第二十三章:君はいつも隣に――美生子十九歳の視点
「じゃ、いただきます」
「いただきます」
三月末の昼の陽が柔らかに射し込む窓際に面したファミレスのボックス席。
四人全員の膳がちょうど揃ったところで(といっても誤差の範囲内の時間差で次々届いたのだが)、待ちかねたようにそれぞれ箸やスプーン、フォークを取る。
「今日はどうもありがとう」
ガラス窓に接した奥側に座る、スモーキーピンクのカーディガンを羽織ったハルのお祖母ちゃんはテーブルの向かいに座る自分と母親を労う風に微笑んだ。
街路の満開のソメイヨシノを透かした陽射しの照らし出すその笑顔は常より皺がいっそう深く刻まれて見える。
正確な年は分からないが、この人ももう七十歳は超えているだろう。
小さな頃から「ハルのお祖母ちゃん」という既に老いた人の位置付けだったが、改めて眺める相手の風貌は昔より明らかに高齢者に相応しくなっている。
スプーンで雑炊を掬って口に運ぶ姿も何となく以前より身体全体が一回り
元から細身の人ではあるが、カーディガンの袖口から抜き出た手首の辺りは鶏ガラじみて見える。
自分と母親で上京するハルの引っ越しの手伝いはしたものの、本来なら混み合う新幹線や電車を乗り継いで移動するだけでもこの人には難儀だったのではないだろうか。
「いえいえ」
「私も一年ぶりに東京に来たかったですから」
ガラス越しの白ともピンクともつかない淡い花霞を示すように見やる。
こちらはまだ五十前の顔だ。
母もいわゆる
そもそも亡くなった清海おばさんと同い年だから、うちのお母さんもハルのお祖母ちゃんからすれば娘ほども若い女性なのだと今更ながら思い当たった。
「こっちは桜が早いんだね」
海老グラタンを掬ったスプーンをすぐには口に入れずにフウフウ息を吹き掛けながら、オリーブ色のフード付きパーカーを纏ったまま白い丸首シャツの襟を覗かせたハルはどこか不安げな色を潜めた笑顔をこちらに向けている。
「向こうはまだ桃が咲いているくらいなのに」
「ああ」
こちらは何でもない風に頷いて海鮮丼セットの味噌汁を啜るものの、正直、そこまで食欲はない。
と、月経二日目の下腹部の感覚が鈍い痛みからキリキリと中から剥がれ落ちるようなそれに変わった。
グッと眉根に皺が寄るのを感じながら、今度はグラスの氷を浮かべた水を飲む。
普段手帳につけている周期からしてハルの引っ越しを手伝う今日が月経に重なることは予測していたが、回避は出来ないのがこの月に一度の、女体特有の出血週間だ。
「ミオ、具合悪い?」
ハルは何かを察した風に尋ねる。
「いや、ちょっとお腹が冷えただけだから大丈夫」
食事の席だし、月経や生理という言葉は出したくない。
「普通に食べられるよ」
手付かずの海鮮丼に勢い良く箸を入れる。
朝、出てくる前に、夜用のショーツ型のナプキンを履いてきたし(そもそも他人の新居のトイレに使用済みナプキンという汚物を残していくのも失礼に思えるし、本物の男であるハルの新居のトイレにはそんな汚物入れも設けていないだろう。かといって使用済みのナプキンを隠して持ち歩くのも嫌なので夕方の帰宅まで交換せずに済むようにした)、元より上下とも真っ黒な大きめのジャージを着ているので仮に経血が漏れて滲んでも目立つ心配はない。
だが、実質はオムツと変わらないものを着けて「お前は女だ」と主張するように痛む子宮を抱えて人前に出ているという状況そのものが屈辱であった。
自分もやはり手術してこの邪魔な子宮も乳房も取り除いてしまおうか。
そして、新たにペニスを形成する手術を受けようか。
醤油をかけた熱いご飯と生温かくなった刺し身を噛み砕きながら、頭の中にこのところ繰り返し現れる問い掛けがまた現れる。
手術をしない限り、自分の体には要らない物が付いていて必要な物は欠けたままだ。
むろん、手術を受けた所で本物の男の体になるわけではない。手術で作ったペニスに精子を作る機能はないからだ。
手術で尿道を延長して形成するミニペニスでは排尿は出来ても生殖は叶わないし、恐らくは性行為も生得的男性と全く同じようには出来ないだろうと医療には素人の自分にも察しは付く。
生物的には女性としての機能を失うのであって、新たに男性としての機能を完全に備えた身体になるわけではないのだ。
客観的には生まれたままの体を損傷する行為でしかないだろう。
