浮き草に咲く花

小枝芙苑

前編

 父が亡くなったとき、少年は九歳だった。最後に父を見たのは七歳の秋。西国へ落ち延びてゆく両親と別れたあの日からずっと、息をひそめて暮らしてきた。


 少年の名は平知忠。父は、平清盛がもっとも愛した息子と言われる平知盛。都落ち以降、平家を実質的に束ねていたのは知盛だった。西国の制海権を握り、二年以上にわたり攻防戦を繰り広げてきたが、とうとう壇ノ浦にて平家は滅亡した。


「今後は、大夫たいふどのへの追捕の手にいっそう気をつけなければいけません」


 父の乳父めのとであった橘為範は、声を低くしてそう言った。


 都落ちが決まったとき、知盛は成人していた嫡男と生まれたばかりの娘は西国に伴い、幼い知忠だけを為範に託した。それ以降、ふたりは源氏の目を避けるように伊賀や伊勢を転々としている。


 平家が滅亡したいま、源氏による平家の残党狩りはいよいよ厳しくなるだろう。


「うん、わかってる」


 聞きわけよく返事をした知忠の目には、しかし何の感情も浮かんでいなかった。


◇ ◇ ◇


 四年後――文治五年(1189年)。


 山奥の廃寺で素性を隠したまま潜伏生活をつづけていた知忠は、為範から聞いた話に顔をこわばらせた。今上帝(後鳥羽)の兄であり、平家によって西国へ伴われたのちに帰京した、高倉帝の第二皇子が親王宣下を受けることが決まったらしい。


 その話に、知忠は都に住んでいたときのことを思いだした。そのとたん、大きな石ころを飲みこんだかのように、胸がつっかえて息苦しくなる。


大夫たいふどの――?」


心配して声をかけた為範を、知忠はきっとにらみつけた。


「その名で呼ぶな! 不愉快だ!!」


 声変わりをする前の、澄んだ高い声で叫んだ知忠に為範はたじろいだ。普段から物静かな知忠が、これほど声を荒らげたのを見るのははじめてだった。


 知忠自身も驚いたのか、目を丸くして為範を見つめたあとに「すまなかった」と小さな声で謝った。


「その……大夫といっても、こうして隠れ住んでいるのでは、位ばかりで任官するわけでもないのだし……なんと言うか、おのれの境遇を惨めに思ってしまうのだ」

「た――知忠さま、手前の考えが及ばず、まことに申しわけございませんでした」


 一瞬言葉に詰まり、頭をさげる為範に、知忠は気まずそうに首を振った。


 知忠が従五位下の位を授かったのは、まだ三歳のときだった。その年に、知忠の母は高倉帝の第二皇子の乳母となり、皇子を自邸に迎え入れて養育にあたった。


 おそらくは、皇子にとっての乳母子になる知忠が、将来的にはもっとも身近な近臣として仕えることを前提としての叙位だったのではないか。


 しかし、まだまだ母が恋しい三歳の知忠にしてみれば、いきなり現れた赤子に母を奪われたも同然だった。しかもその赤子は、邸内の誰よりも貴ばれる。


 知忠は三歳にして近臣としての振る舞いを求められ、母は自分よりも赤子を優先した。位を授かったとたんに「大夫どの」と呼ぶようになった母は、もう母の顔をしていなかった。


 当時のたしかな記憶は残っていないけれど、寂しくて妬ましかったという感情だけは強烈に覚えている。


 皇子は帰京後、法皇(後白河院)の姉であり准母でもある上西門院の猶子となっていて、いまなお知忠の母は乳母として皇子に奉仕するため、女院に仕えているという。


「……わたしには、便りのひとつも寄越してくださらないのに」


 口もとをきゅっと固く結び、知忠はうつむいた。


 壇ノ浦で生き残った人びとが帰京したと聞いてから、知忠は母が自分を呼びもどしてくれるのではないかと、その便りを心待ちにしていた。しかし呼びもどすどころか、母は少年を忘れてしまったかのように一度も音沙汰がない。


「それは、万が一にでも知忠さまへ探索の手が及ばぬようにというご配慮でございましょう。お心のうちでは、知忠さまのことを案じておいでのはずです」

「そうだろうか……。父上や、兄上の最期についても教えていただきたいのに、ここでは詳しいことがなにもわからない」

「それについては、手前が詳細を調べて参りましょう」

「ちがう! わたしは母上から聞きたいのだ!」


 ふたたび癇癪を起した知忠は、いまにも泣きそうな顔をしていた。


 皇子の養育に熱心な母や寡黙な父に代わり、なにくれとなく知忠の世話をしてくれたのは年の離れた兄だった。家族の愛情は、そのほとんどを兄がくれたと言ってもいい。しかしその兄も、戦の中で命を落としたと聞いている。


「父上の身代わりとなったと聞いているが、お優しいあの兄上ならありえること。そのような話も、母上と心ゆくまで語りあいたいというのに……。なぜ、わたしに会おうとしてはくださらないのだ」

「ですから、知忠さまの御身をご案じなされてのことです。ここは、こらえてくださいますよう、何卒お願い申し上げます」


 薄暗い本堂で平身低頭する為範に、知忠はイライラしたように奥歯をかみしめた。


 自分は両親と引き離され、こんな山奥のいつ崩壊するともしれぬ荒れ寺に暮らしているというのに、皇子はたえず母にかしずかれ、そのうえ親王宣下とは!


 ふと、知忠の目に本堂に残された古ぼけた観世音菩薩が映った。その柔和な菩薩の顔は、まるで母がほほ笑みかけているように見える。しばらく眺めるうちに、知忠は唇を結んでうなずいた。


「――決めたぞ、為範。わたしは、母上に会いにゆく。もっと早くにそうしていればよかったのだ。こちらから出向けばよかったんだ」

「知忠さま、それだけはご勘弁ください。何卒、何卒!」

「心配には及ばぬ。あの六代も、出家することで許されているのだろう? いざとなれば、わたしも出家すればいい」


 数年前に北条氏の手によって捕縛された知忠の従甥いとこおいは、いまは出家して高尾山で修行しているという。彼も隠れ住んでいたというのだから、いまの知忠と境遇は似ている。

 

「それは、僧の文覚どののご尽力あってのこと。出家すれば済むという話ではありません」

「なんなら、いま出家してもいい」

「知忠さま! どうか、どうかこらえてください。畏れ多くも知盛さまより御身をお預かりして以来、手前は知忠さまをお守りすることだけを考えて参りました。もしものことがあれば――」

「うん、だから安全に都へ入り、母上にお会いできるよう考えてくれ。頼んだよ」


 知忠はちぐはぐな会話を終わらせると、もう為範の言葉には耳を貸さなかった。

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