第二章:七夕の二人――清海《きよみ》の視点

「こちらが本気で離婚するとなったら、自分はやり直したかったのにお前が勝手に出て行って生まれた息子にも会わせてくれないとか言い出して」

 日陰でも蒸し暑い公園のベンチで話しながら自分でもうんざりするが、それが他ならぬ私の結婚生活の顛末なのだ。

「つくづく自分のことしか頭にない人だった。そういう男を選んだ私が一番馬鹿なんだろうけど」

 他人の話として聞けば、私だってそんな得手勝手な男を選んだ女こそ見る目のない馬鹿だと思う。

「運が悪かっただけだよ」

 彼女は寂しく笑ってこちらの背を優しく撫でる。

 昔からそうだ。

 愚痴を溢すのは私で、慰めてくれるのは彼女。

 自分が男なら彼女と結婚して良い夫婦になれた気がする。

「今日は七夕だね」

 彼女はふと思い出した風に話題を変える。

「そうだね」

 天の川で分け隔てられた夫婦が一晩だけは会うことを許された日だ。

 彼らの短い逢瀬に託つけて地上の人間が自分の願いを表す日でもある。

「せっかくうちの母が笹飾りくれたのに美生子がむしっちゃって」

 彼女は砂場で遊んでいる二人の一歳児を笑って見入る。

 ピンクのワンピースを纏った美生子ちゃんも、水色の半袖半ズボンを着た陽希も、まるでどちらも我が子であるかのように。

 何と温かな眼差しだろう。

 しかし、こちらの心には墨を落としたように暗いものが広がっていくのだ。

 あれも二年前の七夕の晩だった。

“今日も遅くなる。先に寝てて”

 本来なら夫の会社の終業時刻にその日も同じ文面のメールを受け取った。

 一人分の冷凍パスタ(その頃には平日の夕食と言えば一人分のレトルト食品を食べるか、チョコレートでお茶を濁すかという感じだった)を食べ終えた私は、意を決して寝室の夫のパソコンを起動させていた。

 毎晩遅く帰ってきて翌朝こちらに洗濯させるワイシャツにあからさまな口紅の跡などは無くてもうっすらと女性向けの化粧品やデオドラントスプレーの匂いがするようになった。

 そして、とうとうその前の晩には、ダブルベッドで既に寝入っていた自分の横に寝転がった夫の髪からはうちのものでないシャンプーの香りがした。

 暗い寝室の中で軽くぶつかられたために目を覚ましてしまった私ははっきりとその匂いを嗅いだのだ。

「ああ、ごめん」

 夫はほろ酔い加減と分かる口調で告げると、謝罪よりは苛立ちを滲ませた声で続けた。

「起こしちゃったな」

 それからは夏の夜の暗闇の中で二人とも黙っていたが、こちらはひたすら震えて眠るどころではなかった。

 夫が休日はほぼずっと見ているパソコンを開いて覗くまで、私は「浮気」「不倫」といってもごく一般的な一対一の恋愛をイメージしていた。

 会社の若い女の子とか仕事関係で知り合った女性とかいう繋がりの相手と付き合って、彼女と会えない土日も恋愛的なやり取りをしているような想像だ。

――あいつとはそろそろ離婚の話をするよ。俺が一緒にいたいのは君なんだから。

 顔の見えない女性と抱き合って語る彼の姿を想像すると、胸に突き刺さるような痛みを覚えた。

 まだ結婚して二年なのに、自分がもうパートナーの中では鼻についた、他の女性と替えるべき存在にまで引き下げられたのだと考えるのはやりきれなかった。

 とにかく、全ては彼の意中の女性が誰かを把握してからだ。

 そんな思いであの薄べったいノートパソコンを開いたのだった。

 起動したパソコンのトップでまず目に入ったのは黄色いファイルのアイコンだった。

 名前には“files”とだけあるのだが、その無機質なネーミングに却って引っ掛かるものを感じた。

 クリックして出てきた画像の群れに背筋が凍り付いた。

 そこにあられもない姿で映っている女性は一人だけではなかった。

 大半は当時二十八歳だった私より少し若いくらいだが、顔や体型からしてまだ中高生ではないかと思われる少女も混ざっていた。

 行為中を隠し撮りしたものと思われる動画のファイルもあった。

“ほら、もっとよく見せて”

