4-6 友・情・賛・歌
翌日の朝。
気がかりが解消され、あたしは少しずつ今の過ごし方に慣れていった。仁輔とも
今月も月経痛が気になったので、週末にクリニックの予約を入れた。こういうのは初めてじゃないが、今までは仁輔にも咲子さんにも甘えられた。パパが冷たいとかじゃないし、むしろあたしの方がパパに冷たい気がするのだが、やはり二人の不在は心許ない。
先月の予告通り、
「お久しぶりだね、
「はい、よろしくお願いします」
一郎先生は六十代くらいで、厳つさの目立った昔よりは柔和な印象になっている。
百寧先生からの引き継ぎもあってか、診察はスムーズに進んだ。処方の内容も、特に不満はない。
ひと段落したところで、ふと思い出して訊ねてみる。
「先生、ここで生まれた
「勿論。九郷さんとも仲良しだったかな?」
「ええ、同じマンションですし」
「もう高校生か……彼も元気にしてるかい?」
「こんなにデッカくなってますよ、柔道もやっててなかなか強いです」
「それは良かった……ここで生まれた子が大きくなる話が、何より嬉しいものでね」
一郎先生は笑顔を浮かべてから、少しだけ苦い表情を見せる。
「……お産の対応、ウチも続けられたら良かったんだけどね」
気になっていたことを聞ける機会かと思い、言い方を考える。
「この辺、分娩に対応している病院が減っているんでしたよね」
「そうだね。医者にとって難しい科になってきたし、私はもう体力が持たなくて」
「百寧先生も、そういった事情から婦人科のみに?」
「昔は目指していたんだけど、心身への負担が大きかったみたいでね……優しすぎる医者には向かない、という節はあるよ」
百寧先生は、自分のことのように患者の話を聞いてくれる。あたしもその姿勢に救われてきた。けど、それだけ深く人に共感してしまうからこそ、生死の分かれる最前線は耐えられない――ということだろうか。
考え込みそうだったので、一郎先生に礼を言ってから退室。
クリニックを出て、パパと共に家へと向かう車中で。
「どうだった、一郎先生とは」
「問題なかったよ、今後も通えそう」
「なら良かった……中学の頃の義花、百寧先生じゃなきゃ嫌だって雰囲気あったからさ。今回もそうだったら困るところだった」
「昔のあたしは潔癖すぎたなって、今日で思ったよ」
自分の感性を反芻して、気づきを付け足す。
「プロは能力とか技術でジャッジされるべきだと思うし……体力とかは仕方ないけど、あたしの能力への評価に性別が持ち出されるのは嫌だもん。それをあたしが一郎先生にしてたんだろうってのは、反省したいかな」
「それも逆方向で潔癖なんじゃないか……好き嫌いがあるのは仕方ないだろ、人間なんだから」
「そうなんだけどさ、それで終わるのは安直すぎるじゃん」
「自分の中にそういう偏りがあると認めること、それを外に出すべきか制御できること、それができていれば気に病むことないって……ただ、僕が気になっているのはね」
「なに?」
パパの本題はここから、らしい。
「昔の義花はもっとハッキリ、女性ばかりに懐いていた。うちの妹も思春期以降は親父と全然話さなくなったから、女子はみんなそうだろうって……僕よりも咲ちゃんのそばの方が、義花にとっては心地いいんだろうと思ってたんだ。女子のデリケートな部分も、咲ちゃんに任せた方がいいだろうと」
「……実際、あたしは咲子さんのそばにいたがってたね」
「それで上手くいった面もあったさ。けど、義花の咲ちゃんへの依存心を高めてしまったのも確かだと思う」
あたしの咲子さんへの感情が大きくなりすぎてしまった、その背景について反省しているらしい。
「……パパはちゃんと父親やってくれたと思うよ、これからお互い歩み寄っていけばいいじゃん」
それは問題ないのだが、気になることが他にでてきた。
「ねえ、今更なんだけどさ、パパには再婚するって選択もあったよね?」
「考えはしたよ。ただ……僕のエゴとして、実穂以外を妻にしたくなかった。それでも子育てが立ちゆかなくなるなら再婚を選んだだろうけど、津嶋家が支えてくれたから」
「そっか。再婚しないでって咲子さんから頼まれたのかな、とか思って」
「確かに言われたけど、さすがにそれだけで決め手にはならないよ。困るのは義花なんだから」
「だよねえ」
もし継母さんがいたら、咲子さん相手にこんな想いすることもなかったのでは、とは思う。母親のいない寂しさが恋心に発展した、という解釈はそんなに外れではないだろう。
