八月のお盆に入る少し前に、さくらベースでお泊り会が開かれた。

 夏休みは住み込みの子たちが家に帰ることが多くなる。その時はちょうどねおが家に帰っていたし、通いだが、さなは少し前から家族で祖父母の家に出かけていて、ベースにはしばらく顔を出していなかった。そして、二日後からはさきあが三週間ほど親元へ帰ることになっていた。

 さきあは、家に帰るのは嬉しい一方で、しばらくみんなと会えなくなるのが寂しくもある様子だった。それなら、さきあが懐いているつぐも呼んでお泊りをしようとそよが考えて、波子さんに相談したのだった。


「提案しておいてごめん。わたし、明日用事があって、着くのが夜になっちゃいそうなの。つぐちゃん、ももえちゃんと一緒に先に行っててもらってもいいかな」

 お泊りの前日、そよがつぐに電話をかけてきて頼んだ。つぐはもちろん快諾し、当日はももえと一緒に出掛けて、夕方前にベースに着いた。お泊り会に参加する子どもたち、かの、ここな、みく、ゆめ、さきあの五人は遊技場にいた。つぐとももえは遊技場の入り口で靴からスリッパに履き替えて中に入った。

「今からみんなで踊るけど、つぐとももえも一緒に踊る?ああ、スリッパか。じゃあ難しいね」入って来た二人を見て、かのが言った。

 遊技場の中央の壁側で、かのが姿見鏡の正面に立ち、残りの四人は鏡に映るかのの姿がよく見えるように、少し後ろに下がって緩やかに弧を描くように並んでいた。姿見鏡の下の床には、黒いCDプレイヤーが置いてある。

「うわばきがあったとしてもダンスは無理だよ、わたしたちには」

 つぐは自嘲するような調子で言った。

「そんなにおおげさなものじゃないよ。ただ音楽に合わせて身体を動かすだけ。さきあだってやってるんだから。でも、それが楽しいの」

 かのはいつも通りの弾けるような笑顔を見せた。

「そうしたら、少しの間見ててね。我慢できなくなったら一緒に踊ってもいいよ」

 かのがCDプレイヤーのボタンを押すと、軽快な音楽が流れ出した。

 かのは、音楽に合わせて簡単な振り付けのダンスを踊る。簡単ではあるが規則性があり、旋律や抑揚に沿って馴染む動きだ。後で聞くと、それはかのが曲を選び、ダンスの基礎的な動きを組み合わせて自分で振り付けをしたものだということだった。

 鏡に映るかのの姿を見ながら、四人は、初めはただ音楽に合わせてバラバラに身体を動かし、あるいは揺らすだけの子もいる。三分ほどで音楽が終わると、かのは何も言わずにまた同じ曲をかける。動きの決まりや音と動きが合わさるタイミングを、四人は見様見真似で再現し始める。特に言葉にして振り付けを教わるのではないが、五回ほど同じ曲を繰り返すと、みんなもなんとなく大まかに、かのの踊りを真似できるようになってくる。

 それから今度は音楽を途中で止めて、短く分かり易い言葉で動きを説明したり、上手くできていないところを何度も反復して踊ったりする。一曲を十分ほどもかけて、ゆっくりと噛み砕くように踊る。それからまた2回ほど繰り返し踊って、かのが「最後、全力で!」と大きな声で言って音楽をかけると、みんなは思い切り手足を振り、伸ばし、跳んだりして、見ているつぐとももえにも伝わってくるような、迫力のあるダンスを踊った。

 もちろん、振り付けを綺麗に真似できているのは五割から六割といったところだったが、全体としての雰囲気は統一されているような気がしたし、何よりも、みんなが真剣でありながら楽しそうな顔をして踊っているのが二人の印象に残った。