 確実に夫のものと分かる声を耳にした瞬間、胃の中が激しく逆流するような感覚を覚えて寝室を飛び出した。

 トイレで全部吐き出して胃の中が空っぽになっても、まだ吐き足りないような感じが消えなかった。

 トイレの壁にもたれてうずくまっていると、両の頬を生暖かい、しかし流れた後はひやりと冷たい滴が伝い落ちていく。

 自分はどうやら泣いているらしい。

 それからどのくらい時間が経っただろうか。

 トイレの壁にもたれたまま、ぼんやりとこれからを考えていた。

 明日の朝一番に役所に行って離婚届をもらってこよう、自分が記入できる分は書いて印を押してダイニングのテーブルにでも置いてこのマンションの部屋を出よう。

 きっとあの人もあっさり印を押して役所に出してくれて、それでもう離婚成立だ。今だって彼の中では既に他人だろう。

 明日は午前中にお金とカード、通帳と保険証の他は二、三日分の衣類だけボストンバッグに入れて新幹線で実家に帰ろう。

 この部屋から私の荷物を引っ越す作業はその後おいおいやればいい。

 大体家具なんて殆どはあの人のお金で買った物だし、今となっては執着するほどの物もないのだ。

 自分一人が出ていけば大抵のことは済む話だ。

 半年前に流産して体調が思わしくなくなってから仕事も辞めてしまったし、この街に居続ける必要などもうないのだと思い当たる。

 離婚したら、これからどうしよう?

 実家の辺りではまともな職もないだろう。そもそも「バツイチ」「出戻り」の女なんてそれだけで白い目で見られるような田舎だし。

 それとも、あの人の不倫が理由での離婚だから法律事務所にでも行って慰謝料請求でもすべきかな?

 でも、もう、不倫の証拠としてもあんなおぞましい画像や動画をもう一度目にしたくないし、第三者にも見せたくない。

 というより、自分があの撮られた女の子たちで他人に観られたと知ったら死にたくなる。

 あれはきっと出会い系サイトの類いで知り合った、一夜限りの相手だ。

 彼女らの方では夫の素性はおろか既婚者だということすら把握していなかったのではないか。

 だとすれば、あんなあられもない姿を記録に残されて私に見られた彼女らもある意味では被害者ということになる。

 中高生らしい女の子にはいわゆる援助交際として端金を渡した上でオモチャにしていたのだろうか。

 考えれば考えるほど、嫌悪感が湧き出てくる。

――ガチャガチャ。

 玄関からの鍵を開ける音で思わずビクリと壁から身を起こした。

 いや、まだ夜の遅くにはなってないはずだ。何故今日に限って早く帰ってくる?

 ギーッとドアを開ける音が響いてきた。

「ただいま」

 いつも通りの、苛立ちや不機嫌の滲まない夫の声だ。

 その時、強く沸き起こったのはそれまで募らせていた嫌悪ではなく得体の知れない恐怖だった。

 どんな顔をして夫を出迎えればいいのだ。最初に何から言えばいいのだ。

 まるで自分の方が不倫の現場に踏み込まれた妻のように立ち上がったまま行くも戻るも出来ずにうろたえる。

「雨凄いし、やっぱり早く上がったから帰ってきたよ」

 廊下から夫の足音と声が近付いてくる。

「何か食うもんある?」

 開けっ放しのトイレのドアから顔を合わせた瞬間の夫はさりげなく微笑んでいた。

 こちらが答えるよりも前に、相手の笑顔が消えた。

 食べた物を全て吐き出して真っ青になった、両の頬に涙の跡を着けた妻の顔を目にして察するものがあったのだろう。

 雨に濡れた夫の黒い短髪の頭が振り向くと、寝室のドアが開けっ放しのまま、廊下にはまるで出迎えるようにルームライトが漏れていた。

 冷え冷えとした空気が向かい合った二人の足元を浸していく。

 そうだ、寝室のエアコンを点けっぱなしだったと今更ながら思い出す。

 無言でノロノロと引き寄せられるように夫の濡れて半ば貼り付いたワイシャツの背中が寝室に吸い込まれていくのを私は成す術もなく見詰めていた。

 バン!

