第十五章:女と男の間――美生子十四歳の視点

「あれがハルのお父さん?」

 線香の匂いが漂う中、答えを知りつつも喪服の母親に耳打ちせずにいられない。

「そうだよ」

 短く答えたお母さんの眉根に皺を寄せた顔とくぐもった声には“不愉快だからいちいち話題にするな”という苛立ちと非難が滲んでいた。

 四十三歳で亡くなった清海おばさんの葬式に現れた元夫、つまり陽希の実の父親は、固く真っ直ぐな髪は殆ど真っ白で、皺の刻まれた小さな顔に銀縁眼鏡を描けた、中二の陽希のお父さんというよりお祖父さんに相応しい風貌をしていた。

 むろん、陽希の本当のお祖父さん――こちらは一人娘を亡くしたショックからか喪服を着た脱け殻のように虚ろな目付きで葬儀にやってくる客に機械的に頭を下げていた――と比べれば仕立ての良い喪服を着て背筋をきっちり伸ばした姿勢など十分に若々しくはあったが。

 おばさん、随分年上の人と結婚してたのかな?

 だからこそ合わなくて離婚しちゃったのかな。

 むろん、生前の清海おばさんは自分のような子供にそんな話をすることはなかった。

 だが、母親の固い面持ちからおばさんの元夫で陽希の実父であるあの男性が良く思われていないのは察せられる。

 ちょっと見る分には「品の良い老紳士」という感じの人だけど。

 固く真っ直ぐな髪質や腰高い長身などは遠目にも一見して息子の陽希に似ていた。

 喪服を隙なく着込んだ父親と夏用の白い半袖シャツの学生服を纏った息子はまるで互いが存在していないかのように離れた場所に座ってバラバラな方に目を向けている。

 そして、そんな風に二人とも横向き加減になると、父子は正面から見るよりもいっそう似通って見えるのだった。

 祭壇に飾られた清海おばさんの写真はそんな父子を含めた弔問客全員を見下ろしている。

 あれはいつ撮られたものなのだろう?

 死ぬ頃より明らかにずっと若いおばさん(という呼び方もそぐわなく感じるほど若々しい)はまるで解き放たれたように晴れやかに微笑んでいる。

 自分の知る清海おばさんははっきり言って気難しげな、息子のハルに対してもどこか寄せ付けない底冷たさすら見える人であった。

 それが母親になる前――としか思えないほど写真の面影は若い――はこんな笑顔を見せる人だったのだ。

 小さな頃から日常的に顔を合わせてきた相手だったけれど、改めて思い出すと、自分はこの人について何を知っていたのだろう。敢えて知ろうとすらしてこなかった。

 そう思い至ると、白い夏物のセーラー服を着て弔問客に紛れ込んでいる自分が酷く白々しく感じられてきた。

 線香の匂いが思い出したように鼻先に蘇って胸を締め付けた。

 俺なんか普段は信心深い人間でもないのに何で神妙そうな顔して座ってんだろう。

 こちらの思いをよそにマイクを通した声が響いてくる。

「お集まりいただいた皆さん、どうもありがとうございます」

 生きた人間たちは粛々と自分たちのセレモニーを消化していくのだ。


*****

「ミオコちゃんてこういう子なんだね」

 食事を終えて何となく年の近い同士で集まると、今日初めて顔を合わせたハルの再従兄(お母さん同士が従姉妹らしい)のマサキ君は陽に焼けた顔に驚きを浮かべると、どこか戸惑った風に続けた。