「すごいね。かのちゃん、かっこいい」

 ももえが感心したように言った。


 遊技場でのダンスの時間が終わると、七人は二組に分かれて買い物と波子さんの手伝いをすることになった。

「ももえちゃん」

 みくがももえに近づいてきて、遠慮がちに言った。

「台所で波子さんのお手伝いをするんだけど、ももえちゃん一緒に来てくれる?」

「えっ?わたし?」

 ももえは驚き、右手の人差し指で自分の鼻の頭を指さしながら、みくを見た。

「昨日、そよちゃんから寮に電話がかかってきて、夜ごはんのお手伝いはももえちゃんにしてもらって、って」

 みくは、はにかんだ微笑みを顔いっぱいに浮かべながら言った。

 ももえは困ったような顔をした。

「そうなんだ。うーん、困ったな…」

 考え込むももえを、みくは期待を込めたような真っ直ぐな瞳で見つめていた。ももえは少し視線をそらして、諦めたようにたどたどしく首を縦に振った。

「うん、わかった。わたし慣れてないから、邪魔しちゃったらごめんね」

 ももえが精一杯笑顔を作って言うと、みくは嬉しそうに二度、大きくうなずいた。

 みく、ももえ、ここなの三人が波子さんを手伝うために台所へと向かい、つぐとかの、ゆめ、さきあはいちばん近い日用雑貨店に買い物に行くことになった。

「明日の朝ごはんのために、ホットケーキの粉を買いに行くの。あと花火も買っていいって。夜ごはんの後は、花火!」

 ゆめが興奮したようにつぐに言った。

 八月の夕方、外の熱気はまだ冷め切らず、四人は蝉の輪唱を聴きながら、夕焼けが紅く照らすアスファルトの道路を歩いた。


 店はさくらベースから十五分ほど歩いたところ、バスが走る旧街道の商店街にあった。水色の庇が覆い被さる店の入り口にはホウキやちりとり、ポリバケツ、鳥かごなどが雑然と置かれ、中に入ると間口は狭いが奥行きはそれなりにあって、両側の壁に建て付けられた商品棚には数えきれないほどたくさんの商品がびっしりと並んでいる。天井から吊るされた蛍光灯が鼠色の壁と床をぼんやり照らし、人工的な果物の香料のような甘い匂いと、紙にインクが染み込んだような匂いと、蚊取り線香のうっすらとした匂いなどが入り混じった不思議な香りが漂っていた。

 入口近くの棚には、鍋やフライパン返し、おろしがねなどの金物。それから、ろうそくやマッチ、石鹸、洗剤、殺虫剤などの日用品。ノートや消しゴム、鉛筆、糊などの文房具。食用油や小麦粉、色々な調味料、瓶詰、缶詰。奥の方には袋や箱に入ったお菓子や、こまごまとした駄菓子が置いてあり、突き当りにはジュースやお酒が並ぶガラス扉の冷蔵庫があった。

 ゆめは食料品の棚からホットケーキの粉を二袋取り、それから、ジャムやはちみつの瓶と一緒に並んでいるケーキシロップを一つ取った。

「花火、どこ?」と、さきあが言った。

 ベースの子どもたちのことをよく知っている年老いた男性の店主は、店の真ん中あたりにあるレジカウンターから身を乗り出し、指をさして場所を教えてくれた。

 花火は、お菓子類が置いてある店の奥の一角に小さくまとめて置いてあった。

 飴玉やガムが入っているような透明のプラスチック容器が丸い口をこちら側に向けて幾つも積み重ねてあり、中にはそれぞれに、鮮やかな色の紙をねじったような形のねずみ花火、黄色や紫の球形の花火、コマのような形の花火、トンボの形をした花火、雲梯や物干しざおに吊るして火をつける紐付きの仕掛け花火、小さな長方形の箱の噴き上げ花火などが入っている。容器の丸口の下には、一個何円という手書きの札が添えられていた。

 さきあは色とりどりのバラ売り花火に興味をひかれたようだったが、かのが「飛び上がったり噴き出したりする花火は危ないから、手で持てる花火にしよう」と言ったので、積み重なった容器の横の段ボール箱に入れて置いてある、袋詰めの手持ち花火のセットを買うことにした。

「わたし、これ、やったことある」

 かの、つぐ、ゆめがレジカウンターに向かっていると、一人だけ花火の商品棚のところに残っていたさきあが大きな声で言った。レジの方に歩いてきたさきあが手に持っていたのは、細長い透明のビニール袋に入った線香花火だった。

 線香花火は先端が濃いえんじ色の紙縒り(こより)になっていて、そこから緑、黄色、青、と色が連なり、持ち手の部分は濃いピンク色で、ふわりとしたツツジの花びらのような形をしていた。

