第30話・桐壺のクローズドサークル・3

「まずひとつには、ほとんど行き来もない後宮の最奥の殿舎から疫病が発生することがあるのかということです」

 言いながら犬君は先程自分が描いた大内裏図を床に広げて弘徽殿の目の前に見せる。

「ですが、冷静に考えれば最奥だからこそ有り得るのです。それを確認するために数多の日記をお借りいたしました。”平安京遷都以降、宮中で起きた触穢の記録”をできるだけ詳細に記載した日記を。つまらぬことだとお思いでしょうが……穢れが発生したとき、どこでどう発生しどのような経路で伝搬し、誰が二次的に触穢を受けた可能性があるか――それを究明するのが我々の職分にございます。ゆえに私はそれを納得してからでなければ事件の捜査に当たれない。奇妙にお思いでしょうが、性癖とでもお思いくださいませ」

 言いながら犬君は清涼殿の前から桐壺までの廊下を指先でたどっていく。

「……清涼殿から桐壺までの道のりをまとめましょう。桐壺の更衣は数多の殿舎の目にさらされながら清涼殿まで行かなければならない。女御様はそうおっしゃいましたね?」

 事実、清涼殿から桐壺に向かうまでには弘徽殿もふくめたあらゆる殿舎を通過していくことになる。それを指でなぞって確かめ、最後に桐壺の上で円を描く。そしてその向こうにある土壁の外郭、禁裏とその外側を隔てる大垣を指さして犬君は言う。

「清涼殿から最も遠いということは、内裏の外郭に最も近い殿舎だということです。ゆえに桐壺には烏の持ってきた死体の一部が投下されて触穢騒ぎになることが他の殿舎よりも多く発生します。もしもそれが犬ではなく、痘瘡のかさぶたがついた人の腕ならどうなりましょう」

 弘徽殿は犬君の指先を見つめ、彼の言った説明を思い出す。

「裳瘡の疫鬼は基本的に患者のかさぶたに触れて感染うつる――で、合ってる? そしてその危険性があるのは、掃除をする下女やそれに近しい雑務をしている童だわ……」

 弘徽殿は暗い表情をしている。その表情を見た犬君は、心の内でその理解の速さに感心する。

「その通りにございます」

 内裏を包囲するのは石組みの基礎の上に建てた朱塗の木の骨組みに土を塗り込めた築地塀。低いところでも人の身長の二倍はあろうかという高さで、屋根は傾斜する銅板の瓦。外側にはぐるりと側溝が巡らされ、門についた衛士は昼夜問わず厳戒警備をしている。

 しかしその大垣も空を飛ぶ鳥ならば飛び越えられる。鳥が庭に落とした様々なゴミを拾うのは下々の者やこどもの仕事になる。

「あと、考えづらいことではありまするが、もうひとつには――」

 言いかける犬君にかぶせるようにして、弘徽殿が言った。

「犬が入れるくらいの隙間があるとしたら、童の遺体でも外に出せる!」

 顔を上げる。弘徽殿が険しい顔で宙を睨んでいる。

「ねえ、あなた、犬って結構大きいわよ。あなたは烏が遺体の一部を運ぶ話ばかりしているけれど、もしも内裏と外を隔てる築地塀のどこかに犬が通れるような間隙があるのなら? 何か仕掛けをして童の遺体を外に出すことくらいできると思わない? そうしたらそのために桐壺を出る必要なんてなくなるわ。しかも、その場所さえ知っているなら桐壺の人間じゃなくても構わないわけよね?」

 言われた犬君は改めて日記を手繰りよせる。そして問題の記述をぱらぱらと確かめて、うなずいた。

「確かに人間と違い、畜生ならどんな死に方をしていても畜生の穢れなのでございます。……ゆえに我々も犬だとしか報告しませんし、日記にも犬の死骸としか記述されません。書かれない以上、犬は全体かもしれないし、遺体の一部かもしれない。ならば犬の一個体――つまり、生きた犬がどこからか紛れ込んでそこで野垂れ死んだ可能性も否定はできませんね。実際に後宮以外の役所であれば、犬の死体が建物の下から発見された記述もある。これはどこかの隙間から紛れ込んで死んだ一個体でしょう」

「だとしたらその隙間よ! 犬が通れるほどの隙間ならどうにかして遺体を運び出す方法があるとは思わなくて?」

 勝ち誇ったように弘徽殿が言う。犬君はうなずいて、それからつとめて冷静な声で言った。

「ただ、弘徽殿の女御様。女御様の常識でお考えくださいませ。ここは帝とそのご家族が住まう御所でございます。幾たびも犬が紛れ込んで死んでいるような大きな隙間が内裏と外部の間にできているのに、それを放置していることなどありえるのですか? 野生の犬とは恐ろしいものでございますよ女御様。群れれば女人のひとりくらい食い尽くします。そんな間隙を放っておけば、皆が安心して暮らせますまい」

 弘徽殿が再び黙る。がっかり、としか形容のしようがないうなだれっぷりに、犬君は少し気の毒そうな目を向けて言い足す。

「……いえ、ありえるのならば構わないのです。私は実際に一度も弘徽殿以外の殿舎を拝見したことがなく、すべては想像にございまする。例えば、故障ではなくもともとの仕様として犬が通れるくらいの隙間はどこかにあるのかもしれない。あるいは普段、門を守っているはずの衛士のまれに見る失態かもしれない。……ずっと後宮にお住いの女御様の常識から考えて、おかしな点があればご指摘くださいませ」

 弘徽殿はおもむろに顔を上げ、真剣な顔でつぶやいた。

「そういえば案内してなかったわね」

「何を?」

 犬君もいぶかしげに顔を上げる。

 弘徽殿は犬君の顔を見つめてうなずき、「うん」と手を叩いた。

「言われてみればそうだわ。事件の解決を頼んでおいて、弘徽殿以外の殿舎を知らないのでは話にならない。――桐壺に行ってみる?」

 思いがけない返事に、犬君はぽかんとした。

「え。桐壺に行っても構わないのですか?」

 女御の直属の女房たるもの、他の殿舎には近づかないのがたしなみだと思っていた。みだりに他の殿舎の者が現れれば変な圧にもなるだろうし。

「まあ、あまり良くはないのだけど、そういう意味とはちょっと違うわね。本来わたくしたちは、無闇に出歩いて人に見られること自体がはしたないのよ。……梨壺があんな人なせいで、わたくしたちはゆるくやっているけど」

 ああ、と犬君はうなずいた。確かに御簾の奥にこもっていられなさそうな人ではある。そうして皇女がそうしているのであれば、周りもあまりはしたない行いだとは糾弾しづらい。

「なんと申しましょうか、自由でさっぱりと風通しのいい方ではあるのですよ。少し悪ふざけが過ぎるだけで」

 犬君が言うと、弘徽殿は扇で床を叩いてそっぽを向いた。

「あなたは人物評価が甘い!」

 機嫌が悪い。やはり少々後宮の風通しを良くしてもらったところで梨壺のことを好きにはなれないのだ。いやむしろ、だからこそ、弘徽殿のような人間は梨壺を嫌うのかもしれない。

 不機嫌な弘徽殿は、くちびるをとがらせたまま犬君の文机を指さした。

「ところがね、あなたには桐壺の前まで行く理由があるのよ。お人のいい梨壺サマのおかげでね」

 犬君はつられたように文机を見る。そこに置いてあるのは、硯とまだ歌も書いていない紙だ。

「返歌。してあげるんでしょ? 梨壺は桐壺の隣の殿舎よ」

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