わざと違う話題で捲し立てた。


「そうじゃないの!!」


 きた。


 彼女はしまったとでも言うように、手で口元を抑えていた。

 俺はとぼけたふりをして、真意を尋ねる。


「そうじゃないってどういうこと?」


「それは……」


 言い淀む彼女に目線を合わせるため、腰をかがめた。


「もし、何か悩んでいることがあるのなら、相談してくれないか? 俺も、父親とのことで悩んできた経験があるから、力になれると思うんだ」


 綺麗な流れが作られた。後は青が悩みを話すだけだ。


 最大の餌をぶら下げて勝利を確信していたのもつかの間、青は首を横に振ったのだった。


「……悩みなんて、無いですよ。少し、勘違いしてしまったみたいです」


 綺麗なまでに作られた笑みを浮かべる彼女からは、やんわりとした拒絶の意思が伝わった。

 が、ここで足踏みをしているようであれば、彼女は一生他人に助けを求めないだろう。


 そこで当初の予定通り、彼女の領域に足を踏み込んでみる覚悟を決めた。


「俺さ、実はこの辺に住んでるんだけどさ、この間酔っ払いの器物破損事件があったんだよ」


 青は眉間に皺をよせて、こちらを伺っていた。


「それで、聞いた話だとその酔っ払いの名字が神谷って」


 答えを待つように彼女へと視線を送り続けると、観念したのか、青は肯定した。


「ええ、私の知っている人だわ」


 弁解も擁護もせず、諦めた色を目に宿す。


「俺、最近夜に出歩くことが増えたんだ。けどさ、ここらへんって夜に怒鳴り声が聞こえることが多くって。ああ、もしかして青さんの家もこの近く?」


「そうよ」


 青は静かに返事をする。

 彼女の覇気があまりに無い。もしかすると、やりすぎたのかもしれない……まあ、それでいいだろう。

 

「だから、青さんも親のことで悩んでいるんじゃないかと思って……」


 言い訳でごまかすフリをして、青が一番触れられたくないであろう部分をつついてみた。

 これで言い逃れるのは難しいだろう。

 青の出方を待つ間も、二人の足は進む。

 気がつけば、青の家の屋根が向こうに見える距離までたどり着いていた。

 返事のない青へのダメ押しとばかりに、最後の言葉をかける。


「青さん、悩んでるんだったら相談してほしい。絶対、力になるから」


 これは紛れもない本心だった。


 俺と、シレーヌと、上浜の気持ちだ。


 思わず言葉に力がこもって、彼女の腕を掴んだ。

 



「放して!」




 声を発したのは青だった。

 先ほどまで黙っていた少女とは思えないほどの形相で、苛立ちを全て、こちらへと向けている。


「これ以上、ひとの事情に突っ込まないでください!!」


 真昼間の道路の真ん中で、掴んだその手を振り払われた。

 大人しい彼女らしからぬ拒絶の姿勢に、俺は大きく狼狽える。

 涙目の青は、こちらを睨みつけていた。


「ハッキリ言って、迷惑だわ」


 お前には、分からない。

 彼女は明確な意思をもって俺を拒絶すると、そのまま家へと駆け出してった。




*




「そう、凛久の言葉には耳を貸さなかったのね」


 シレーヌは星空の輝く海の下、大きなため息をついていた。

 その聞く耳を持たなかった本人が、その状況に頭を悩ませているという構図が、とても奇妙でしかたない。

 頭がバグりそうな視覚情報に目を細める俺の横で、シレーヌは何かを閃いたようだ。納得と言わんばかりの笑みをもって、うんうんと頷き始めている。

 シレーヌは肩頬を吊り上げると、ガッツポーズを作るように拳を握った。


「凛久がだめなら、私が伝えればいいのよ!」


 自信満々にそう告げるが、その案には大きな問題がある。気づけ。


「なあ、シレーヌちゃんがどうやって……青ちゃんに会いに行くんだよ?」

 

