第九章:女形の涙――美生子九歳の視点

「鉱物コレクション、届いた!」

 通信添削のポイントを溜めてゲットした景品。

 どの石だろう?

 見本にあった紫水晶? 鮮やかな朱色の瑪瑙めのう?

「あれ?」

 小さなプラスチックケースに入っていたのは、鋭い菱形に切り出されたやや白い半透明の欠片だ。

透明方解石とうめいほうかいせきだって」

 それらしい小難しい名が付けられてはいるものの、割れた窓ガラスの欠片にしか見えない。

――パカッ。

 プラスチックケースを開けて取り出してみる。

 表面も側面もひんやりと滑らかな感触で、いよいよ窓ガラスの欠片に思える。

 これ、本当に天然の鉱物かな?

 少なくともこんな綺麗な菱形に切り出されているのは自然の結果でないと小四になったばかりの子供の目にも察せられる。

「何でこれなんだろ」

 見本にあるような色鮮やかな有名どころの石はもう先に申し込んだ子たちに行って、自分には余り物の地味な物しか来ないのだろうか。

 交換に必要なポイント数は一緒なのに。

 それとも、これも大人の学者が見れば紫水晶や瑪瑙と同じくらいの価値があるのだろうか。

 手にした欠片を陽に透かすと白い筋めいた模様が浮かび上がる。

 何だか製氷パックで作った氷みたいだ。指で持っていて溶けては来ないけど。

 とにかくせっかく手に入れた鉱物コレクションの第一号なので学習机の引き出しに仕舞い、今月号の通信添削テキストの続きを始める。

――土日は習い事や学校の宿題が無い代わりに通信添削のテキストをまとめて進めること(学校から出た宿題は金曜日の夜の内に終わらせなければならない)。

 これがお母さんとの約束だ。破ったら好きなバレエは辞める、ポイント交換で貰える景品も自分で選べない、というのだ。

「きついなあ」

 約束を守って希望の景品に申し込んでも、今日みたいな肩すかしを食らうこともあるのに。

 頬杖をついてぼやいた胸の内に陽希の俯いた寂しい目が蘇る。

――高いからうちはそういうの取ってない。

 直接書き込むテキストは無理だが、付録の理科の副読本や漢字のマンガ辞典等は学年の変わり目に陽希に譲っている。

 仕切り直しのつもりで丸まった鉛筆の先をピンクの電動鉛筆削りの小さな黒い穴に差し込む。

――カガガガガガ……。

 ハルのためにもとにかく滞りなく勉強を続けなくてはいけない。

 何だかんだで自分の方が恵まれているのだから。

 改めて見直せば、白塗りの学習机の棚には学校の教科書、ノート、通信添削のテキストに加えて、今まで買ってもらった図鑑や歴史漫画が並んでいる。

 机の上には自分で選んだ藍色のシートを敷いた。この鉛筆も文房具屋で自ら選んだので水色だ。

 お母さんが買ってきた電動鉛筆削りだけが隅っこにピンク色で鎮座している。


 *****

「テキスト、国語は全部終わったよ」

 リビングのドアを開けて甘いコーヒーの香りがフワリと押し寄せるのを感じながら告げる。

 算数はまだ習っていない所をやり残したが、出来た所だけを伝えるのが土日の習慣になった。

「うん、分かった」

 コーヒーカップを手にした母親は穏やかに答えつつもテレビの画面に観入っている。

 そこに大写しになった、古い中華風の出で立ちで、歌舞伎の隈取りに似てもっと艶やかな、桃色を基調にした化粧を施した女形の面影に釘付けになった。

 何て綺麗な人だろう。


 *****

「覇王別姫」という途中から観た映画は少し難しい所もあったが、幼い頃に京劇(北京に伝わる中国の伝統演劇)の女形になった孤児の主人公を巡る悲劇だとは理解出来た。

 体は男性なのに女性を演じることを子供時代から強いられ続けた主人公はいつしか自分の性別の認識が曖昧になり、一緒に育って舞台では夫婦役を演じる兄弟子に恋心を抱くようになる(そもそも『覇王別姫』とは京劇の有名な演目であり、劇中では主人公が虞姫、兄弟子が項羽を演じて当たりを取っている設定である)。