 破裂するような音が響いてきた。

 再びノロノロと寝室から出てきた夫は無表情な、しかし、血の気が引いて蒼白い仮面じみた顔色になっていた。

 こちらと目が合うと急に早足でこちらに突進してきた。

 殺気というのはあの時の彼の眼差しに漂っていたような空気を言うのだろう。

「ごめんなさい」

 掴みかかられる前にがくりと両膝をついて首を締め上げられないように両手を顎の下にかざす。

「毎晩、他の人に会ってるんだと思うと辛かったから」

 ボカスカ殴る蹴るされるか、首を締め上げられる場面が浮かんできて涙がボロボロこぼれてくる。

「あなたはもう私とは別れたいんだろうと思うとやりきれなかったから」

 相手は青ざめた顔のまま、しかし、まだ険しい眼差しで卑屈な態勢を取ったこちらを見下ろしている。

「本当にごめんなさい」

 何故、自分が謝らせられるのか。

 どこか冷静な頭で思いつつ、ひたいを床に着ける。

「もう二度と探ったりしないから」

 破廉恥な不貞行為を働いているのは彼の方なのに。

 それがばれて逆ギレしている二重に暴虐な態度なのに。

 法律に照らし合わせれば非があるとしてお金を払わなくてはいけないのはこちらではなく相手の方なのに。

 しかし、二人きりの密室で怒り狂った男にそんな正論を説いても女が身を守る何の役にも立たないのだ。

 しばらくして、頭の遥か上からフーッと息を吐く音が聞こえてきた。

「馬鹿だな、お前は」

 相手も屈み込んだらしく、頭のすぐ上で声がした。

 少なくとも殺気だった調子ではない。

 ホッとする一方、そういう相手の顔色を窺う意気地のない自分に屈辱感が燻り始めるのを覚えながら、顔を上げる。

 再び眼差しを合わせた相手の顔は青ざめた怒りが消えた代わりに、嘲り笑うような、酷く淫猥な笑いを浮かべていた。

 濡れて貼り付いたワイシャツの手がこちらの部屋着の二の腕を掴む。

「寂しかったんだね、キヨちゃんは?」

 私の名は清海きよみだが、これは一つ上の彼が知り合ってから付き合い出す辺りまで呼んでいた名前だ。

 それから後のことは途切れ途切れにしか思い出せない。

 ダブルベッドの端に転がった、壊れた画面が開かれたままのノートパソコン。

 全部脱がされた体には肌が粟立つほど冷え切った密室の空気(元夫はとにかく暑がりで家中の、特に寝室のエアコンの冷房は私が心地好く感じる温度よりいつも数度低く設定されていた)。

 のしかかって体を揉みくちゃにしてくる相手の姿を極力視野に入れたくなくて瞼を固く閉じていた。

 しかし、彼の指に触れられた部分の肉が腐って蛆虫が涌いてくる映像が瞼の裏に繰り返し浮かんできて叫び出しそうになるのを歯を食い縛ってこらえる。

 新しいシーツと枕カバーに替えたばかりのベッドの上にはもう他所のシャンプーや私のものでない化粧品やデオドラントスプレーの香りはしない代わりに、相手が朝出たきり洗い流していない整髪料や汗の匂いがして噎せ返るような気がした。

 耳にはエアコンの規則正しく運転する音と雨がバラバラとガラス戸を叩く音がどこか遠く響いてきた。

 きっと、この人、大雨で今夜会う約束の女性とはおじゃんになったから、急に早く帰ってきたんだ。

 そして、全てを察した妻に逆ギレした挙げ句、こちらの本当の気持ちなどまるで無視して身勝手な欲求の捌け口にしてくる。

 二人きりの密室で生殺与奪を握られている自分には嫌でも逆らえない。

 それを知っていて玩弄してくる。

 結婚など売春だ。男からお金と命を握られて、自分の言いなりになって喜ばせなければ、他の女に替えるぞ、寒空の下に追い出すぞ、捻り殺すことも出来るのだと屈従を強いられる。少なくとも、私とこの人の関係性はそのようなものでしかない。