ネットで目にした、胸に真一文字の切り傷めいた、というより実際に縫い合わせた切り傷そのものの術痕を着けた、今、十九歳の自分よりも年下の少年(生得的な性別で言えば『少女』)たちの姿がまざまざと頭の中に蘇る。
率直に言って、彼らが生まれつきの自然な男性には見えないし、自分が手術を受けても恐らくそうなるのは予想が付く。
大体、俺は百六十センチもない、女としてもちょっと小柄な部類なんだから、男だったらチンチクリンの貧弱な風采だろう。
「宦官」と呼ばれる去勢手術を受けた昔の中国の男性官吏たちが飽くまで男性として畸形な様態であって決して純然たる女性に見えたわけではないように、性別適合手術を受けたトランスセクシュアルたちも元の身体的性別の名残を多かれ少なかれ引き摺った姿になるのだ。
――私は今となっては後悔しています。
これもネットで見た、一聴すると男性としか思えない低い声で語る、やはり外国人の若い女性の姿も浮かんできた。
いわゆる「デトランス」と呼ばれる、トランスセクシャルとして性別適合手術は受けたものの新たに違和や不適応に陥り、元の性別での自認を主張し始めた人だ。
思春期からのホルモン投与や性別適合手術が盛んになった地域では新たにそんな問題も起きている。
海鮮丼にどうやら醤油をかけ過ぎてしまったようだと舌打ちしたい気持ちでグラスのお冷をしょっぱくなった口に流し込む。
氷の溶け込んだばかりの水は飲み込んだ後もスッと尾を引くように胸を冷やした。
自分もいざ手術を受けて平たくなった胸に切り裂いた跡を目の当たりにしたら悔やむのだろうか。
ホルモン投与して男そのもののような声しか出なくなった時にやはり「女に戻りたい」と切に願うのだろうか。
不意にドロリと股から生暖かい血が半ば固まって流れ出る感触がして背筋にゾワッと震えが走った。
血を吸い込んだ不織布のナプキンが股間に貼り付く感じが不快で座り直す体でジャージの上から剥がす。
いや、こんな体はもう嫌だ。純粋に女でも生理が心地良い人はいないだろうが、俺は初潮を迎える前から、胸が膨らむ前から、ずっとこの「女」に分類される体が嫌だった。
自分の心が間違えた体に入っているのだという感じがいつもしていた。
それが頭の中だけの根拠のない錯覚だとしたら心か体のどちらかを治さなければならない。
だが、自分の確信として心を純粋な女に矯正することは出来ない。
俺は昔からどう足搔いても、見た目も気立ても悪くない男性を好きになろうとしても、女の子しか好きになれなかった。
バレエを習っていた時もなりたいのはオデットやオディールではなく王子だった。
今はただ当たり前の男になりたい。
アスリートでも芸能人でもない、そんな道を目指してもいない自分が性別移行したところで世間から賞賛される功績にはなりはしない。
むしろ、「何かをこじらせた頭のおかしな人」という扱いを受ける場合が殆どだろう。
だが、それでいいんだ。俺は他人から褒められたいのではなく、飽くまで自分らしくいたいのだから。
「デザートにアイスでも頼もうかな」
向かいからの声に現実に引き戻される。
「季節限定の苺のアイスがある」
グラタンの皿をいつの間にか空にしたハルがキャンペーン用に特化したメニューに見入っていた。
生理痛の自分はもちろんお祖母ちゃんもうちのお母さんもまだ全部は食べていないのに、こいつはグラタンとスープとサラダとご飯の一セットをあっという間に平らげた上にデザートを食おうとしているのだ。
そう思うと、白い丸首シャツの襟から抜き出た太く長い頸やオリーブ色のパーカーを羽織った広い肩が怪物じみて見えた。
「また、苺アイス?」
どうやら雑炊を食べ終えたらしいお祖母ちゃんが紙ナプキンで口元を押さえながら苦笑いする。
「さっきもスーパーで買ってきたじゃないの」
口調とは裏腹に孫息子が大食いであることを喜んでいるようだ。
むろんこのお祖母ちゃんは優しい人だけれど、これが俺みたいな「孫娘」だったら同じ反応にはならない気がする。
「あれはまだ食べないで冷蔵庫にストックとして入れてあるし」
ハルもお祖母ちゃんに対しては笑顔で軽口を叩く調子なのでそこは安心する。
生みの母であるはずの
と、死んだ清海おばさんを柔和にして三十年老けさせた風なお祖母ちゃんがテーブルの向かい側に座る自分たち母子に軽く苦笑いする。
「この子、女の子みたいな食べ物が好きだから」
“女の子みたいな”
言われたのは自分ではないのに、言った方はそこまでのこだわりも悪意も込めていないであろうと判る言葉なのに妙に突き刺さるのを感じた。