 しかし、兄弟子の方では飽くまで主人公を弟としか見ておらず、妓楼で見初めた娼婦と結婚する。

 主人公はこの兄弟子の妻になった元娼婦を敵視し、三人は愛憎の絡む間柄になる。

 やがて文化大革命という中国全土を揺るがす政変が起き、旧中国の伝統文化を担う京劇俳優たちは迫害され、三人は公衆の面前で互いの過去を暴露して攻撃し合う。

 娼婦だった過去を主人公から暴かれ、夫からも

「こんな女は愛していない。今日限り縁を切る」   

 裏切られた嫂は自ら命を絶った。

 数年後、老境を迎えた主人公と兄弟子は再び舞台で「覇王別姫」を演じるべく再会する。

 兄弟子とのやり取りで「自分は女ではない」と悟った主人公は劇中の虞姫に自分を準えるようにして死を選ぶ。

 主人公を演じる俳優は京劇の化粧を施した時には艶やかな、素顔の時には清く柔らかな美しさがあり、そこに性別を越えたというか、むしろ両性具有的な魅力が感じられた。

 色に例えれば、京劇の化粧を施した顔にはあかや桃色、素顔には白や透明の麗しさがあった。

 ふと引き出しに仕舞った透明方解石を思い出した。

 この主人公の素顔にはそんな色の着かない、生成りの清らかさがあるのだ。

 そう思うと、何故か引き出しの奥の鉱物までが急に価値ある物に感じられてきた。

 さっきまではつまらないと思っていたのに。

「レスリー・チャンも死んだな」

 お父さんがぽつりと呟いた。

「あの主役の人はレスリー・チャンていうの?」

 名前も何だか中性的だと感じる一方で、まだそんなに古い映画でもなさそうなのにあの魅惑的な主人公はもう世に亡いのだという現実が新たに胸に刺さる。

「美人薄命」という言葉がさっと頭を過った。あの俳優さんは男だけど「美しい人」には違いないから正にこの形容に相応しい。

 こちらを振り向いたお母さんも寂しく笑って頷いた。

「そう。香港の有名な俳優さんだったけどジサツしちゃった」

 ジサツ、という響きが一瞬、間を置いて「自殺」に変換される。

 刀を首に当てる艶やかな化粧を施した主人公の思い詰めた眼差しが浮かんだ。

 実際の俳優さんは映画と同じ死に方ではないかもしれないけれど、それでも自ら死を選んだのだ。

「あれ、実際もホモだったんだよね」

 お父さんは苦いものを含んだ笑いを浮かべている。

「ホモって言っちゃいけないんだよ」

 自分でも驚くほど刺々しい声が出た。

「それ、差別用語だから」

 お父さんお母さんには言えないけど、自分も体は女なのに男としか思えないし、好きになるのも女の子だ。

 普通の人からは「オナベ」とか「レズ」とか差別用語で呼ばれる側の人間なんだ。

 頭の上に思い出したように突っ張る痛みを覚えてハーフアップの髪を解く。

 パサリと顔の脇に伸ばした髪が垂れた。

 本当は邪魔っけだけど、バレエを習ってるし、何より「女の子」としてこの髪を切る訳にはいかない。

 あんなに綺麗で有名スターだった人ですら結局は自殺して、死んだ後も「あれはホモだった」と嗤われるんだ。

 自分みたいな平凡な人間なんか「オナベ」「レズ」と周りに知られたらもっと悲惨なことになるんだろう。

 目の前がじわりと熱く滲んだ。

「ミオちゃんもココアでも飲もうか?」

 甘いコーヒーの残り香が漂う中、母親は優しく「娘」の背を擦る。

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