 もう吐けないのに吐き気が襲ってきて空っぽの胃にキリキリするような痛みを覚える。

 固く閉じた瞼からまた新たに溢れ落ちた涙を見られたくなくて顔を横に向けると、追うように耳元で相手の声が纏わりつく。

「ほら、もっとどうして欲しいのか言ってごらん」

 お前なんか死ね。地獄に落ちろ。

 その翌朝早く、脱ぎ散らかした服もそのままでダブルベッドの真ん中で呑気に寝入っている夫を残して家を出た。

 普段買い物に行く時のバッグにお金と保険証とカード類だけ入れた、最低限の荷物だ。

 本当は体を良く洗って出たかったが、夫が物音で起きてくる事態をとにかく回避するために最大限早く脱出することを優先したのだ。

 まだ灯りも点いていないマンションのロビーを通り抜ける時に大きな笹飾りを目にして、そうだ、昨夜は七夕だったと思い出した。

 クリスマスと違ってひたすら自分の現実に溺れている大人二人きりの家庭だったのですっかり忘れていた。

 朝日を背にして影になった笹飾りは何だか置き去りにされた花嫁のように見えた。

 色とりどりの短冊や飾りを着けて華やかに装っているけれど、一夜明けた今日の昼間にはゴミ捨て場行き。

 自動ドアの外に出ると、嵐から晴れ上がった朝の街からムワッと纏わりつくような蒸し暑い空気が押し寄せた。

 故郷に帰るというより夫のいる所からひたすら遠くに逃げたい気持ちでまだ人影も疎らな道を駅に走った。

 何とか実家に帰り着いたが、そこも安住の地ではなかった。

 洋亮ようすけさん(これが元夫の名だ。ごく一般的な名前だし、字面も悪くはないのだが、今となっては忌まわしさしか感じない)が複数の女性と浮気していた、本人は逆ギレして開き直るだけ、自分としても不信や嫌悪を覚えてしまいもう一緒に暮らすのは無理だと感じた。

 本当に目にして、されて、おぞましかったことは言えないまま両親にはそんな風に話したのだが、二人にはわずか二年で逃げ帰って離婚しようとしている娘が憐れむべき保護の対象より叱責すべき軽率で浅はかな困り者としか映らなかったようだ。

――離婚してこれからどうするのか?

 近場で適当な仕事を見つけて働くというのが正解なのだろうが、正直、今は何もしたくない。

――半年前まであの人の子供を産むと笑って話していただろうが。

 半年前はあの人の本性を知らなかったからとしか言いようがない。

――あんなに高いホテルで結婚式挙げて、皆にお祝いしてもらって、それで二年ばっかりで別れたなんて人、身内には誰もいないよ。

 式場を決めたのはあの人の意向だし、何年経ったら別れてもいいの? 十年? 二十年? 身内の顔色を窺う内に一生が終わりそう。

――正直、旦那から浮気されるような人は、本人も可愛げがなかったりして嫌われる人だから。

 だから、私が我慢しろと?

――男の人は若い内は一回、二回間違いがあるもんなんだから、すぐに離婚なんて早まらないでもっと良く考えなさい。

 もし、不倫を働いたのが私なら、こんな風に庇われるだろうか。

 夫からもメールが来た(電話は直接声を聞くのが嫌で着信拒否設定にしたが、離婚に関する事務的なやり取りはする必要があると思ったのでメールには応じた)。

“朝起きたらいない。何回電話しても出ない。どこにいる?”

“離婚届が送られてきたけど、どういう意味?

 詐欺に遭った気分だ”

“何でこっちだけ悪いことにされる。人のパソコン勝手に見て大騒ぎしたのはそっちだろ”

“妊娠中は仕方ないけど、流産した後も『具合が悪い』だ『そういう気になれない』だ理由付けてお前が拒否した。同じベッドで寝ていて邪魔者扱いされているみたいで辛かったよ”

 とにかく彼の捌け口に進んでなろうとしなかったこちらが悪いと言いたいらしい。

“立場が逆であなたが病気で仕事も辞めて家にいるのに、私が毎晩あちこちの男とセックスして、男子中高生を買うような犯罪までして、戦利品みたいに画像や動画をパソコンに取り集めていたら許しますか? よくあんな破廉恥な真似して被害者面できますね”

 こちらからそう送ると、彼からの返信はなかった。

 しかし、何よりも一番辛かったのは、実家に閉じ籠っていても(隣近所を出歩けば知り合いの誰彼に顔を合わせて近況を話さざるを得なくなるのが嫌だった)、ふとした瞬間にあの晩の記憶がまざまざと蘇ってくることだった。

 むろん、世間では男にもっと凄惨な形で襲われて殺される人もいる。

 私などは随分運が良い方だろう。

 そもそも表面上は無抵抗、同意しての行為であり、相手は仮にも夫なのだから、あの時、警察に訴え出ても、恐らくは「夫婦間の痴話喧嘩」としてあしらわれ、犯罪として立件はされなかっただろう。

 それでも、自分の中に生じた闇は晴れない。

 むしろ、夫も訴え出られないことを見越して強要してきたのだろうと思うと、振り切ろうとしても余計に屈辱が纏い付いてくる。

 夜になり、犯罪などめったに起きない田舎の実家の自室で窓もガラス戸もドアもしっかり施錠してパジャマの上からタオルケットを体に巻き付けるようにして横になっていても、

「目が覚めたら全部身に付けた物を剥ぎ取られていて誰かが自分の上にのしかかっているのではないか」

 という不安が消えない。

 ようやく眠りに就いても見る夢はあの晩の変奏ばかりだ。

 ある夢では、私は激昂した夫から殺されてマンションのゴミ捨て場に用済みの大きな笹飾りと並ぶようにして投げ置かれる。

 ムワッとした蒸し暑い空気の中で既に息絶えた自分の体が早くも腐って蝿のブンブン集り始める気配を感じながら、影になった笹を見上げると、すぐ目の前に提げられた真っ白な短冊には子供の字で

