その後の思春期夫婦




 意識が浮上する。瞼は閉じたまま、けれども意識だけはどんどんと覚醒していくのを感じながら、リサはふと違和感に襲われた。


 なんだろう、なんだか、とてもよくない感じがする――


 天啓、虫の知らせ、野生の勘、などの言葉が次々と脳内に流れる。つまりはあれだ、このまま目を覚ましてしまうとロクな事にならないと、某の存在がじゃんじゃかとリサに警鐘を鳴らしている。

 そういえば今日の枕はとても固い。リサはふかふかとした枕が好きで、それを愛用しているというのに一体どうしたというのだろうか。けれどじんわりとした温もりは身体に心地よくもある。あとほんのりと鼻を擽るこの香りも謎だ。でもこれは好きかもしれない。なんだか落ち着くような、それとは真逆にちょっとそわそわとしてしまうような、そんな不思議な香りをそういえばあの人もしていたなあ……などと思った途端にリサは一気に目覚めた。

 意識は完全に起きた、が、瞼は頑なに閉じたまま。眉間に皺を寄せてまでして、絶対に開けてなるものかと強い意思を示す。身体は寝起きのクタリとした柔らかさを失い、緊張でガチガチに固まる。呼吸も出来るだけ殺しながら、リサは昨夜の記憶を懸命に呼び起こす。


 昨夜は王宮での夜会だった。そこに国王の寵姫、としてではなく、王妃の語学の教師として、そして改めてディーデリックの妻としてリサは参加をした。正直面倒くさくてご遠慮申し上げたいものではあったが、立場上そうはいかないし、なによりティーアが「お姉様がいてくださらないと寂しいわ」などという強力なお強請りをしてきたのでリサに拒否権などなかった。

 そうして参加した夜会はしかし、リサが思っていたような不愉快な出来事もなく、終始穏やかであった。リサの隣に常に立つ夫が容赦なく周囲を威嚇していたおかげであるが、王妃が勧めてくれる果実酒に舌鼓を打っていたリサはその事には気が付かなかった。


 そう、果実酒、とそこでリサの記憶は怒濤の勢いで蘇る。


 南方の海に面したユーゲン国。そこの特産である黄色の柑橘系の果汁をふんだんに使ったそれを、リサは大層気に入った。口当たりが甘いのに爽やかで、スルスルと飲めてしまう。特段酒に強いわけでは無いが、かといってすぐに潰れてしまうほど弱くも無い。今日は王宮の一室に泊まる事になっているし、なによりディーデリックが傍に居てくれるという安心感から、リサはつい飲み過ぎてしまったのだ。


「リサ、少し顔が赤いですよ。もう飲まない方が良いのでは?」


 そう夫から忠告までされていたというのに。

 ティーアと話をしていて、いつかユーゲンに行きたいですね、と盛り上がった所まではなんとなく覚えている。その頃にはもうふわふわと身体が揺れ、眠気にも襲われていた。それでも楽しい気分を抑えきれず、何度目かになるグラスを傾けようとして――

 ふらついた身体をディーデリックに支えられ、「もう限界でしょう? 部屋へ行きますよ」と耳元でそう声を掛けられた。

 




 ダラダラとリサの背中を汗が流れ落ちる。

 ディーデリックに半ば抱えられる様に部屋へと連れて行かれ、優しくベッドへと寝かせてもらった。そして彼はその場を離れようとしたというのに、リサがその手を離さなかった。それどころか首の後ろに両腕を回してしがみつき、そのままベッドに引きずり込んだ。

 ヒッ、と喉から飛び出そうになった悲鳴をリサは寸前で飲み込む。おかげでグギュウ、と異音が鳴り地味に喉を痛めた。が、それに構う心の余裕などリサには無い。


 リサとディーデリックはこれまでの結婚生活の中で寝所を共にしたことは無い。ようやく真の夫婦となってからは流石に一緒に、と思いはするが、だからといってすぐにそうするには二人とも何というかまあ思春期すぎた。お互い行動に移すどころかその話をする間すら計れずにいたのが現状だ。だというのに、まさかの、もしかしなくても、今、とリサは恐る恐る目を開ける。


