第十九章:私とあなたのクリスマス――美生子十六歳の視点

“……Make my wish come true”

“All I want for Christmas is you, yeah.”

――シャン、シャン、シャン、シャン、シャン、ズズンズ、ズズズ……。

 プレイヤーからアカペラの後に鈴の鳴り響く間奏に続く曲が流れ出した。

「毎年、これがどっかの店で流れ出すともうクリスマスだなって思う」

 こちらの言葉にソファに腰掛けたハルも笑って頷く。

「定番だよね」

 マライヤ・キャリーの「恋人たちのクリスマス」。

 原題は“All I want for Christmas is you”、「クリスマスに欲しいのはあなただけ」だ。

 直訳だと一人称の文章になって日本語の感覚だとタイトルとしては長過ぎるせいか、「恋人たちのクリスマス」と三人称視点の体言止めに改変されている。

“I just want you for my own, more than you could ever know”

 実際の英語の歌詞をブックレットで見てもちょっと過剰なくらい“I”“you”、「私」「あなた」と当事者二人の目線が強調されている。

 これも主語や主体をよく省略する日本語というか日本人の感覚からすると、特に女性歌手のラブソングとしては違和感があるかもしれない。

「恋人たちのクリスマス、か」

 ぽつりと呟いたのは自分でなくハルの声だ。

 もう完全に大人の男の声に変わってしまったと思いつつ振り向くと、相手は膝の上に組んだ自分の手に目を落としていた。

 大きく節くれ立ったその手は少し離れて立つこちらの目にも赤く荒れていた。

「ハルの手、痛そうだね」

 テーブルの隅にある赤い薔薇のロゴが入ったピンク色のパッケージのハンドクリーム――さっきお母さんが塗ってそのままそこに置いた――を取って差し出す。

「良かったらこれ付ける?」

 相手は何だか表情を消した風な、どこか苛立ちを抑え込んだような顔つきでこちらを見上げた。

「俺も荒れやすいから付けてるけど良く効くよ」

 薔薇の匂いなんて男には付けづらいかもしれないが、これは飽くまでアカギレを治す為の塗り薬だし。

 頭の中で言い訳している自分を感じない訳ではないが、ハンドクリームくらいなら男も普通に使うものだという気もした。

「そうなんだ」

“Santa Claus won't make me happy, with a toy on Christmas day”

 歌姫ディーヴァの明るく楽しげだが厚みのある歌声が流れる中、ハルはコバルトブルーのフリース――今は家の中だしお客さんはハルだけだから下に窮屈なブラジャーは着けていない――に中学校時代の群青の体操着のズボンを履いた自分の姿を見詰める。

 相手はまだ新しいボタンシャツの上にクリスマスらしいエメラルド色のセーター、布地もまだ固い感じのジーンズを履いていた。

 俺ももうちょっとクリスマスパーティに相応しい格好にすれば良かったかな。

 そう思ったところでハンドクリームを差し出した手の首をガサついた大きな手に掴まれた。

「それ、うちのクラスの女の子も持ってるやつなんだけど」

 こちらの手首を捉えるハルの大きな手が一気にじっと汗ばんだ。

 それとも、自分の汗だろうか。フリースの奥の、ブラジャーに拘束されていない代わりに防護もされていないのままの胸が騒ぐ。

 相手は痛みをこらえるような面持ちでこちらを見下ろす。

「俺の前では無理して女のフリしなくていいんだよ?」

 問い掛けというより「するな」という懇願に響いた。

“I just want you for my own more than you could ever know”

「そんなんじゃねえ」

 敢えてぞんざいに答えてからそういう自分をわざとらしく感じて普通の口調で続ける。

「これ、俺のじゃなくてお母さんのだよ」

 “俺”という一人称を聞いたところでピッとハルの蒼白い顔に異物が捩じ込まれたような痛みが走った。いつものことなのに。

「ミオ」

“Make my wish come true”

 言い掛けたまま、こちらの手首を締め上げんばかりに掴んだ手がまたぬかるむように汗ばむ。

“All I want for Christmas is you, you baby”

 歌姫の張り上げる風な声が一瞬沈黙した二人の間に響き渡った。

「嫌なら無理して付けなくていいよ」

 痛いから放せ、と口には出来ないまま手首を引こうとするが相手は捉えて離さない。

 こちらを見詰める切れ長い瞳に光る物が宿って揺れた。

「ただいま」

 ケーキの箱を手にして、髪の所々に融けかけの雪の欠片を載せたお母さんが部屋に入ってくる。

 スルリと自分の手首を掴んでいたハルの手が嘘のように離れた――というより、力を失って外れた。

「外で小雪がちらついてる」

 白髪の混じった前髪を黒い革の手袋で拭いながら、微かに鼻を赤くした小麦色の顔を微笑ませる。

「ハル君は来る時大丈夫だった?」

「ああ」

 思わず二人ともレースカーテンの引かれたガラス戸に目をやるが、小花模様のレース越しにはすっかり暗くなったことしか分からない。

「大丈夫です」

 低く答えるハルの声が別人じみて聞こえる。

 振り向くと、相手はどこか安堵した風な面持ちでお母さんの方を向いて続けた。

「俺、ちょっと手痛いんでハンドクリーム塗ってもいいですか?」

――おばちゃん、これ使っていい?

