第二十八章:鎹《かすがい》――陽希十九歳の視点(二)

「今の会社は育休も取れるようなんで」

 どこか諦めたような、しかし、どうにも沈鬱な気配で細い目を伏せたおじさんに対して美生子に良く似た円な瞳で真っ直ぐこちらを見詰めているおばさんに向かって極力落ち着いた声で語る。

「軽率なことをしたのは判っています」

“せっかく東京の大学に入れた自慢の娘を孕ませたろくでもない男”

 おじさんはもちろんおばさんの目に映る今の自分も本当のところはそんなものだろう。

「ミオだってまだ大学の途中だし」

 高校と違って妊娠しても処罰的な退学にはならないが、それでも在学中に妊娠出産すれば就活など進路に大きく支障が出るだろう。

「でも、僕には大切な我が子です」

 子はかすがいになどならない。俺の両親が正にそうだった。

 だが、今、ミオの中に宿った命を葬り去る選択だけはどうしても取れないのだ。

 真っ白なお包みの中で円な瞳を開いた赤ん坊を抱く自分の姿が浮かんだ。

 むろん、生まれてくる子がそんな都合良く美生子に似ているとは限らない。

 むしろ、自分そっくりのいじけた息子が生まれてくるのかもしれない。

 あるいは生まれつき重い病気や障害を抱えていたり。

 しかし、どれほど最悪な事態を想定してもその子が自分にとっての命綱であり、自分も生きている限りはその子にとっての命綱であろうという気持ちは揺るがないのだ。

 おじさんおばさんだって俺のことは憎くても娘が産んだ自分たちの孫である子を邪険にする人たちではないだろう。

 少なくとも、陽子おばさんだけは。

「そうなの」

 テーブルの斜め向こうに座す相手は美生子そっくりの――そもそも美生子が母親のこの人に似ているのだが――円らな瞳を細めてゆっくり頷いた。

「キヨが生きてたら、どう言うか分からないけど」

 キヨ、と温かな声で呼ばれているのがあの怨霊じみた自分の母親だとは未だに信じ難い。

「私は二人に協力し合って生まれてくる子を大事に育てて欲しいし、こちらとしても出来るだけのことはするから」

 もうすぐ五十に手が届く母親はテーブルの向かいに並んで座る自分と美生子を見据えて言い切った。

 陽子おばさんにとっては娘の腹に宿った命に対して“出来るだけのことはしたい”ではなく“する”なのだ。

「ありがとうございます」

 この人ならそう言ってくれるだろうと思った。ホッとして胸が温まると同時にそうした自分をどこか卑劣で後ろめたく感じた。

 目線は自ずと隣の美生子に移ろう。

 突き出た胸に白い服を纏った相手は小さな桜貝じみた丸っこい爪をした両手で麦茶の入った白い半透明の摺りガラスのグラスを抱えている。まるでその中に注がれている冷え切ったもので暖を取ろうとするかのように。

 これで親ぐるみで外堀を埋められた、俺にはめられたとミオは内心恨んでいるのだろうか。

 栗色の髪の襟足まで伸びた、小さな薄桃色の横顔が俯いたまま押し殺した声で答えた。

「ごめんなさい」

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