「もっと男みたいな子かと思った」

 陽希とさして変わらぬ長身の眼差しがハーフアップの髪を垂らした自分の顔から夏服の突き出た胸の辺りに注がれるのを感じる。

 お前なんか当たり前に女だろ、と言われた気がした。

 こちらより頭一つ分背の高い学ランの二人に対して、白いセーラー服に紺のプリーツスカートを履いた自分がまた場違いな偽物に思えてくる。

 まだ中学生の自分たちは大人のような喪服の代わりに学生服を着ているけれど、これが既に“生まれついての男です”“女です”と宣言する形に分かれているのだ。

 ブラジャーの胸下を締め付ける息苦しい感じが蘇った。

 白い夏服でも透けないようにベージュのブラジャーを着けているけれど、他の二人はそもそもこんな暑苦しい拘束具じみた下着をつける必要自体がないのだ。

 月五日間、股から血が出ることもないし。

「性格が男だから」

 答えたのは自分ではなく苦笑いしたハルだった。

 何だかこの二、三日で頬がひとへら削げて顔色も悪くなったみたい。

 折り合いが良くなかったにせよ、やっぱりたった一人のお母さんが亡くなったのは辛いのだ。

 清海おばさんはシングルマザーで苦労しながら一人息子を育ててまだ四十代も前半で逝ってしまった。本人だってこんな形で死にたくはなかっただろう。

「ママー、あのおじいちゃん、タバコすってるよ」

 不意に幼い声が響き渡った。

 振り向くと、葬式用に急遽買ったらしい真新しい黒のワンピースを着て黒いゴムできっちりお下げ髪に結った四、五歳の女の子が指差している。

 あれは確かマサキ君の妹のシノちゃんだ。

 小さな手が指し示す先では白髪の陽希の父親が所在無げに煙草を燻らせている。

 いとけない声で“おじいちゃん”と呼ばれた銀縁眼鏡の奥の目に一瞬、険しい光が走った。

「パパはマサくんが生まれる前にタバコやめたんでしょ」

「いいんだよ」

 無邪気に語る幼い娘をまだ四十半ばらしい髪も黒々とした喪服の父親は慌ただしく抱き上げて出ていく。

 白髪の紳士は苦々しく煙草の先を備え付けの灰皿に押し当てた。

「昔は吸ってましたっけ」

 雛人形じみた目鼻立ちは清海おばさんに似た、しかし、体型はもう少しふくよかなタカミ伯母さん(とハルは呼んでいた)は穏やかだが寂しいものを含んだ声で尋ねる。

「ストレスが多いもんですから」

 故人の元夫は銀縁眼鏡のレンズを一瞬サッと光らせると小さな唇を歪めて笑った。

 嫌なじいさん。

 微かにこちらにまで流れて纏わりついてくる紫煙の臭いを吸い込みながら、それまで胸の奥に曖昧に堆積していて何となく自分でも認めるのを避けていた相手への感情がはっきりと嫌悪や反発の形に固まるのを覚えた。

 十数年も前に離婚した元妻の葬式に来てその身内に囲まれて過ごす今の時間がこの人にとって心楽しい訳がない。

 それは中学生の自分にも察せられる。

 だが、この外様とざまの弔問客からはどこか開き直った、ふてぶてしい、周囲を侮る傲慢さが透けて見える気がした。

 側の二人を見やると、マサキ君は日焼けた顔に明らかに不快げな――この子は好意でも嫌悪でものままに出せるたちなのだろう、そして、ハルは蒼白い顔にどこか虚ろな眼差しでこの初見の縁者を見詰めている。

「吸う人でも子供が出来ると大体はやめますけどね」

 低く刺すような声に驚いて振り向くとお母さんが全体に表情を消した顔つきで、しかし底に鋭さを含んだ視線を向けていた。

「自分優先の人はストレスだ何だと理由付けて結局やめない」

 相手は薄く小さな唇を含み笑いの形にしたまま、銀縁眼鏡の奥の鋭い目――彫りの深い、一見するとどこか白人ダブルめいた印象の目だが不機嫌な色を帯びると三白眼気味になるようだ――で喪服姿の母親と白い夏のセーラー服の自分を交互に見やった。