 小さな頃からお馴染みの少し甘えた調子と表情だ。

 ハルは俺にはぎこちなくてもうちのお母さんに対しては昔のままの信頼が残っているのだ。

 そう見て取ると、秘密を抱えた自分がまた後ろめたくなった。

 ハルにとっての俺はもう気を遣わなくてはならない負担で、気のおけない兄弟、仲間ではないのだろうか。

「いいよ」

 お母さんは答えてから痛ましげな表情に変わる。

「随分荒れちゃったね。痛いでしょう」

 語りながら手袋を外すお母さんの手は荒れてはいないけれど、シミが浮き出て昔より老けてしまったと傍で見ていても判る。

「先週仕分けのバイトに手袋せずに行ったらすっかり荒れちゃって」

 苦笑いして語る幼なじみにハンドクリームを差し出すと、今度はあっさり受け取る。

「バイトしてるんだ」

 今、初めて聞いた話だ。

「単発で募集あったの見たからさ」

 ハルはどうということもない調子で答えると、クリームの蓋を外して中身を捻り出す。

「高校生も結構いるよ」

 話しながらアカギレした手の甲にクリームを広げると、人工的な薔薇の香りがさっと広がった。

 他人が塗っている傍にいると結構きつい匂いだと今更ながらに感じる。

「ハル君はちゃんと働いて偉いねえ」

 脱いだコートをハンガーに掛けるお母さんの背中がしみじみとした声を発した。

 俺がバイトすると言ったらお母さんは賛成するか?

 高二で国立文系を目指すクラスに入って今日だって予備校の冬期講習があったのに。

 そう思うが口には出せない。

 振り向いたお母さんはどこか寂しい笑いを浮かべて自分に告げる。

「シチューはもう作ったから準備手伝ってちょうだい」

「分かった」

「俺も何か手伝います」

 クリームを塗り込んだためにアカギレが却って浮き出て見えるハルも近付いてくる。

「今、ケーキ屋さんで新島にいじまさんに会ってね」

 椅子に掛けたエプロンを取って紐を結びながらお母さんは今度はからかう風な笑顔になる。

「新島君のお母さんもケーキ買いに来てたの?」

 母親同士が知り合いで、息子はハルと同じ梅苑に行ったようだが、自分にとっての新島君は「同じ中学の一つ下の学年にいた子で顔は知っている」という程度の間接的な間柄である。

「そう。で、そのノブヤ君がね」

 “ノブヤ”ってどういう字で書くんだったかな?

 それすら怪しい。

「今日は付き合ってる彼女と食事するからケーキだけは取っておいて、と言って出たんだって」

 お母さんは小麦色の丸い顔の顎を二重にしてコロコロと笑う。

「そうなんだ」

 まあ、高校生にもなればカップルになる子たちも増えるだろう。心と体に矛盾がなくて異性を好きになるというだけでそうでない場合よりも可能性は格段に拓けているのだ。

 隣のハルの強張った気配に気付いて振り向くと、相手は強いて笑った風な引きつった面持ちで告げる。

「新島君、うちのクラスのオキタさんて子と付き合ってるんだよ」

 沖田総司と同じ沖田おきたかな?

 頭の片隅で当たりを付ける自分をよそにハルは長い睫毛の目を伏せた。

「先を越されちゃったなあ」

 おどけた風な口調と裏腹に声には苦い侘びしさが滲む。

 もしかして、ハルはその同じクラスのオキタさんという女の子が好きだったのだろうか。

 それなのに、新島君に先を越されて付き合われてしまったのだろうか。

 自分がハルとは面識のない紗奈ちゃんを好きになったようにハルが自分の知らない相手を好きになっても別に不思議はないのだ。

 普段は学校だって違うのだし。

 自分たちはもう互いのあずかり知らない世界の方が広いのだろうか。

 そう思う内にもエメラルド色のセーターの大きな背中が遠ざかって、来た時にダイニングのテーブルの上に置いたデパートの紙袋を取り上げた。

「うちからはシャンパン持ってきました」

 改めて自分たち母子に振り返った顔は曇りなく笑っている。

「ノンアルコールだから皆で飲めるってお祖母ちゃんが」

「どうもありがとう」

 お母さんの言葉にハルは頷いた。

 取り敢えず、グラスを三人分出そう。食器棚の扉を開ける。

 今は自分たちは一緒にいるのだから、その時間を楽しく過ごすことだけを考えよう。

 お母さんの温め直したシチューの匂いがふんわりと漂ってくる。

“Last Chritmas I gave you my heart”

“But the very next day you gave it away”

 点けっぱなしのままのプレイヤーからはいつの間にか新たなクリスマスソングが流れ出していた。

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