 上浜が向けた悪気なき純粋な疑問に、シレーヌは氷のごとく固まった。


 そう、シレーヌが起きている限り、青は存在しない。

 逆もまた然りである。


 彼女もまた、その事実に気づいてしまったのだろう。

 しかし、シレーヌは諦めてはいないようだった。

 苦し紛れにあたりを見回すシレーヌの目につくように、俺はスマホを掲げた。


「そうよ、凛久! そのカメラで動画を撮るのよ!!」


 シレーヌがまた、自信を取り戻した。調子いいな、こいつ。




 そんなわけで今日は、シレーヌが青に向けた動画を撮影する日となった。

 一通り使い方を教えれば、カメラに興味ゼロの俺が知らない機能までをも使いこなすレベルになっていた。

 ちなみに、彼女が発見したのは夜間モードというカメラらしい。


 カメラは俺が持とうかと提案したが、あっさりと断られた。

 恥ずかしいからと言って、シレーヌは俺たちを海から追いやる。

 シレーヌに恥という概念があったことに驚きつつ、俺たち二人はコンビニアイスを夢中で食べた。


 ひんやりと涼しさを感じさせるアイスは、夏の暑さに負けてゆっくりと溶けていく。

 アイスを滴る雫の先が、地面に落ちてシミを作った。


「ほら、急がねぇと無くなっちまうぞ」


 上浜の言ったその言葉が、妙に頭の中に残った。




*




 今日も今日とて日差しが暑い。

 コンクリートに照り付ける光を浴びながら、駅まで歩いてきたというのに、今日は青の姿を見かけなかった。

 昨日と同じ電車の到着後も電車を1,2本見送ってはみたが、それでも姿は見えなかった。


 これは、意図的に避けられているか。


 昨日の会話を思い返せば、青が気まずいのも伺える。

 こんな状況でシレーヌの動画を見せるなど、無理に等しいのだ。

 

 これ以上待っていると、そろそろ駅員に不審者扱いされかねない。

 さすがにそれは癪なので、俺は駅を後にした。

 今日の夜にでも上浜に相談するかと、事態を暢気に捉えていたのだ。




*



「まだシレーヌちゃん、来ないのか?」


 不安げな上浜の声が、夜の海に響き渡る。

 つられて不安を覚えた俺は、スマホで時刻を確認した。

 11時53分。

 もうすぐ日付が変わろうとしている。


 俺たちがここへたどり着く時刻から計算すると、シレーヌは9時から、遅くても11時の間はいつも海に居た。

 台風のさなかですら、海に姿を見せた彼女が来ないというのは、どう考えてもおかしい。

 シレーヌが姿を見せなかったのはあの時以来か。


 シレーヌが居なかった数日間は、青の母親の入院が原因で、生活リズムいつもと異なっていたのだろう。

 だから、シレーヌが現れなかった。

 では今回も、母親の身に何かあったのだろうか。もしくは青に。


「凛久、青ちゃんに何かあったんじゃねえか?」


 上浜も同じ考えでいたようだ。

 青の日記を思い返せば、虐待のレベルは日に日にエスカレートしていたな。

 まさかとは思うが……


 嫌な予感が頭をよぎる。


 考えすぎだと言われれば、それまでだろうが、言いようのない確信が胸の中にあった。


 確かめないと。


「上浜はここに居てくれるか、行き違いになったらまずいし。俺がシレーヌの様子を見てくる」


「ああ、頼んだ」


 上浜は拳をグーにして、俺の肩を小突いた。

 任せたぞと言わんばかりにつり上がった上浜の眉毛を見て、俺も覚悟を決めた。




*




 あいつらと走り回っていた間に体力が戻っていたのか、息を切らさず目的地へと到着できた。


 「神谷」の表札が目の前に聳える。


 横にあるインターホンを鳴らすのはまずいだろう。

 時間的にもアウトだし、なにより俺は青に避けられているのだ。

 出てきてくれる保証も無い。

 そもそも、出てこれる状況にあるのかも怪しい。

 まずは、あたりを観察するのが得策だろう。

 

 俺は、耳を澄ました。

 青の母親の怒声は近所から苦情が来るほどと、日記には記述されていたが、今はしんと静まり返っている。


 だとすれば、青は無事か。


 緊張の糸も切れて、ほっと一息をついた。

 シレーヌがたまたま出てこなかっただけかと安心し、踵を返そうとしたとき、1階の角部屋に明かりが灯る瞬間を目にした。


 こんな時間に何故?


