波の寄せる浜で

げっと

網に掛かった人魚の話

 僕の住む別保べっぽの地では、漁が盛んに行われている。毎日のように日の登る前から網を海に仕掛け、暫くの後に、それらをぐいと引き込む。そこに巻き込まれた魚たちを手早く引き上げ、朝の市へと持っていくのだ。


 僕たちの食はひどく魚に助けられていたし、よそから来る人々もからも評判は良く、お伊勢様参りのついでに食べて行く人も多い。当然、将軍様にも献上しなければならず、時折、天皇様へと上納することすらあった。そのために、漁業と僕たちの生活は、とても身近なものとなっていた。僕も体が大きくなるにつれ、父とともに漁業の手伝いをすることは、至極自然なことだった。


 ある日、いつものように漁に出かけた時のこと。今日は将軍様が視察に来られているということもあって、いつもよりも多くの魚が掛かっていることを祈りながら、いつものように網を力いっぱいに引いていた。今日の網は非常に重たくて、将軍様の期待に添えられそうだと、僕らは勇んで網を引き続けた。


 網が浜に近づくにつれて、より海岸に近い男たちからどよめきの声が上がってくる。これは漁果が期待出来そうだ、と思っていたけど、網に絡まった魚たちを見て、その考えは改させられた。


 一つだけ、異様に大きい魚が居るのである。しかも、下半身こそ魚のそれであるものの、上半身は年若い娘のような透き通った肌をしていて、うろこの一つも認められない。胸鰭のようなものはなく、代わるように着いた両の腕は、僕たちのそれと大差がなく、網に絡まって不自由そうに足掻いている。海水に濡れさぼった髪のようなものが、登ったばかりの日に照らされて煌めいている。その髪をかき分けて見えた横顔は、村の娘たちのそれと、これもまた大きな違いは認められなかった。


「これは何じゃ」

「なんや、人のようにも見えるぞ」


 将軍様の眼の前で、ひどい騒ぎとなってしまった。それらを耳障りに感じたか、将軍様は騒ぎの真ん中へと進んでいく。


「ええい、黙れ、黙れ。この忠盛の前で、何たる醜態を晒すか」


 将軍様は帯びた刀を抜かないまでも、その恐ろしく怒気のはらんだ声を響かせる。騒ぎ立てていた男たちも、将軍様の一喝により、瞬く前に声を鎮めていく。


「へえ、申し訳ねえ、将軍様。しかしまあ、見てくだせえ。妙なものが捕れましたもので」


 男たちは網に掛かった、魚とも娘とも言い難いそれを指さした。あまりに不思議な物をみたか、将軍様も


「これは、なんたるものか。こんなものが、この別保では捕れるものなのか」


 と、男たちに聞いていらした。


「いえ、儂らも初めて見るもんでして。先代も、おそらく先々代にも、こんなけったいなもん、見たことのあるものは居らんでしょう」


 それはそうやろ、と、僕は聞きながら密かに考えていた。


「どうでしょう、将軍様。こんに珍しいもんは、ぜひ、献上したく考えまして」


「いいや、要らぬ。儂の元へは、いつものとおりに納めればよい」


 将軍様はそう言ったのを最後に、踵を返して、城のほうへと戻られた。この人とも魚とも娘とのつかない魚-こう呼び続けるのも面倒なので、「人魚」と呼ぶことにした-の処遇は、ひとえに僕たちの手に委ねられたのだ。


 とり急いでは、他に足の早い魚たちも一杯に捕れていたので、その魚達を締めてしまうことに決めた。避けるように魚を集めて、締めて市へと回していく。時折人魚の顔に、恐怖におののいたような表情が顔にこびりついているのが見えた。


 それらが片付くと、いつもより重かった網は、ほとんどこの人魚の仕業であることがわかった。市に出せる分もいつもよりやや少ないくらいで、当然、僕たちのつまみ食いの分などなかった。


「しかし、これ、どうするか」

「どうしような。きっと魚には違いないし、捌いてみるか」


 そうして、男たちは人魚に歩みよる。人魚は眼に大粒の涙を浮かべながら、抵抗するように鳴き声をあげた。その声はあまりに美しく、そして、悲痛だった。その声を聞いた僕は堪らなくなって、珍しく、大人たちに意見をした。


「やはり、やめませんか。海に帰してあげましょう」


「何。お前、魚に情けをかけようと言うのか」


 がたいの良い漁師の男が、僕の前に勇み出た。頭の上から降ってくる迫力に怯みもしたが、僕も簡単に引き下がってはいられない。


「いいえ、僕はどうしても、これが魚とは思えないのです。彼女は周りの魚の捌かれるのをみて恐怖し、僕たちの襲いかかるのに酷く恐怖し涙を浮かべているのです」


「それがどうした。命を奪われる前の動物など、同じようなものではないのか。良いか。お前も分かっているだろうが、今日の漁果は芳しいとは言えない。これを捌かなければ、足りないくらいなのだぞ。魚に同情をくれる余裕など、あるものか」


 そう諭された直後、ひときわ大きな金切り声があたりに響いた。見やれば、人魚は男どもに捕らえられて、その美しい肌に包丁を入れられている。僕は半狂乱になりながらそこに駆け寄ろうとしたけど、眼前に立ちはだかる男がそれを許すはずはなくて、あっさりと取り押さえられてしまう。足掻けど足掻けど解くことは出来ず、人魚が丁寧に丁寧に解体されていくさまを、ただ呆然と見守ることしか出来なかった。


 やがて、丁寧に捌かれた人魚を、男どもは食べていた。皆は声を揃えて上手いと舌鼓を打つ中、当然のことながら、それは僕の元には分けられなかった。分けられても、食べられる自信はなかったけれど。


 あまりの美味しさに、村のみんなにも分けられた。僕はどうしても食べる気にはなれなくて、父が「おれたちはもう、食べてきたから」と気を効かせてくれたお陰で、僕はなんとかその人魚だったものの肉から離れることができた。


 それ以来、僕はめっきり、漁に出る事が出来なくなってしまった。一度など、父に無理矢理連れられて海に出たが、網を引くとき、あの助けを乞う目が、涙を一杯にまで溜め込んで、そのうちに絶望に沈んでいって。それでもまだ命の限りを振り絞って金切り声を上げる、その姿が脳裏に去来して、恐ろしさのあまり、僕は手を離して蹲ってしまう。


 最初こそ、物に憑かれたかと心配されたが、やがて漁の出来ない僕は関心を持たれなくなって。そのうちに、僕が村に居着くことは、とうとう、適わなくなっていった。


 やがて、僕は村を出た。もう、漁にでなくてもいいような、山の方へと暮らしを移していった。





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