44 話 あと何度

≪部長 各位≫

≪昨日の余震の影響で、大学敷地内の鐘つき堂に重大な損壊が発生しています。倒壊の恐れがあるため、当分の間立ち入りを禁止します。部員達への周知をお願いいたします≫


伊鶴いずる先輩に見せてもらったメールの文面どおり、鐘突き堂へと続く石段の前には三本の赤いコーンが並べられていた。 


傾き始めた午後の太陽が三角形の影を石段に伸ばしている。

よく見ると、『立ち入り禁止』と張り紙がされた真ん中のコーンに動かした跡がある。

同じコーンを横にずらし、中に入ってまた戻した。


 多喜たきさんは間違いなくここにいる、その思いはすぐに確信へと変わった。


声が聞こえてきたからだ。


あの時と同じだ。


初めてここに来た夜と。


まるで祈りのような。歌のような。心に手を添えるような声。


「……え?」


思わず息を呑んだ。

石段の上の風景が一変していたからだ。

何度も通って見慣れたはずの鐘突き堂の姿は、もう見る影もなくなっていた。

長年放置され続けた旧世代の遺物は、度重なる地震の衝撃に耐えられなかったのだろう。

土台の石垣は半分崩れ、屋根を支える四本の柱もひしゃげ傾き、鐘の淵が土台に擦れていた。まるで無慈悲な巨人に腰掛けられたかのように、ぐしゃぐしゃにへしゃげた鐘つき堂。


「……多喜さん」


そんな鐘つき堂の下に多喜さんはいた。

石と材木と傾いた鐘の僅かな隙間に、膝を抱えて蹲っていた。 


「――〈キャプテン、これはどういうことですか? 投降する気ですか、任務を放棄して〉」


 この期に及んでまだ、セリフの練習を続けていた。

「何をやってるんですか、多喜さん!」

 血の気が引いた。心臓が早鐘を打ち、一気に全身から汗が噴き出す。

「危ないです、出てきてください!」

 鐘つき堂は今この瞬間に崩れたっておかしくない。そうなれば、下にいる多喜さんはひとたまりもないだろう。


「――〈今は耐える時期なんです。力を蓄え、大攻勢に出るために〉」

それがわからないはずがないのに、多喜さんは動こうとしなかった。

「多喜さん!」

「――〈本部に通信を。あなたを拘束し作戦を続行します〉」

 セリフを止めようとしなかった。

予言をもたらす誰かに声を届けて続けていた。指先を細かく震わせながら。

怖いのだろう。

当たり前だ。

人一倍敏感で、人一倍感受性が強くて、人一倍怖がりな、多喜さんなのだから。


――ミシリ。


 その時、ゾッとするような音が耳をついた。それは今にも力尽きようとする鐘つき堂の、最後の呻き。


 ――ミシリ。


 また、聞こえた。

どうする? もう一刻の猶予もない。

早くしないと。力づくで引きずり出すか?


 ――ミシリ。


だめだ。今この状況で多喜さんを乱暴に扱ったらその瞬間にここは崩れ落ちる。

くそう、どうする。どうすればいい? 

どうすればいい? どうすればいい?