――こいつらは母娘だな。顔も体つきも似ている。

 そんな心の声が聞こえるような気がした。

 俺とお母さんは大きな丸い目も天パの髪も突き出た胸も似通っているから。

 そう思うと、カッと顔が熱くなって夏服の下のブラジャーがまた胸を締め付ける感じが蘇った。

「ヨウコさん、でしたっけ」

 清海おばさんの夫だった客は髪の白い小さな頭をわざとらしく傾げる。

――お前ごときの名前なんか覚えているわけないだろ。

 薄ら笑いした顔つきと所作にそんな挑発と侮りが込められている気がした。

 帰れよ、この白髪ジジイ。

 喉元まで駆け上がってきた罵詈をグッとこらえる。

「死んだ彼女がどう言ってたか知りませんけど、こっちはある日突然置いてけぼりですよ」

 隣に立つハルの白い半袖シャツの背がビクリと強張るのが空気で伝わった。

 紫煙に混じって部屋全体にうっすら漂う線香の匂いが鼻先に浮かび上がってきて胸の奥が痛んだ。

「その前にも一度流産して、仕事も辞めて引きこもってたんです」

 ふっと息を吐いて吸い殻と灰で半ば埋まった皿を見下ろして語る声は酷く苦いものを含んでいる。

「不安定で大変でした」

 彫り深い三白眼気味の目は伏せると酷く沈鬱に見えた。

 子供の目にも神経質な雰囲気だった清海おばさんのこの話は少なくとも本当なのだろうし、このお爺さんも結婚中はそこに苦しんだのかもしれない。

 そう思ったところでまたせせら笑う風に小さな薄い唇が歪んだ。

「僕に他に女性がいると騒いでパソコンやら勝手に開いて見たり」

 あはは、と乾いた声で嗤う。

 笑ったために余計にひび割れたような皺の目立つ顔に一瞬、酷く淫らな表情が通り過ぎた。

 ゾワッとセーラー服の背筋に悪寒が走る。

 こいつはやっている。それで清海おばさんもおかしくなったんだろう。

「それでいきなり出ていって、お腹の子は自分だけで育てるからと」

 こちらの思いをよそに故人の前夫はまた表情に元の端正さと品の良さを取り戻すと、新たに取り出した煙草にカチリと火を点けて吸った。

「女性は強いから」

 やれやれ、といった調子で紫煙を吐き出す。

 靄が懸かると皺が消し飛んでハルに良く似た中高い面輪が浮かび上がった。

「女に面倒事を押し付ける人はそう言いますね」

 表情を消したために顔が小麦色の仮面じみて見えるお母さんは押し殺した声で言い放つ。

 ピシリと辺りの空気が凍り付いた。

 さっと隣から線香の匂いが駆け抜ける。

「ハル」

 呼び掛けたまま茫然と立ち止まっているマサキ君を尻目に足が勝手に駆け出した。

 お下げのシノちゃんを抱きかかえて戻ってきた伯父さんと入れ替わる格好で外に出る。

 線香の匂いがそこはかとなく漂う屋内から外に出ると、ムアッと一気に蒸し暑い空気に包まれ、カッと八月も末の陽射しが照り付けた。

 乾き切って加熱したアスファルトの臭気が足元から立ち上ってくる。

 陽希の白いシャツの背は残像を引きながら駆けていく。

 そうだ、こんな暑苦しい上に動きづらい制服を着ているけれど、今日はまだ夏休みだった。

 滲み出た汗で首筋に纏わり付いた髪の毛を払いのけ、ごわついたプリーツスカートを腿で蹴り上げながら今更のように思い出す。

 清海おばさんは台風の吹き荒れる日に亡くなって、こんな暑い晴れ空の日に葬られるのだ。

 そして、もうすぐ骨と灰にされてしまう。

 死に化粧を施されて仄かに微笑んで見える白蝋じみた死に顔、まだ若い遺影の晴れやかな笑顔、そして、子供の自分がよく目にした、笑っていてもどこか醒めた切れ長い瞳の蒼白い面が次々浮かんで消える。

――これ、男の子のだよ?

