第二十四章:二人のメモリー――陽希十九歳の視点(二)

*****

「ハルの会社、二、三日前にバイトの帰りに近くを通ったけど、立派なビルだよね」

 まだ湯気のうっすら立ち上る抹茶ラテの入ったカップを小さな手で包むようにして抱えた幼馴染はどこか引き攣った笑顔で告げる。

 これは、こいつが本心を隠す時の顔だ。まるで小さなカップを手の中で潰さんばかりに強く握り締めた指先の力みからも判る。

「それはいいからさ」

 さりげなく切り出すつもりだったのに自分で聞いてすら怖くなるような苦い声が出た。

 向かいの強張った笑顔がギクリというよりビクリとした風に震える。

 やっぱり、こいつはあの男のことを考えていた。

 そう思うと胸の奥が黒く燃え出す。

「さっきの人が元カレってどういうこと?」

 まるで付き合っている彼女の浮気を問い詰める男だ。

 そう思うと何だか笑えてこちらの顔も引きつるのを感じた。

「全然聞いてないんだけど」

 自分は今、きっと、いじけた卑屈な笑いを浮かべているに違いない。

 桜と苺を混ぜた味だという薄いピンクのラテに口を着ける。

 何だかしょっぱい。

 苺より「桜」の風味を効かせたつもりなのかもしれないが、この季節限定商品を頼んだのはちょっと失敗だった。

「ああ」

 ミディアムショートヘアの相手はまるで懺悔するように円な目の睫毛を伏せて答えた。

「去年の五月から夏前くらいまで付き合ってた……のかな」

 今になって何故そんな曖昧な言い方をする。

「元カレってさっき自分で言ったよね」

 そして俺のことは“同じ地元の友達”とあの男には紹介した。

 どちらもミオの中では事実なのだろう。

 ふっと目の前の相手が今度は憐れむ風に微笑んだ。

「テディとはすぐ別れたから、そこまでの関係にはなってないよ」

 “そこまでの関係”

 否定されたにも関わらず、裸の美生子と眼鏡を外したあの男の抱き合っている姿が浮かんできて胃の中の物が逆流してくるような感じを覚えた。

 いちいちそんな想像をして過剰反応する自分が下劣なのだ。

 そう思うと余計に嫌になったが、黒い炎が燃え立つのは抑えられなかった。

「あの人、テディさんて言うんだ」

 香港や台湾だと一般人でも「ジャッキー」とか「レスリー」とか英語名をちょくちょく持つらしいのは自分も知っている。

「オモチャみてえな名前だな」

 俺と変わらないアジア人の顔をして、しかも、三十路のオッサンのくせしてクマのぬいぐるみみたいな呼び名を使うのだ。

「一応付き合ったってことはちょっとは好きだったの?

 一見して自分に良く似た、身形も育ちも上位互換みたいな男。

――じゃ。

 飽くまで人懐こい笑顔で立ち去ったあの男がミオとは無関係な所で出会った相手なら好感すら抱いたかもしれなかった。

 抹茶ラテのカップを相変わらず小さな両手で抱えた、そのせいでいかにも女の子らしく見える幼馴染は“知っているでしょ”と言う風に寂しく笑って首を横に振った。

「そういう意味では結局好きになれなかったから別れたんだよ」

 端から予想できる答えだったにも関わらず、何故か虚を突かれた気がした。

 相手は今度はすっきりした風な安堵した笑顔で続ける。

「それでもう自分は女だみたいなフリして髪長くして無理にお化粧したりヒラヒラしたスカートやヒールを穿いたりするのは止めたんだ」

 本来は華奢な肩幅に合わない黒のジャケットと細首を隠したブルーグレイのタートルネックに身を包んだ、男物の服に半ばうずもれて見える幼馴染は一息つくように抹茶ラテに口を着けた。

「あの時はとにかく付き合う相手が欲しくて焦ってたから」

 別にあの人じゃなくても良かったけど。

 聞いているこちらの頭でそう補完された瞬間、プツリと何かが切れた。

ひでえな」

 掠れた声が口からこぼれ落ちる。

「お前、それで相手の時間を無駄にしたんだぞ」

 それを聞くと、ほっとした様子でモスグリーンのラテを啜っていた幼馴染は再び石を投げ付けられたようにビクリと震えて俯いた。

 だが、こちらはもう黙って流せない。

「本当は最初から好きじゃなかった、好きにもなれないなんて人を馬鹿にするにも程がある」

 こちらを見詰める前髪の下の円らな瞳に潤んだ光が点って揺れた。

 その様を目にすると、胸に熱い痛みが走る。

 お前は弱くて感じやすい女そのものじゃないか。

 ぐっと声を押し殺して付け加えた。

「俺ならそんなことされたら許さないよ」

 周りがそれとなく自分たち二人に目を向けている気配に今更のように気付いたが、もうどうしようもなかった。

 何でもない風にしてピンクとも白ともつかない色をした飲み物を啜る。

 優しい色合いに反して口に含めば塩っぱさと酸っぱさが浮かび上がった。

「俺、最低だな」

 ミオはまだ半分以上も小さな沼の残っている器を抱えて呟いた。

「そう言えばやったことが消える訳じゃないけど」

 ギュッとまたカップを覆った指先に力が籠もる。

「その時にもやましい自覚があったからハルには言えなかったんだよ」

 こちらを見返す幼馴染は円な瞳の縁は紅く染まり、鼻も頬もピンク色で顔全体が桃のようだ。

 あえかな皮に覆われ、指で少し押しただけでも傷付く柔らかな果実。

「まあ、向こうも自分から笑って声掛けてきたんだから、そんなに気にしてもいないだろ」

 だから、お前ももう忘れろ。

 胸の裡でそう付け加えると同時に何故わざわざ俺と連れ立って歩いているミオに声を掛けてきたのかと改めて腹の中が燻るのを感じた。

 もともと付き合っていたのは自分だとひけらかしたかったのか。

 それとも、あの男の視野には端から俺の姿が入っていなかったのだろうか。

「向こうはずっと大人だしね」

 どこか懐かしむようなミオの声と面持ちにふっと引き攣った笑いがこちらに戻るのを感じた。

「あれ、三十くらいだろ?」

 高そうな服を着て、禿げても太ってもいないけれど、十九歳の自分たちからすればオッサンだ。

「ロリコンなんじゃないか?」

 ミオは女性としてもやや小柄で童顔なので同い年の自分と並んですら若干幼く見える。

「例えば俺が詩乃ちゃん辺りと付き合うようなもんだよ」

 あのテディさんが今の俺ら位の頃に俺らは今の詩乃ちゃんよりもっと小さかっただろう。

 日本に来てそんな年の離れた外国人の女の子を引っ掛けようとしていたオッサン。

 何にせよこいつは男と付き合った経験もないし(女ともないけど)、香港の映画だの俳優だの好きな女子学生ならチョロいと思ったのかな?

「その意味でもすぐ別れて良かったんだよ」

 何故そんなに寂しい顔をする。

 好きになれなかったとお前が自分で突き放した相手だろうが。

 残したいような、しかし、まだ勿体ないような気持ちで桜色のラテをグイと大きく一口飲む。

「この後、どうしようか?」

 さっき誕生祝いに買ってもらったばかりのシルバーのネクタイを持って。

「カラオケか漫画喫茶にでも行くか」

 とにかく二人で安全に楽しめる場所に移りたかった。

 

 


 

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