「多喜さん、出てきてください」

 呼びかけるしかなかった。

多喜さんに自分から出てきてもらう以外に方法はない。だから僕は言葉を尽くすしかなかった。


「多喜さん。聞こえてるんですよね?」

「――〈あなたは、リンドバーグなんかじゃない〉」

「お願いです、多喜さん」

「――〈あなたは反逆者だ〉」

「もう、諦めてください」

「―――――〈わ、わたしの………の………」

「僕のことは、もう諦めてください」

「―――〈……わ……わ……わた……しの……」

多喜さんがセリフに詰まるところを初めて見た。


「言わないで」

「え?」

「諦めろなんて………言わないで」

「多喜さん」

「諦めろなんて言葉を海堂かいどうくんが言わないで。そんな言葉を海堂くんが使わないで」

 もう役を演じることはできなかった。

多喜さん指の震えは声にも伝播していた。喉を震わせ、心を震わせ、唇を震わせ、瞳を震わせ、涙を零させた。


「お願いだからそんな残酷なこと言わないで……海堂くんがそんなことを言わないで……」

「……多喜さん」

 手を伸ばして、震える指にそっと掌を重ねた。少しでも力を籠めればバラバラに砕けそうな華奢な指を、いたわるように包み込んだ。


「今までありがとうございました、僕のために」

「……ああ」

 漏れた息が答えだった。

 全ては僕のためだったんだ。

 多喜さんが予言を受け取るのを止めないのは。

誰に何を言われても、毎晩鐘突き堂に上るのは。

変人と疎まれ、避けられ、罵倒され、傷つき、泣いても未来を知ろうとするのは。

全て僕を守るためだったのだ。


「もう、これ以上は止めてください」

 多喜さんは言っていた。『結果』の大きすぎる予言は一度の低減では救えないと。

何度も何度も細かく削り続けないと、また同じような『結果』を伴う予言が降りてくるのだと。


『おーはよー』

 独特のイントネーションと共に、僕は何度多喜さんのミニカーに轢かれたことだろう。

足を骨折した坂本の低減が一か月以上も続くのであれば、出会ってから一年以上も低減が続く僕の『結果』はどれ程のものだったのか。

一年前に、僕はどうなっているはずだったのだろう。


「……嫌だ」

コトリと音を立てて、多喜さんの手からミニカーのポルシェが滑り落ちた。

「……そんなの嫌だよ」

「ありがとうございました、多喜さん。その気持ちだけで充分です」

「充分なんかじゃないよ!」

 怒鳴り声が、傾いた鐘突き堂を軋ませた。

それは今まで見てきたどんな演技とも違う、多喜さんの心の底からの叫びだった。


「全然充分なんかじゃないよ! なんで? なんで、そんなこと言うの? そんな酷いこと、なんで言うの。嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! ねえ、そんなのないよ。そんなの嫌だよ。諦められないよ。受け入れられないよ。だって、わたし………ねえ、海堂くん………嫌だ嫌だぁ……そんなのってないよ、痛いよ、苦しいよ、寂しいよ………ねえ、海堂くん……辛いよ……」

 僕の手に額を重ねて、多喜さんは泣いた。

声を上げて泣きじゃくった。

それは一年以上堪え続けた感情だった。

誰にも言えず、耐え続けた痛みだった。そんな多喜さんの頭に僕は自分の額を重ね、

「好きですよ、多喜さん」

 一年以上堪え続けた言葉を口にした。


「……え?」

「初めて舞台で見た時からずっと好きでした」

 そして、ずっと言えませんでした。

 自分の気持ちに確信が持てなかったから。

舞台の上のスペシャルな多喜さんに魅かれただけかもしれなかったから。

役者としての演技力に魅了されただけかもしれないから。

でも、この一か月生身の多喜さんと一緒にいてようやくわかりました。

ようやく、多喜さんの目を見てこう言えます。


「僕は多喜さんが大好きです」

「海堂くん……」

「大好きです。死ぬほど好きです」

だから、出て来てください。あなたまで死のうとしないでください。

お願いだから、僕の分まで生きて………。


「――わ」

「え?」

「――わ」

「多喜さん?」

「わたしも好き――っっ!」

 ロケットのように多喜さんが飛び出してきた。

「え? え? うわあぁ」

 不意打ちの衝撃受け止めきれずに僕は尻餅をつく。そのまま二人で崩れた土台の上を滑り落ちた。

そして、それがとどめの一撃になった。

まるで多喜さんが出てくるのを待ってくれていたように、寝転ぶ僕達の目の前で鐘突き堂が崩れ落ちた。

幾星霜人々の営みを見守り、願いを響かせてきた鐘楼が、砂埃を巻き上げ、軋みを上げ、数百年の歴史に幕を下ろした。


「好き好き好き――! わたしも海堂くんが大好きだー! 一目見た瞬間から一目惚れだったよー、大好きー!」

 そんな歴史的事件など微塵も気に留めることなく、多喜さんは涙でぐしゃぐしゃの顔で愛を叫んでいた。


「うー、好き好き好きー! 好きだけど………遅いよぉ、もっと早く教えてよ。待たせすぎだよぉ」

「……ごめんなさい」

「許す。好き。好きだからもっとギュッてして」

「はい」

 請われるままに多喜さんの華奢な体を抱きしめた。

鼻をくすぐるふわふわの髪の毛が、少しくすぐったかった。

背中の瓦礫がぐりぐりと背骨を圧迫してくるし、倒れた瞬間おかしな方に捻ってしまった足首がじんじんと熱い。


それでも、なにはともあれ出てきてくれてよかった。ギリギリで間に合ってよかった。

 ……今までありがとうございました。

瓦礫と化した鐘つき堂に心の中でお礼を言う。これでもう予言が降ってくることはないだろう。

多喜さんのスーパーヒーロー活動も今度こそ本当に終了だ。

そして、恐らくは僕の命も。


「多喜さん……」

「うん?」

「多喜さん」

「うん」

「多喜さん」

「……うん」

あと何度、僕は多喜さんの名前を呼べるのだろう。

 あと何度、多喜さんを抱き締めることができるのだろう。

 あと何度、好きと告げることができるのだろう。


「大好きです」


 残り少ない時間を惜しむように、僕は強く多喜さんの体を求めた。


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