 そこにあった予想通りというか、できるかぎり外れていてほしかった光景。


 寝起きの頭に至近距離での美形の寝顔は刺激が強すぎた。リサは悲鳴を上げる事だけはどうにか堪えるが、身体がビクリと跳ねるのを抑えるのは無理だった。

 以前よりかは和らいだとはいえ、今でも起きている間のディーデリックは眉間に皺があるのが基本だ。そんな彼も寝ている時はそうではないらしい。穏やかな表情で眠る彼は気持ちが良さそうにしている。

 ディーデリックと同衾しているという現状。さらには彼の腕を枕にしており、もう片方の腕は軽くリサの腰に回っている。完全に抱き合って眠っていた事実、リサの頭は沸騰寸前だ。 ゆっくり、できる限り彼に気付かれない様に細心の注意を払いながらリサは身を起こす。ディーデリックが小さく「う……」と声を漏らし、リサは一瞬呼吸までも止めて動きを止めるが、ややすればまた健やかな寝息が聞こえだしたので、さらに時間を掛けてどうにかディーデリックの腕の中から抜け出す事に成功できた。


 はああああ、と重く長い息が漏れる。なんとかディーデリックに抱き締められた状態で互いに目覚める、という最悪の状況は阻止できた。もし万が一そうなっていたら二人揃って羞恥で死んでいただろう。

 バクバクと心臓が五月蠅い。ぎゅ、と胸元を握り締めて深呼吸を繰り返す。徐々に鼓動が落ち着きを取り戻し、それに伴い頭もはっきりとしてくる。が、それは新たな事実をリサに気付かせる事になる。

 握り締めた胸元、の、服、は昨晩着ていたドレスでは無い。コルセットもなく、薄布に包まれただけの己の身体。早い話が下着だけの姿にリサは慌ててシーツを引き上げて身体を隠す。


 頭に浮かぶのはアレしかない。いやでも待って違う絶対そうじゃない、と目眩でふらつきそうになりながらもその可能性を全力で否定する。


 男女がベッドを共にしているのだからして導き出される物は一つだ。しかし身体のどこにも違和感など無い。経験こそ無いが知識は一応はあるからして、おそらく、ほぼ、まだ清い身体のままだ。そもそもからして、いくら夫婦であろうとも酒に酔っている相手をどうこうする様な人物では無いのだ、自分の夫は。

 そう、だから、これは完全にリサが寝やすいようにとディーデリックが脱がせてくれただけだ。

 いやああああ、とリサは心の中で盛大に叫びつつシーツを被って悶絶する。ただ脱がせてくれただけ、という事実が何よりも恥ずかしい。いっそ記憶を無くしている間にコトに及ばれていた方がまだマシだと思えてしまう。それ程までに恥ずかしくて堪らない。

 とにもかくにもこのままでは駄目だとリサはヨロヨロとしたまま身体を動かす。ディーデリックが起きる前にせめて服を着ていたい。その一身でベッドから降りようとすれば、猛烈な力で身体を引き寄せられた。


「……え」


 視界が反転している。見上げる先には天井、の、前にディーデリックの顔があった。


「え!?」

「おはようございます、リサ――気分は? どこか具合が悪かったりはしませんか?」

「あ、はい、だいじょうぶ、です」


 つい片言になってしまうのは昨夜の失態による反省と、目の前のディーデリックの圧によるものだ。


「どこかに行こうとされていたようですが、一体どこへ?」

「き、着替えを、しようかなと……」


 ディーデリックに押し倒された為にシーツはかろうじてリサの胸元を隠しているだけだ。下の方は捲れ上がっているせいで太股が露わになっている。もぞもぞと動かしてどうにか隠そうとするが、ディーデリックの足が間にあるのでどうにもうまくいかない。