とはいえ、そんな仮定をしても、あんまり意味はないもので。
それに、今日の本音は別にある。
産むようにデザインされた身体で、その機能の副作用にずっと苦しんでいるなら、その目的を果たさないと割に合わない――見合う喜びがないと納得いかない。
そのくせ、仁輔以外の男性とそこまでの仲になるほど割り切れはしない。詰みである。
*
翌日、日曜日。
ミラステから帰る夕方、マンションの近くまで来たところで、向かいから歩いてくる男性に目が留まる。同年代だろう、見覚えはあるが知り合いではない。
確信が持てないし気のせいだろう――とすれ違いかけたところで、やっと気づく。同時に、彼がここにいる理由にも思い至る。なら、あたしは。
「――あの、すみません!」
声をかけると、彼は振り向いてくれた。
「
仁輔のライバルの彼である。
「ですけど……そちらは?」
「
「……ああ、たまに試合観てる人ですよね?」
彼も記憶にあったらしい。
「いま、津嶋の家に寄ってたんですよ」
あたしの推測通り、なので踏み込む。
「あの、柔道部での仁輔のこと教えてくれませんか? いま忙しければ連絡先だけでも」
「今でも良いですよ。えっと、」
「九郷といいます、高二です」
「九郷さん……タメでいい?」
「いいよ、ありがとう千波くん」
近くの公園へ。土地が余りがちだからなのか、信野市にはやたらと公園が多いのだ。
「千波くん、仁と仲良いんだね?」
「合宿とかで一緒になったこともあるから。家に行ったのは初めてだけど」
「あいつに呼ばれたの?」
「そう、ビックリした」
千波くんは陽の気配のする、割と話しやすい男子だった。無口だったらやりづらかったのでありがたい。
「それでですね。今のあたし、仁との関係に悩んでまして」
「……もしかして、彼女的な人ってのが九郷さん?」
「あいつも言ってたんだ? それです、謎の立ち位置の女」
千波も聞いていたらしい、なら話は早い。
「津嶋に聞いた話だと、ずっと自分は九郷さんとの将来を前提としていたけど、九郷さんはそういう気持ちになれないんだって」
「大体は合ってる。補足するなら、あたしの都合でどうしても仁と……男と身体の付き合いはできないって感じ。あいつに落ち度はないよ」
千波くん、若干ビビっていそうだった。初対面の女子にここまでオープンに話されたら、そうなるわな。
「なるほど……それで九郷さんは、津嶋に諦めてほしいってこと?」
「そうなんだけど。別の女子とだって恋愛できるし、仁ならモテないこともないだろうって気づいてほしいんだ。けど、あたしに男子の感覚って分かりにくいから、千波くんにどう思うか聞いてほしくて」
千波はしばらく考え込んでから。
「俺にとって津嶋は手強い相手だし、割とリスペクトしてるのよ。
けど、津嶋は……なんていうかな、メンタルがすげえピュアだなって、たまに思う」
ピュア、純粋、純情。多分、物事一般に対してではない。
「それ、特に恋愛絡みでってこと?」
「そう。恋愛っていうか女子への感覚っていうか」
核心が見えた、気がする。
「それが良いとかじゃないけどさ、運動部で男子だけの空間になると、下ネタとかの話になりがちなのよ」
ホモソなノリがあるのは分かる――と言いかけて止める、たぶん一般的な語彙じゃない。
「男子にはあるんだろうってのは分かるよ、それで?」
「津嶋はすごい嫌がるんだよ、乗ってこないとかじゃなくハッキリ不快って言う。世間の空気に合わせてとかじゃなくて、本音なんじゃないかな」
思い当たる、確かに仁輔はあたしの前でその手のネタは言わない。そういうのは男子だけの場でやっているのかと思っていたが、違ったようだ。
「けど、ずっと前から好きな女子はいるって答えてたからさ。その子のこと好きだから、他の女性をエロい話題のネタにしたり、その子のことを他の男子に語られるのも嫌なんだろうって……俺の考えなんだけど」
「たぶん合ってる、ありがとう」
見えてきた、仁輔の潔癖な女性観。あたしだけを女として意識してほしいなんて、当然あたしは言ってない。つまり本人のこだわりか、咲子さんによる誘導。
「ちなみにさ、仁はもっと自由な女性観になっていいって、千波くんたちから説得はできそう?」
「ごめんだけど、そういう不毛な争いしたくない」
「だよねえ、他の女子とかに頼ってみようかなあ」