 不思議に思い、窓の近くに忍び寄る。

 ゆっくりと足を動かせば、ドアを叩く大きな音が徐々に聞こえ始めたのだ。


「碧ー? どうして自室にこもってるのよ、出てきなさーい」


 感情の乗らない、シンプルな声があたりに響く。

 角部屋にいるのは青だろうか、返事は聞こえない。



 ドンドンッ


 ドンドンッ


 ドンドンッ


 ドンドンッ



 しばらくノックの音が鳴り響いていたものの、青の声は一切耳に入らない。

 ようやく窓のすぐ側までたどり着いた俺は、不思議に思って中を覗いてみた。


「なっ」


 その瞬間、窓辺に寄りかかろうとしていた青と目が合った。


 驚いたように上体を逸らし、声を荒げた青と異なり、俺はただ目を見開いていた。




 痣




 痣があった。青の目元に。



 

 よく見れば、小さな切り傷も多数にある。口元の端は切れ、腫れあがっていた。

 瞼は重く下がり、青い痣が痛々しいほどに色づいている。


「どうしたんだよ……その顔!!」


 自分の行動を棚に上げて、俺は青を問い詰めた。

 身体を窓に乗り出して、動揺のままに声を張り上げる。


 青からすれば、わけの分からない状況だろう。

 ドアの向こうには暴力をふるう母親、窓の向こうにはストーカーかもしれない変質者だ。

 ただ、その時はそこまで頭も回らなかったのだ。


 俺は、感情のままに青を睨みつけた。


「なんで、なんで逃げないんだよ!!」


「どうせ母親にやられたんだろ!! やられると分かっていて、なんで何もしないんだよ!!」



「なんで動こうとしないんだよ!!」



 息を切らして叫び続ける俺を、青は泣きそうな目で見つめていた。

 恐怖で。じゃない、怒りの籠った瞳だった。





「全部そんなの、分かってるのよ!!!!」





 青は俺を睨みつけながら叫んだ。

 


「だいたい何よ、いきなり人の家に来て……」



「夜中に迷惑だわ! 前も言ったけれど、ひとの事情に首を突っ込まないで!!」



「貴方がいくら私に言葉をかけようと、貴方は私じゃない!!」



「だから私の気持ちなんてわからない!!」



「無理なのよ……出てって!!!!」



 青は今までの感情を吐き出すように、俺に怒りをぶつけた。

 まるで癇癪をおこした子供のようだった。俺も人のことは言えないが。

 けれど、俺はその言葉を聞いて満面の笑みを浮かべた。



「今、って言ったよな?」



 言葉の理解ができず、眉間の皺を増やす青を無視して、俺はポケットからスマホを取り出した。


 スマホの電源を入れて、最大音量へと引き上げる。


 画像フォルダを開けば、直近で二つの動画が入っていた。

 