 そんなリサの答えにディーデリックは少し考えた後に「ああ」と呟いた。寝起きなのが原因か、いつもより反応が鈍い。


「昨日の事は覚えていますか?」

「……お、おぼろげには……ご、ご迷惑をおかけしまして……」

「いえ、貴女が酔っているのは分かっていたのだから、もっと早くに俺が止めるべきでした」

「ちゃんと止めてくださいました! それでも聞かなかったわたしの自業自得です」


 そう、全ては自業自得なのだ。酔って記憶がおぼろげなのも、ドレスを脱がされたのも、今こうやって押し倒された様になって羞恥で死にそうになっているのも、リサが自ら招いた事でしかない。

 あまりにも恥ずかしすぎていっそ下から拳を繰り出して逃げ出したいくらいだが、いくらなんでもそれは恩を仇で返しすぎるだろう。それに寝起きとはいえ相手は騎士だ、リサの拳など当たるかどうかも分からない。


「一応、誤解の無い様に言っておきますが」

「はい、なんでしょう!」


 ディーデリックの声が少し低い。そこになにかしらの不穏な気配を感じてしまいリサは殊更身構えてしまう。まっ先に浮かぶのは「叱られる」だが、それは当然の事でもあるので大人しく受け入れるしかない。リサにとって一番怖いのは、記憶に無い所でディーデリックになにか粗相をしてしまっているのではないかと言う事だ。

 だが、そんなリサに告げられたのは意外な言葉だった。


「何もしていませんから」

「……はい?」

「ドレスを脱がせてしまったのは、着たままだと寝苦しいだろうと思ったからです。それでも勝手に脱がせたというのは変わらないので、それについては謝罪します」

「むしろ……お手数をおかけしてしまったのと……そのお気遣いにこちらこそお詫びと感謝を……」


 最早ディーデリックの顔を見ていられず、リサは両手で自分の顔を覆った。お詫びと言いつつ顔を隠すなど失礼の極みではあるけれど、あまりにも恥ずかしすぎて無理すぎる。


「脱がせはしましたがそこまでです。それ以上は何もしていません、まだ」

「はい……本当にありがとうございま、し、た」


 あれ? とリサは顔を隠したまま首を傾げた。なんだろうか、なんだか、今、とても、引っ掛かる物の言い方をしなかっただろうか、この人は。


「いくら夫婦とはいえ……いくら好きな相手だとはいえ、酔った状態の貴女に手を出すほど俺は落ちぶれてはいません」

「っ、すよね! ですよねわかってます! わかってますよディーデリック様!!」

「ですが、ずっと想い続けていた貴女と一晩共に過ごすのは俺にとっては拷問に等しかったわけですよ」


 ぎゃあ、と叫びたい気持ちをどうにか堪え、リサは蚊の鳴く様な声で「お詫びのしようもなく」と指の隙間からそう漏らした。


「詫びはいいので、その代わりに許可をください」

「……許可、とは?」

「貴女の、全てに、触れる許可、を、欲しいです」


 途切れ途切れのその声にリサは思わず指の隙間を広げてしまう。そしてそれを即座に後悔した。

 ディーデリックは耳から首まで真っ赤に染めながら、それでも視線だけは鋭く見つめている。その瞳の奥に宿る色と、彼の発した言葉の意味を正確に理解してしまいリサはそのまま固まるしかない。


「ちゃんと許可が出るまで我慢します! 今の時点でもうわりと結構限界ではありますが、それでもどうにか耐えます。だから、どうか、その時がきたら許可をください……できれば、早めに……」


 それはつまりはリサから求めるという事だ。

 無理、そんなの絶対無理、と言いたい。そういうのは空気を読んで、それこそ男性の方からリードしてくれるものではないのか。

 だがしかし相手は五年、どころかもっとずっと前からリサを想い続け、自他共に認める拗らせっぷりを発揮している人物だ。そういった空気を読むのは難しいだろう。

 元を正せば己のやらかしだ。あの状況では欲をぶつけられていても文句は言えない。実際彼はリサにそういった欲を抱いていると白状しているのだ。それでもひたすら耐えてリサを大切にしてくれているのだから、これはもう断る事などできようか。


「――ぜ、善処します」


 酒に酔った時よりも酷い目眩に襲われながら、それでもリサはどうにかそう答えた。


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