“お父さんお母さんがなかよくくらせますように”

 と綴られているのだ。

 他の夢では、流産から退院して帰ってきたその日の晩に

――お腹の子はかわいそうだったけど、また……。

と求められる。

「ここで拒否したから夫もああいう行動に走ったのだ」

と思い、嫌悪感を堪えて応じる。

 しかし、夫から触れられる内に私の体は粘土か紙のようになって好き放題むしり取られ、グシャグシャにされるのだ。

 また別な夢では薄っぺらいノートパソコンを前に

「嫌だ。もう内容は分かりきっている。見たくない」

と思っていても体が勝手に動いて画面を開く。

 すると、そこに隠し撮られた屈辱的な姿を大量に保存されているのは、他ならぬ私自身なのだ。

――ほら、もっとどうして欲しいのか言ってごらん。

 勝手に再生された動画から夫の声が聞こえてきて胃の中が逆流するような感じに襲われて口を押さえた瞬間、頭のすぐ後ろから嘲りを含んだ声が響いてくる。

――馬鹿だな、お前は。

 目が覚めても、感じるのは「夢で良かった」という安堵ではなく、「もうあの晩の前の自分には戻れないのだ」という絶望だ。

 同時に自分の心身を弄んだ相手や男性そのものへの憎しみが燃え上がる。

――まだ若いんだから、またいい人が見つかるよ。

 私が離婚届まで送り付けたと知ると、まだ先方が受け入れて離婚成立したとも確認できない内から両親はもう再婚を勧めるような話すらしている。

 でも、もうどんな男性からもセックスはおろか指一本触れられたくない。

 同じ床に隣り合って眠ると考えただけでも悪寒が走る。

 むろん、夫のような男性は特別酷い例で、全ての男性が彼のような下劣な人間ではないかもしれない。

 しかし、正論では、生理的なレベルにまで根付いた嫌悪を覆すことは到底出来ないのだ。

 そんな風に過ごして七月も終わろうという頃、いつもとは様相の異なる夢を見た。

 思い切って家の外に出て歩いてみると、不思議と詮索するような知り合いには出会さず、暑いけれど空は爽やかに晴れ渡っている。

 ふと、道端に一本の向日葵の花が咲いているのを見つける。

 近付くにつれて、鮮やかな黄金色をした大輪の花はちょうど自分の顔と同じ位置に開いていた。

 真っ直ぐに伸びた向日葵の丈夫な茎に腕を回して花の真ん中に口づける。

 そうだ、まだやり直せる。希望がある。

 そう思ったところで下腹部に違和感を覚えて目を落とすと、大量の白い蛆虫が涌いている。

 ああ、やっぱり自分はもう毒されていた。やり直せないのだ。

 急速に視野が薄暗くなって崩れ落ちた所で目が覚めた。

 まだ完全には明けない夏の朝の薄暗がりの中、半年前まで妊娠していた体には覚えのある下腹部の浮腫むような感覚、次いで、本来なら来ているはずの月経が来ていない事実に思い当たった。

“妊娠していました。5週目です。あなたともうやり直すことはないので、お腹の子にはかわいそうですが、”