――やっぱり、女の子の方が着物もお洋服も華やかだから。

 おばさんが本当に欲しかったのは凛々しく刀を構える息子でも華やかに着飾らせた娘でもなかったように思えるのは何故だろう。

 ジリジリとハーフアップの結び目の辺りに晩夏の陽射しが照り付ける。

 視野の中で白紙のノートの頁じみた陽希の制服の背が立ち止まる。

「ハル」

 耳に響く自分の声は妙にくぐもって陰鬱に聞こえた。

 これじゃ、駄目だ。舌打ちしたくなるのを堪える。

 もっと、余裕のある温かな声でなければ余計にハルは気が滅入ってしまう。

 相手はゆっくりと表情のない顔を振り向けた。そんな風に動作が加わると、中学生にしては広くなった肩や太く長いくびが目立つ。

 それを目にするこちらはいっそう胸の内が暗くなった。

 こいつは当たり前に男の体として育っているのに、俺は女の体だ。

 ザワザワと熱を孕んだ風が木々の枝を揺らす音がして、緑と湿った土の匂いが二人の間に立ち込めた。

「まあ、父親なんて言ったってずっと会ったこともない人だし、始めから期待はしてなかったよ」

 まだ緑の深い葉の繁る木の下で、頬が一へら削げて何だか自分より四、五歳くらい上に見えるハルは表情の消えた面持ちのまま乾いた声で続ける。

「お母さんはお父さんの話なんか一回もしなかったし」

 まるで会ったことのない人について話すようにお母さん、お父さんと語る。

 俺にとってのお父さんお母さんとハルにとっての清海おばさんやあの爺さんは端から位置付けが違うのだ。

 前々から知っていたはずのことだが、それが今になって自分たちの間に突如として度しがたい溝として横たわったように思えた。

 ざわめく風の中で、ふっと自分を見下ろす蒼白い顔がどこか諦めた風に苦笑いする。

「俺、あの爺さんに似てるかな?」

 固く真っ直ぐな髪、中高い小さな顔、腰高い長身。

 否定したくてもこれは父親からの遺伝だ。

 だが、この切れの長い、二重瞼の切れ込みが深過ぎて疲れた時にはうっすら三重になる、いつもどこか寂しげな目は清海おばさん譲りだ。

「全っ然」

 セーラー服の半袖から抜き出た腕を自分の顔の前で大きく振ると、相手は寂しい目の奥を潤ませて削げた頬を崩して笑った。

 実際のところ、母親に似ていると言われてもこいつにはまた別な苦しみがあるのではないか。

 おぼろげにそう察せられるのが、それに対して何も出来ない自分がいかにも非力に思えた。

「戻ろっか」

 問い掛けで選択の余地を残す形で切り出す。

「戻ろう」

 相手から歩き出した。

 葬儀所の入り口ではいつの間に来たのかお母さんが立っていた。


*****

「あの旦那さんも今日は来てたのかい」

 お父さんは焼き鳥を摘まみながら――葬儀の後、疲れ切った様子のお母さんは今日は夕飯を作る気力もないのかスーパーで弁当や惣菜を買って帰宅した――やや意外そうに答えた。

「多分、ハル君の今後の相談もあるから呼ばれたんでしょうね」

 お母さんはクーラーを点けるために窓も締め切った家の中なのにまるで聞き付けられるのを恐れるように抑えた声で語ると、冷ややかな笑いを浮かべた。

「髪も真っ白で最初どこのお爺さんかと思ったわ」

「まだ、そんな年じゃないはずだけどな」

 お父さんの方は缶ビールを流し込みながら曖昧な記憶を探る顔つきになる。

「キヨは一つ上だと言ってた」

 キヨ、と口にするお母さんの目にまた痛ましいものが走った。

「俺もあの人が清海さんの家に挨拶に来た時に一回しか会ったことないけど、昔は男前だったじゃないか」

 少し酔いの回り始めたお父さんは陽希の実父の取り澄ました表情や仕草を真似る。

 やめろよ。

 喉元まで言葉が出掛かった所でお母さんの刺すような声が走った。

「本人もそう思ってたでしょうね」

 普段着に戻ってもまだ微かに線香の匂いのするお母さんは苦々しく付け加える。

「ああいう人は早く老けるの」

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