他の女子……結華梨くらいしか浮かばないが。色々隠していたことを謝りつつ頼ってみるのはアリかもしれない。けど結華梨は結華梨で恋愛にいい思い出なさそうなんだよな。
「だから津嶋本人にはどうこうできないんだけどさ。俺の昔話していいかな」
「千波くんがいいなら聞きたい」
「おっけ……中学のときの失恋なんだけどさ」
わざわざ持ち出してくれたということは、前向きな別れの話だったら良いなと思いつつ。
「小学校卒業するときに仲良かった女子に告白されてさ、すげえ嬉しかったのよ。すぐコロナ突入しちゃったけど、家にいるときもずっと通話してたし、デートとかできなくても顔観られるだけで嬉しかった」
いいよなあ、純粋な中学生カップル。別れるらしいけど。
「けど、中一の途中から、彼女のグループがダンス動画つくるようになってさ。熱が入りすぎてダンス部まで作っちゃったの、そうしたら」
「千波くんのこと構ってくれなくなった」
「そういうこと。俺だって合わせようと頑張ったし、彼女のやりたいことなら応援しようって思ってた。けどやっぱり難しくて、中二に入ったあたりで別れた。ぶっちゃけ、大好きだった反動で嫌いになってたよ」
あたしが仁輔に憎まれても仕方なかったのだろうと、今になって気づく。あるいは、ちょうど今がその過渡期か。
「けど彼女、それからダンス超頑張ってさ。なんかのコンテストで全国レベルまで行ったのよ。それ観たら……なんか、俺まで嬉しくなっちゃってさ。
付き合ったままでも幸せだっただろうけど、それだとこんなに凄いダンスは出来なかったかもしれない。別れたときはめっちゃ嫌だったけど、彼女にとってはこっちが正解で……それだけ凄い奴にとって、自分が一度でも特別になれたなら、それは光栄なことだなとか思ったんだよ」
「そっか、私はそういう関係性とか解釈はすごく好きだよ」
「自分で言うのもなんだけどエモいっしょ……そういえば彼女、高校は雪坂だったような。今もダンスやってるぽいし、九郷さんも観たことあるかも」」
「へえ。一応聞くけど
「いや、その人は知らん……なんかで聞いた気するけど」
結華梨のことだったら気まずいところだった。
けど、その彼女がいま結華梨の仲間だと思うと、なんだか楽しい。
「で、千波くんの経験を一般化すると」
「一般化……ああアレか。いや、普通の会話で使うっけ?」
「あたしの癖だから気にしないで……好きな人が別れた先で頑張って活躍していれば納得できるかも、という感じ?」
「俺はね。それに多分、津嶋もそうなんじゃないかな。あいつ、試合で自分を負かした奴が勝ち進むと喜ぶし……すぐ負けると怒るっていうか」
千波本人とのやり取りだろうか。強敵に「ゆうじょう」とルビを振るような関係性を地で行っている、かもしれない。
「けど、俺はそこまで津嶋のこと知ってるわけじゃないから。九郷さん、結構昔から一緒なんでしょ?」
「ガチで生まれたときからだね」
「おう……じゃあ、津嶋が大事にしていることも俺より分かるじゃん」
仁輔が大事にしていること。岳志さんから受け継いだ志。
自分を育ててくれた場所を、そこに暮らす命を、守ること。守るために成長すること、自分の身体を張ること。
それをあたしに置き換えれば――ああ、そうか。
奇しくも昨日の今日。唯一あたしが納得できる道は、昔から知っていた方角だ。
「……そうね、なんとなく見えてきたかも。ありがとう千波くん、助かった!」
「そりゃ良かった。じゃあ、そろそろ」
「うん、時間取ってくれてありがとう」
「いいよ、俺もさっきから津嶋のこと気になってたし……来月も地区大会あるからさ、そこで悩んだまま取り組まれても嫌なのよ」
「だよねえ、あたしも全力で対処します」
公園の出口で別れる。
「じゃあ千波くん、柔道頑張って……これからも仁のライバルやってくれたら嬉しいです」
「おっす、九郷さんも津嶋と友達に戻れますように!」
去っていく背中を見ながら、めっちゃ良い人だったな……と思い返す。
文化が合わなさそうで仁輔以外の体育会系を敬遠しがちだった、もったいない姿勢だったかもしれない。「こういう人とは合わない」と割り切り続けた学校生活、それで失ったものも沢山あったのだろう。
けど、きっと、まだそんなに手遅れじゃない。
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