 総合病院の消毒液臭いロビーのソファーで、私はまだ書面上は夫である相手へのメールを打っていた。

 誰も見ていないと分かっていても、何となく液晶画面を周りを行き交う人の視野に入れたくなくて縮こまって入力する。

 すぐ目の前にある画面なのに、小刻みに震えて見辛い。

――ガシャン、シャン……。

 素人の私には名称の分からない器具類を載せた台車の移動する金属的な音が耳に響いてくる。

 思わずビクリとして灰色のワンピースのまだ常とは変わらぬ下腹部を撫でる。

 先ほどの内診の痛みが思い出された。妊娠自体は二度目だが、あの内診台に載って開いた局部に短時間にせよ器具を捩じ込まれる屈辱と苦痛は未だに慣れない。

 中絶手術となったら、その比ではないだろう。

――ガシャン、シャン……。カラカラカラ……。

 金属のぶつかる音が台車のタイヤの転がる音と共に遠ざかっていく。

 操作が途切れたまま一定の時間の経過した液晶画面がパッと暗くなる。

 ワンピースの上の掌をグッと握り締めた。

 一方的に求めて、身勝手な快楽を自分だけ得たのは相手。

 それでも、その結果を押し付けられて苦しい思いをするのは私。

――ピンポーン。ガーッ……。

 少し離れたエレベーターのベルと重い扉の開く音に我に帰る。

 診察も終わって会計も済んだのだからもうここにいる必要は無いのだと思い当たってソファーを立つ。

 消毒液臭いロビーを歩くと、様々な人たちと次々すれ違う。

 点滴のチューブを着けた入院服のお爺さん、父親に付き添われて松葉杖を着いた高校生くらいの女の子、五歳くらいの不安げな男の子の手を引いた母親。

「検査が終わったらまたチョコパフェ食べに行こうね」

 すれ違い様にお母さんの宥める声が耳に入る。

 皆、怪我や病気を治そうとして訪れる全うな人たちなのだ。

 足を早めて自動ドアに向かう。

 外に出ると、焼け付くようなアスファルトの匂いと共にムアッと湿気を多量に含んだ熱気に包まれる。

 夫と暮らしていた都会の街より郷里のこの街の方が夏はより蒸して冬はより冷え込むのだ。

 改めてそんな煩わしさが蘇るのを感じつつ、陽炎の揺れる街路に足を進める。

「それ、プリントにない本だけどいいの?」

「プリントに載ってるのはただの例だから好きな本で感想文出していいって先生言ってたよ」

 あの女の子二人は中学生くらいかな?

 そういえば、もう夏休みだった。

 人混みで擦れ違う顔触れには中高生らしい顔も目につく。

“中絶なんて浅はかで頭の悪い女の子が男に逃げられてする愚行”

 まだ男性と付き合ったことのなかった(告白されたことは何度かあったが、付き合いたいと思えるほどの相手はいなかったし、何よりも『付き合っている彼女とやった』『あいつらはやっている』みたいに面白がって話している男の子たちを見るととても嫌な気分になり、自分が地元でそんな噂の種にされるのは絶対に避けたかった)中高生時代の私はそう思っていたし、世間でもそんな風にイメージする人は少なくないだろう。

 だが、実際のところ、中絶する女性は十代の少女より二十代、三十代の既婚女性が多いという。

 自分のような経緯はその中では一般的ではないかもしれない。

 しかし、夫から妊娠させられて中絶を選ぶ既婚女性は、考えなしに性行為、妊娠して男から逃げられて中絶させられる女子高生より数としては多い。

 中絶には未熟な少女や不倫など一般に認められない関係を持っていた女性の愚行というイメージがある。

 それは、夫が妻に性暴力を働いて望まない妊娠をさせる現実はなかったものにしたい、目を逸らしたい人が社会の大半だからではないのか。

――ジー、ジー、ジー……。

 陽炎の揺れる視野に油蝉の鳴く声が響き始めた。

 姿は見えないのに喧しく鳴く声だけは確かだ。

 下腹部の浮腫むような違和感が蘇って、吐けないのに吐き気が込み上げた。

 バス停の屋根の下に入っても、視野が翳っただけで纏い付くような蒸し暑さも、油蝉の耳に焼き付くようなジージー喧しい鳴き声も、路面からの排ガス臭い匂いも何も変わらなかった。

――ジー、ジー、ジー、ジー……。

 私はこれから半月以内に中絶手術を受けるんだろうな。

 費用なら一応は働いている時に貯めたお金が銀行の口座に入っているから、それで賄えるはずだ。

 それなら、わざわざあの人に伝える必要もないかもしれない。

 お腹の子の為にやり直したい気持ちも中絶の為に負担を求める気持ちももうないのだから。

――ジー、ジー、ジー、ジー……。

 でも、これから帰って両親には話さなくてはいけないな。

 そもそも「妊娠したかもしれないから病院でちゃんと診てもらう」と言って出てきたから、向こうも今頃結果を心待ちにしているだろう。

――もしおめでたなら、もう一回、洋亮さんと話し合ってやり直したら?

 これは出る前に母が言ったことだ。

――ジー、ジー、ジー、ジー……。

 でも、もう離婚すると決めたからには中絶するしかない。

――ジー、ジー、ジー、ジー、ブロロロロ……。

 向かいの停留所からは新たにバスが出たのに、私の待つバスはまだ来ない。

 灰色のワンピースの背中や腋の下が濡れて体に貼り付くのを感じながら、乗るべきバスに早く来て欲しいような永久に来て欲しくないような気持ちが襲ってくる。

 バスに乗れば多少は涼しく、蝉の声で煩くもない空間に移れるけれど、帰り着くのは出戻り、バツイチの娘のこれからに頭を抱えている両親の待つ家だ。

――ジー、ジー、ジー、ジー……。

――半年前には子供が欲しいって流産して泣いてたのに、今度は離婚するから要らないって堕ろすの?