「これ、セットの中に入っていると思うよ」つぐがさきあに言った。

「でも、たくさんがいい」

 さきあは、線香花火の袋をつぐの目の前にぐいっと差し出した。

「線香花火はね」

 突然、四人をレジカウンターの中から見ていた店主が、優しげな低い声で言った。

「一本の花火に使われている火薬は〇・一ミリグラムより少ない。一円玉の重さの十分の一以下の火薬の量なんだよ」

 四人は興味深そうに店主の方を見た。

「それで、火を着けてから燃え尽きるまでに五回も火花の形が変化する。火薬を加工しているのではなく、温度の変化で火の出方が変わるんだ。ただし、揺らさずに上手に燃やすことができればね。小さくても中身は濃いし、燃えている時間は短いけれど、美しい」

 店主の言葉は子どもたちには少し難しかったが、さきあはそれを聞いてより決心を固くしたようであった。

「よし、じゃあ線香花火も一つ買おう」と、かのが言った。

 レジカウンターの上で、ホットケーキの粉とシロップは茶色い紙袋に、花火は白いビニール袋に、それぞれ入れられた。

「火の玉を足の上に落とさないように気を付けるんだよ」

 店主はそう言いながら、花火が入った袋をさきあに渡してくれた。


   §

 

 ももえは台所で緊張していた。

 さくらベースの台所は年月を経た柱や梁、建付けの食器棚はそのままに、リノリウムの床は綺麗に張り替えられ、お洒落で使いやすそうな現代的なキッチンが組み込まれていた。ももえの家のキッチンよりも広く調理器具もたくさん収納してあるように見えたが、決して見慣れない風景という訳ではなかった。

 それでも、ももえは緊張していた。ももえは、みくが渡してくれた薄い黄色の花柄のエプロンを着けて、なんとなく所在なさげに立っていた。

「今日はカレーを作るよ。夏野菜のグリルを乗せたチキンカレー」

 波子さんが言った。

「ここな、ショウガとニンジンをすりおろして。みくは、ももえちゃんと一緒に玉ねぎを切ってね」

 ここなとみくはてきぱきと動き、ももえはどうしたら良いか分からずにおろおろとしていた。

「ももえちゃん、一緒にやろう」

 みくがまな板を二つ用意しながら、ももえを落ち着かせるような低い声で言った。

 二人はまな板を並べ、隣り合って全部で四個の大きな玉ねぎを、薄く切り始めた。みくは手際よく包丁を使い、ももえは横目でそれを見ながら、恐る恐る、それでも器用に玉ねぎを切った。ただ、涙が流れてくるのはどうしても我慢できず、時々着ているブラウスの肩のあたりで目をぬぐっていた。

 玉ねぎを切り終えると、波子さんは、それをフライパンで炒めてと言った。

「フライパンにバターとオリーブオイルを引いて、玉ねぎが茶色くなるまでゆっくり炒めるの」

 油が熱くなったら潰したニンニクとすりおろしたショウガ(ここなが用意してくれていた)を入れ、香りが付いたら山盛りの玉ねぎを入れて、木のへらでかき混ぜながら中火で炒める。初めはみくが手本を見せ、それをももえが引き取った。かき混ぜ過ぎず少しずつ焦げ目を付けるのがこつなのだと、みくは言った。

 ももえは、これは思ったよりも力仕事だと思い、ふうふうと息をしながら木のへらを動かした。台所には食事場の冷房の風が流れてきたが、ガスコンロの前に立っているとそれだけでじっとり汗ばむほどに暑かった。ももえの軽くて柔らかそうな前髪の下の形のよい広い額に浮かんだ汗のしずくが、時々、眉毛の上を滑ってこめかみから顎へと伝わり落ちた。

 玉ねぎに薄っすらと色が付いたら、弱火にして更に炒めていく。ももえ、みく、ここなが交代でそこから三十分ほども炒めると、玉ねぎは五分の一くらいの量になり、つややかな飴色に近づいてきて、香ばしい匂いを立てていた。

「よし、良い感じ。ももえちゃん、上手だね」

 波子さんに言われると、ももえは少し余裕ができた様子で嬉しそうに笑った。

 

 弱火のまま小麦粉を少しずつ加え、波子さんがあらかじめ合わせておいたカレー粉を混ぜていくと、切り終えた時には真っ白だった山盛りの玉ねぎが、フライパンの上で、スーパーマーケットで買ってくる固形のルウのような色と香りになった。