 一つ目の動画は失敗したものらしい。本人談だ。


 俺は、二つ目の動画を勢いよく指でタップした。






『青』





 スマホから、青の声が響いた。いや、青の声であるが「青」じゃない。


 目を見開く青に向かって、黙ってスマホを差し出した。


「逃げるな」


 彼女の目を見て、真っすぐに言い放つ。


 青は、恐る恐るそれを受け取った。


 画面に映るのは、今の青と瓜二つの少女の姿。





『初めまして青。私はシレーヌ。貴方の、もうひとりの人格よ』





 青は混乱の色を浮かべ、すぐさま口を開こうとした。


「なっ」


『いきなりのことで混乱するわよね』


 が、シレーヌの音声に声を遮られる。


『私は、貴方が眠りについている間に目覚める人格。きっと、逃げ出したいと願った貴方が創った貴方』


「わけがわからないわ……」


『だから、分かってくれなくてもいいわ』


 青の反応を傍で見ているかのような、絶妙なタイミングでシレーヌが返答する。

 画面の中のシレーヌは笑顔を取り払い、真剣にこちらを見据えた。


『単刀直入に言うわよ。私が貴方に伝えたいことは一つだけ』






『青、ここから逃げなさい』






 シレーヌの真っすぐな瞳は、動画越しに青を射抜いていた。

 蛇に睨まれたように竦んでいた青は、ようやく口を開いた。


「……もちろん、逃げ出したいわよ!! 『けれど』……」


「えっ」


 青と俺は目を合わせた。

 確かに今「けれど」の音声が重なって聞こえたのだ。



『「けれど」……臆病者の貴方ならまず、否定の言葉を言うわよね。どう? 合ってたかしら』



 いたずらっ子のような笑みを取り戻したシレーヌは、言葉を続ける。



『朝は私に絶望をもたらす』



『だって、もうどこにも逃げ場がないから』



『眠りは私にとっての救いだ』



『嫌気のする現実から、私を解き放ってくれる』



『……そうよね、青?』



 部屋が沈黙に包まれる。青は、画面を凝視していた。



『私は、貴方に会ったこともないし、会話を交わしたことも無い。程度でいえば、凛久や浜っちよりも下といったところだわ』



『けれど、誰よりも貴方を知っている』







『だって、私は貴方だからっ!!!』







『だからこそ、もう一度言うわ!』



『青、いつまでそこに居続けるつもり?』



『暗闇なんかに、夢の中なんかに引きこもることはもうやめて!!』



『現実を……未来を、ちゃんと見て!!!!』



『きっとこの声を聞いている貴方の側には、私の大切な仲間がいるはずよ』



『恐れないで、青』








『その手を取って、ここから抜け出して!!!!』








 言葉はそこで終わっていた。切実な、青へと向けたメッセージだった。

 

 ドンドンッ


 ドンドンッ


 余韻に浸る間もなく、ドアが鳴った。

 俺たちはハッとして、扉の方を向く。

 動画の音声で気づかずにいたが、青の母はまだ諦めていないようだ。




「碧? 出てきなさいよ。……待ってなさい、今開けるから」




 ガチャリ


 この部屋の鍵は、摘まんで90°まわすタイプの物だった。コインがありさえすれば、外側からでも開錠できてしまう。


 これはまずい。


「おい!!!」


 俺は素早く、窓の外から手を伸ばした。


 青は返事をしない。


「早く!!」


 急かす言葉をかけると同時に、彼女の方を見やった。




 涙。




 青の瞳からは、海の雫が零れ落ちていた。


 ぼうっと見つめていた俺の左手に、人肌の感触が加わる。


「私を、連れ出してくれるんでしょう?」


 左手に伝わった、手のひらの熱。


 祈るように、こちらを見遣る青の姿。


 やるべきことは一つだった。



「ああ、いくぞ!!」



 窓枠に足をかけ、重心を前に落とす。全身の力を込めて、俺は青を引っ張り出した。

 急な力に驚きながらも、青は器用に窓枠に飛び乗る。


「碧っ!!!」


 母親は、この期に及んで青を碧と呼んでいた。

 怒りで、頭が沸騰しそうだ。

 何か言ってやろうと口を開いたその瞬間、いつかのシレーヌの言葉が蘇った。


『呼んでほしかったのよ。私の名前』


 彼女は、青は……どれほどの寂しさを抱えていたのだろうか。

 ここまで逃げ出せなかった理由など、本当はきっと単純だ。


 罪悪感や無力感、諦め。理由は多々あるけれど、結局は全部母親に対する


「愛」


 が残っていたからだろう。


 大切な存在に自分を認めてもらえない、呪いにも似た「碧」の名前。


 母親を見つめる青の瞳は揺らいでいた。

 辛そうな視線を向ける青の手を、俺はさらに引っ張りだす。


 