いや、それ関係ないだろ。苺なんてそんなにクセの強い果物ではないし、敢えて嫌いだと言う人の方が少ない。
男で苺や苺風味が好きな人は普通にいるし、ハルもその一人であるに過ぎない。
何でそんな些末な嗜好にまで男らしさ、女らしさの線を引くんだ。
また下腹に内側から剥がれ落ちるような痛みが響いてくる。
「キヨも苺好きでしたよ」
隣の母親は何でもない風に笑って返すと、メニューを取り上げた。
「食べ終わったし、白玉餡蜜でも頼もうかな」
肥った小麦色の丸い笑顔はセーターの鮮やかなダンデリオンイエローを反射したように明るかった。
「私はちょっと今日はデザートはいいかな」
俺も自分のセットを食べなくちゃ。
正直、もう残したい気持ちで冷め始めたしょっぱい醤油の滲んだご飯を詰め込む。
「そういやたまにお母さんと外でアイスを食べてもいっつも苺味のを二つ買って、それぞれ一つずつ食べる感じだったなあ。それには全然疑問も不満もなかった」
向かいから幼馴染の独り言じみた呟きが聞こえた。
「一種の遺伝なんだろうな」
清海おばさんはもういないのに母親について語るハルは固い顔と声だ。
「デザート追加で注文しますか?」
お母さんは注文用のタッチパッドを取り上げて向かいのハルのお祖母ちゃんに尋ねる。
「いや、私はもうお腹いっぱい」
食べることでより疲れが増してしまったように七十過ぎの相手は答えた。
「じゃ、ハルくんが苺アイスで私が白玉餡蜜頼むということでいいかな」
「お願いします」
幼馴染はまだ固いものを底に残しつつ、どこか甘える風な調子で返す。
「それでいいよ」
とにかく上京一日目で明日から社会人になるハルの今日が少しでも明るいものになってくれれば。
「さて今日は俺の引っ越しだけど、もう一つの記念日でもあるね」
仕切り直しという風に向かいに座る幼馴染が笑う。
“もう一つの記念日”
ギクリとした自分に対して、向かい側の席では淡い花霞を通した柔らかな昼の陽射しがハルの固く真っ直ぐな黒髪と切れ長い目をした小さな蒼白い顔を照らし出している。
――君はもともと可愛いよ。
不意にテディのキャラメル色の顔と銀縁眼鏡の奥の笑った目、日本語を話す時の母語の時より半オクターヴ高くなった声が蘇った。
何故こんな時に思い出すんだろう。確かにハルとテディで似通った
こちらの思いをよそに幼馴染は傍らに置いていたグレーのリュックサックを開けて中から青いギフトフラワーを付けた小さな箱を取り出した。
「ミオ、お誕生日おめでとう」
「あら、どうもありがとう」
まるで代理のように礼を言ったのは隣に座る母だ。
やっぱり誕生日プレゼントだ。驚きや嬉しさより後ろめたさに襲われる。
自分は何も用意していない。
ここ数年、特に清海おばさんが亡くなってからはうちでクリスマスや二人の誕生日を一緒に祝うパーティをしてケーキを食べるくらいのことはしていたが、プレゼントのやり取りはいつの間にかしなくなっていた。
俺とお母さんは引っ越しを手伝ったなんて言ってもそこまで色々できたわけでもない。何より上京であれこれ出費の多かったはずのハルの家にこの時期に余分な散財をさせてしまったのが申し訳なかった。
「ありがとう」
とにかくここは笑顔で受け取らなくてはならない。
ハルのお祖母ちゃんもうちのお母さんも笑って眺めているし。
自分が決まり切ったリアクションしか許されていない芝居のキャラクターのように感じた。
同時にハルとの関わりでそんな本心を隠した振る舞いをするようになった自分に侘しさを覚える。
*****
「名前入りのUSBメモリーが作れるサービスを見つけたから、そこで作ってもらった」
「そうなんだ」
“Mio.N”
赤茶けたレザーのカバーには細字の筆記体で黒く印字されている。
「本当にありがとう」
こいつは俺が「美生子」という古臭い上にいかにも女らしい名前を嫌っているのを知っていて「ミオ」という呼び名の方で作ってくれたのだ。
そもそも装飾品ではなくUSBメモリのような実用的な物をくれたのも多分性別を意識せずに済む配慮からだろう。
「ハルのプレゼントは今度の土日にでも一緒に買いに行こう」
下腹部の鈍い痛みを感じていないフリをして笑顔で告げる。
「じゃ、欲しいもん考えとくよ」
満開の桜を透かした柔らかな陽射しを浴びながら、一足先に社会に出る幼馴染は曇りない笑顔で答えた。
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