――お腹の赤ちゃんがかわいそう。

――中絶するくらいなら何で妊娠するようなことしたの?

――ジー、ジー、ジー、ジー……。

 頭がグラグラする。

 足がフラフラと停留所の屋根の影から出てまたカッと強い陽の照り付ける路地を歩き出していた。

 足を動かすと改めて下腹部のむくみを感じる。

 これから中絶して、その後はどうするのだろう。どうしたいのだろう。一人の体になった所で、その先にはもう何の希望もない。

 目の前には、自動車がひっきりなしに行き交う車道があった。

 今、飛び出せば、きっとピンポン玉みたいに次々車にぶつかってお陀仏だ。

 ニュースで定型句として使われる「全身を強く打って死亡」というのは遺体が原型を留めていないような状態だそうだが、きっとそんな二目と見られない姿になるんだろう。

 でも、私みたいな失敗した人間にはそれが相応しいんだ。

 汗で貼り付いたワンピースの背に寒いものが走り抜けて、体が震えた。

 今更何を怖がることがあるのだろう。

 二、三歩も駆け出せば一瞬で蹴りが付く話なのに。

 目を閉じてフーッと深呼吸する。

「キヨ!」

 不意に懐かしい声と共に右の肩に手を置かれた。

「ヨウ……」

 栗色の天然パーマの頭に麦藁帽子を被り、赤地に向日葵ひまわり模様のワンピースを着た、小麦色の肌に人懐っこい笑顔の陽子ようこ

 子供の頃から近所に住んでいて高校まではずっと一緒だった、幼なじみの親友だ。

 互いの結婚式には出たが、遠方に住んでいたせいか、最近はあまり連絡を取れずにいた。

「病院の会計で見掛けたから探してたの」

 肩に置いた手とはまた別な手でこちらの二の腕を優しく叩く。

 そうすると、ふわりと勿忘草の香りがした。これは陽子が昔から好んで使う石鹸せっけんの匂いだ、と思い出す。

 こちらを見詰める黒目勝ちの円らな瞳は何かを察したように微かに潤んでいた。

「ヨウ」

 白昼の往来だが、私は勿忘草の香りごと抱き着かずにいられない。

 相手は黙って柔らかな厚い掌でこちらの背を穏やかに叩いていたが、やがて昔通りの口調で告げた。

「一緒に帰ろう」


 *****

「……それでね、この春、実家近くに家を建てて引っ越したの」

「そうなんだ」

 冷房の利いた金臭かなくさいバスの座席で二人並んで腰掛けて揺られていると、高校時代を思い出す。

 窓ガラス越しに広がる夏の空はあの頃と同じ鮮やかな水色で、真っ白な入道雲にはコバルトブルーの影が刻まれている。

「今日、病院に行ったのはね、とうとうオメデタになったみたいだからなんだ」

 オメデタ?

 一瞬、間を置いて妊娠のことだと頭の中で変換される。

 そうだ、普通の既婚女性にとっての妊娠はおめでたい、喜ぶべきことだ。

 目の前の小麦色の笑顔は続けた。

「五週目だった。出産予定日は四月三日だって」

「そうなんだ」

 空っぽの頭の中に、エコー写真に刻まれた日付けだけがくっきりと浮かんだ。

「うちは四月二日」

 妊娠を継続すれば、このお腹にいる命が外に出てくるはずの日。

「キヨもなの?」

 こちらを見詰める円らな瞳がパッと輝いた。

 温かに柔らかな手が私の手を握る。

「これから役所に行くから、一緒に母子手帳取ろうか?」

 バスが角を曲がって、サーッと眩しい陽射しが私たちを包んだ。


 *****

“妊娠していました。5週目です。あなたともうやり直すことはないので、お腹の子にはかわいそうですが、私一人で産んで育てることにします。”


 *****

 七月上旬の、どこか湿り気の纏い付く眩しい陽射しが照り付けてくる。

「うちは七夕の笹飾りなんて何年も飾ってないなあ」

 大人が集まって願い事を書くとすれば、「家内安全」とか「無病息災」とかそんな定型句の短冊ばかりになるのだろうが、私の家族はいつの間にかそんな月並みの願いすら書き表さなくなった。