、走るぞ!!!」




 大声で彼女の名を呼ぶ。

 どうか、彼女がもう道に迷うことがありませんように。

 進むべき道に手を伸ばせますように。


 海へと向かって地面を蹴り上げて進むさなか、彼女を振り返り、目を向ける。


「っ、ええ……」


 遅れてきた返事は、少しばかり掠れていた。

 涙を流しながら走る彼女の表情からはもう、少しの迷いも見られなかった。





*




 息を切らして海へ走り続けていると、前方から大きな声がした。


「おー--い!!! 凛久……と、シレーヌちゃん!? いたのか?」


 上浜の声だ。

 今だけは、そのバカでかい声量に安心感を覚える。

 上浜は青をシレーヌと勘違いしているのだろうか。

 無理もない、同じ姿で説明も無ければ区別もつかないだろう……ん? 同じ姿?


「あ! 悪い……お前、裸足のままで……」


 もともと室内にいたのだからそれもそのはず、青は裸足のままコンクリートの上を駆けてきたのだ。


「痛みは無いか?」


 足の裏を気にする俺の姿に、静止の声が入る。


「おい凛久! それよりシレーヌちゃんの顔!! 誰がこんな……」


 ハッとして、青の顔に目を向ける。

 時間が経ったせいか、痣となった部分が更に腫れ上がっている。

 涙と怪我とで、もうぐちゃぐちゃだった。

 

「上浜、後でちゃんと話す。今から一緒に、交番に向かってくれるか」


 いち早く青を安全な場所に連れて行こうと、上浜の返事を待った。


「……なにがなんだか分かんねえけど、分かった!」


「助かる」


 上浜は俺を信頼して、理由を待ってくれるようだ。

 俺はスニーカーを脱ぐと、青の足に履かせた。素足で直接履かせるのは不安だが、無いよりはましだろう。

 未だに涙を零す青の手を取ると、強く、力の限り握りしめた。





*





 あの後、交番で俺らを出迎えてくれたのは、祖母との思い出話を語ってくれた、あのおじさんだった。

 おじさんは驚きの色を顔に乗せたものの、狼狽えることなく事情を聞いてくれた。さすがベテラン。

 青が被害を受けて直ぐだというのもあって、見回り中の若手を神谷家に派遣してくれたらしい。

 数時間後には虐待の言質が取れたらしく、母親は警察で身柄を拘束された。

 おじさんはというと、ようやく落ち着きを見せた青に、今後の手続きを説明していた。


 そうこうしている間に、青の父親とも連絡が取れたのだが、あいにく今は海外に出ている最中だそうで、迎えに来るのが数日かかると言っていた。

 電話のスピーカー越しに聞こえた彼の声は、心から娘を心配する父親の声で、俺たちは安心した。

 父親との会話で緊張もほぐれたのか、青もようやく笑顔を見せていた。

 父親を待つ間、青は近くのホテルに泊まるらしい。


 一通りの説明が終わった後、さて帰るかと体を出口へと向けた俺たちであったが、おじさんは俺たちの首根っこを引っ掴んだ。



「どこ行くんだい、非行少年ども」



 声のトーンがありえないくらい低かった。

 一度目はまだしも、二度目は見逃してくれないらしい。

 こんな時間に出歩いていたことに対するお咎めと、助けを求めずに首を突っ込んだこと。

 長々数時間の説教を食らってしまった。最後には、笑顔で青を救ったことを感謝されたけれど。


 そんなこんなで、その場から解放されたのは、朝の4時を過ぎた頃だった。



「おい、日が出てんぞ」


「嘘だろ、俺朝練なんだけど」


「奇遇だな、俺も塾がある」


「「……」」


「「ぷっ、あはははははははははは」」



 俺たちは、顔を見合わせて笑った。

 睡眠不足の冴えない頭が災いしたのだろう。シレーヌからの頼みをやり遂げた喜びと相まって、大声が止まらなかった。


 俺たちが顔を見合わせて笑う空の向こうでは、朝日が昇り始めていた。

 

 

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