第二十五章:心に合わない器《からだ》、器に沿わない心――美生子十九歳の視点(二)

*****

「俺は明日は三限からだからちょっと遅くても大丈夫だけど、ハルは明日も仕事だよね?」

 個室の居酒屋で一緒に飲もうと相手から昨日の夜中にLINEしてきたのだが、それが少し気になった。

「そうだけど、明日はもう金曜日だし、ちょっと一緒に飲みたくてさ」

 黒の立襟のポロシャツを着たオフィス帰りの相手はどこか寂しいものに底を潜めた笑いを浮かべてお通しのイカの塩辛を箸で摘む。

「ぺーぺーのくせにこんなこと言うのもあれだけど、仕事はやっぱりダルいよ」

 長い睫毛を伏せると、眼の下の隈が浮き上がって見えた。

「そうなんだ」

 ハル、もしかして、仕事が上手く行ってないのかな? 

 ちょうど入って三ヶ月目くらいで会社を辞める人も世間には少なくないらしいし。

「ま、地元にいた頃にバイトで行った仕分けの工場みたいなとこよりはずっといいけど」

 種も仕掛けもありません、と手品師が口上を述べる時のように相手は両の手をヒラヒラさせて静脈が透けて見えるほど蒼白い手の甲と滑らかな掌を示して見せると照れた風に微笑んで続けた。

「あれから、俺もしょっちゅうハンドクリームを着けるようになった」

「そりゃ良かった」

――俺の前では無理して女のフリしなくていいんだよ?

 三年前のクリスマスに相手が痛ましい面持ちで手首を握り締めた記憶が蘇る。

 あれからハルの中でもうハンドクリームが女特有の美容ではなく男の自分も当たり前にするケアに変わったのは互いのためにも喜ばしい。

「俺の手よりハルの方が綺麗なくらいだよ」

 自分の手は皮膚として荒れてはいないが、小さくて指も短くて爪も横長に丸っこく、男としては明らかに貧弱だし、女としてもしなやかな美しさに欠けるだろう。

「一度ケアするようになると、荒れたら塗って直そうじゃなくて荒れる前に塗って予防しようと思うようになるし、荒れそうなことも事前に避けるようになるんだよな」

 黒のポロシャツの立襟から太く長いくびを覗かせた、しかし、肌が蒼白いためにどこか石膏の彫刻じみて見える相手は穏やかだが確固とした声で語る。

「お祖母ちゃんにも『明日は寒くなりそうだから手袋して出ないとね』ってこっちから伝えられるようになったり、二人で使っているハンドクリームが残り少なくなってきたら自分で買い足したりね」

 社会人になったせいか、この三ヶ月の間でも処々の場面で前より口調が明瞭になった気もする。

 それでいて決して攻撃的ではないのだ。

 自分より年上の大人に揉まれて曲りなりにも自分で生活していくだけの給料を貰う仕事をしているからだろう。

 同時に俺なんか随分ハルの目には甘っちょろく見えるんだろうなという感慨に改めて襲われる。

「失礼致します」

 配膳ワゴンを背にした店員の声が響いた。

 この人、ハルのお祖母ちゃんくらいだろうな。

 髪こそ明るい栗色に染めているものの、どこか枯れた声と深い皺の刻まれた顔からそう察せられた。

「ライムサワーと烏龍茶、唐揚げとシーザーサラダをお持ちしました」

 半透明の酒の入ったグラスを店員が萎びた手に持った瞬間、幼馴染はそっと片手を挙げて声を掛けた。

「サワーはこちらです」

 何だか俺より場慣れしているみたい。こいつも酒を飲むには本来まだ一年早いはずだけど職場の飲み会で当たり前に飲んでいるんだろう。

 俺はチョコレートやアイスクリームにちょっとアルコールが入っているだけでも具合が悪くなるから烏龍茶にしているけど。

 もう成人の括りで結婚も投票も出来るけれど、酒や煙草を嗜むのはまだ駄目。

 十九歳の自分たちはそんな宙ぶらりんな位置にいる。

「じゃ、乾杯」

 向かいに座す幼馴染は労う風に微笑むと手にしたグラスをこちらのグラスにカチリと優しくぶつけてきた。

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