「陽希がもうちょっと大きくなったら一緒に色紙で飾りとか作ろうかな」

 砂場の息子は水色の半袖の背を見せて立ち上がっている。

 固く真っ直ぐな黒髪の頭に、影になった中高い横顔。

 胸の中にまた墨を落としたような影が広がり、打ち消そうとしても微かな忌まわしさが蘇る。

 陽希は目など正面から見た顔形は母親の私に似ているし、色々な人から「ママそっくり」と言われる。

 だが、ふとした瞬間に元夫の面影が浮かび上がるのだ。

 万難を排して産むことを決めたのは他ならぬ私だし、私しかこの子を守れる人間はいない。

 そう思っても、息子を愛し切れない自分が常に潜んでいる。

 やっぱり、シングルマザーになるには心が弱かったのだと思わざるを得ない。


 *****

 七月上旬の、どこか湿り気の纏い付く眩しい陽射しが照り付けてくる。

「うちは七夕の笹飾りなんて何年も飾ってないなあ」

 大人が集まって願い事を書くとすれば、「家内安全」とか「無病息災」とかそんな定型句の短冊ばかりになるのだろうが、私の家族はいつの間にかそんな月並みの願いすら書き表さなくなった。

「陽希がもうちょっと大きくなったら一緒に色紙で飾りとか作ろうかな」

 砂場の息子は水色の半袖の背を見せて立ち上がっている。

 固く真っ直ぐな黒髪の頭に、影になった中高い横顔。

 胸の中にまた墨を落としたような影が広がり、打ち消そうとしても微かな忌まわしさが蘇る。

 陽希は目など正面から見た顔形は母親の私に似ているし、色々な人から「ママそっくり」と言われる。

 だが、ふとした瞬間に元夫の面影が浮かび上がるのだ。

 万難を排して産むことを決めたのは他ならぬ私だし、私しかこの子を守れる人間はいない。

 そう思っても、息子を愛し切れない自分が常に潜んでいる。

 やっぱり、シングルマザーになるには心が弱かったのだと思わざるを得ない。

「あらあら」

 不意に隣の陽子が立ち上がる。

 ふわりと勿忘草の香りがこちらに届いた。

「ああ」

 こちらも思わず間の抜けた声を出す。

 砂場では青いシャベルを左手に持った陽希が空いた右の手で美生子ちゃんの赤いシャベルまで取り上げていた。

 美生子ちゃんはピンクのワンピースの小さな背とオムツのお尻を見せて砂の上に倒れ込んでいる。

「駄目だよ、陽希」

「ミオちゃん、大丈夫?」

 私たちはそれぞれ我が子に駆け寄る。

「フエーン」

 肌はほんのり桃色を含んで白いものの(これは父親の俊晴としはるさんに似たものだ)、陽子そっくりの円らな瞳をした美生子ちゃんは母親の腕の中で目からポロポロ涙を溢して小さな手足をバタつかせた。

「これはお友達のでしょ」

 小さな右手から赤いシャベルを取り上げる。

「ワアアン」

 左手に既に買い与えられた青のシャベルを手にした息子はまるで理不尽に奪われたかのように空の右手を伸ばした。

「もう自分の持ってるでしょ」

 息子の左手を取って示しても、相手は固く真っ直ぐな黒髪の頭を横に振って泣き続ける。

「ヤーラー!」

 どうやら「嫌だ、赤いシャベルもよこせ」と言いたいらしい。

「はい」

 私は後ろを向いて赤いシャベルを苦笑いしている陽子に返すと、一歳三ヶ月にしてはもう大きくて重い息子の体を抱き上げた。

 すると、ツンとフォローアップミルクの匂いがした。

 陽希はとにかくお乳を欲しがるので生まれた直後から粉ミルクに切り替えて、今は離乳食とフォローアップミルクを併せて摂らせているのだが、とにかく沢山飲むので缶ミルク代がかかって仕方がない。

 この金喰い虫!

 陽射しの照り付ける砂の上に叩き付けたくなるのをグッと堪えてミルクの匂いを抱き締める。

 息子の名前は表向きは太陽から、実際には陽子にあやかって「陽」、それから希望の「希」を付けたのに、私はこんな風に自分を抑えて強いなければ、この子に母親らしく優しく出来ないのだ。

 そういう我が子への自然な情愛の欠けた自分に嫌悪を覚えるが、私を踏みにじって壊してくれた元夫と同じ性別で似通った面影を見せる息子がどうにもいとわしい。

 乾いた自分の声が耳の中に響いた。

「男の子は女の子に優しくしないと駄目なんだから」

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