「それから、湯むきしたトマトを二つ、さいの目に切ったもの。すりおろしたニンジン。セロリは葉っぱまで細かく刻んでね」

 それらをフライパンに入れ、中火でトマトの水分を飛ばしたら、大きな鍋に移して水とブイヨンを入れて、蓋をして十五分ほど煮込む。塩と胡椒を振って軽く小麦粉をまぶした鶏肉は、こんがりと焼いてから火を止める直前に鍋に入れた。

「あとは、ソースとケチャップで味をととのえたら、カレーは完成」

 波子さんが、ひと段落という感じで言い、三人はお互いに顔を見合わせ、額の汗を拭いて軽く拍手をした。

 買い物に出かけていた四人がいつの間にか戻って来て、食事場のお膳支度を進めてくれていた。ももえはここなと一緒にサラダを作った。トマトと、小さなハツカダイコンをうすく切り、手でちぎったレタスをボウルに入れてハーブを散らしていると、用事を終えてベースに着いたそよが台所に現れた。

「ももえちゃん、ありがとう。無理を言ってごめんね」

 そよは申し訳なさそうにももえに言った。

「そよちゃん、来たの。大丈夫、楽しかったから。お料理、ほとんど初めてで、あんまり役に立ってないけど…」

 ももえは、みくとここなの方に視線を送り、顔をしかめるようにして笑った。

「そんなことないよ。ももえちゃん上手だよ」

 みくが真剣な表情で言った。


 波子さんとみくが盛り付けをして、カレーは出来上がった。野菜の繊維でとろりとなったカレーと、ほんのり赤い色の雑穀米が一緒に皿に盛られ、グリルで焼いたナス、ズッキーニ、カボチャ、トウモロコシが添えられていた。

 そよとももえが、四角い大きな配膳盆にカレーの皿を乗せて食事場へ運んだ。

 夏野菜のカレーと、大きなボウルに入ったサラダ。それにカリフラワーや赤と黄色のパプリカ、キュウリ、ミョウガなどの手作りのピクルスがテーブルの上に並び、白いお皿と野菜の赤や黄色や緑が散りばめられた鮮やかな色彩は、おなかをすかせた子どもたちの食欲を一層刺激した。色ガラスに波紋のような白い模様がついた可愛らしいコップには、波子さんが梅雨の頃から漬け込んでいたスモモのシロップを炭酸水で薄めた飲み物が注がれ、小さな四角い氷と輪切りのレモンが浮かべられていた。声を合わせて「いただきます」を言ったあと、八人はいっせいにカレーを食べ始めた。

 みくはしきりに「ももえちゃんが作ったの。美味しいでしょ?」と周りのみんなに声をかけ、みんなは代わるがわる「ももえちゃん、美味しい」と、ももえに言った。ももえはそのたびに、自分は玉ねぎを炒めただけだと訂正しながら、恥ずかしさと嬉しさが入り混じったような顔で、「ありがとう」とお礼を言っていた。


 たっぷりと夜ごはんを食べたあと、八人は手分けしてお膳を片付け、洗いものを終えると、花火をしに行く準備を始めた。

「公園までの道は暗いから、気を付けて歩くのよ。帰ってきたらスイカが冷えてるからね」

 玄関でみんなが靴を履いているところに、波子さんが懐中電灯を二つ持って来て、かのとそよに渡しながら言った。いつも農作業を見学させてもらっている、さくらベースと古くから付き合いのある農家から、その日のお昼にスイカを丸ごと一つもらっていた。濃い緑色に黒の縞がきれいに入った形の良いスイカだったが、大きくて冷蔵庫の中に収めることができなかった。そこで波子さんが二階の納戸から盥(たらい)を出してきて水を張り、かき氷用の大きな氷を割って入れ、上から濡れ布巾を被せて、数時間前から冷やしていたのだった。

 花火は、ベースから一番近い公園の砂地の上でやろうという事になっていた。

 ゆめは空っぽのトタンのバケツを持ち、食器棚の抽斗にしまってあった安全装置付きのライターをTシャツの胸ポケットに入れた。雑貨店の白いビニール袋にくるまれた花火は、さきあが大事そうに抱えていた。くすんだ橙色の電球が照らす玄関の敷居をまたいで、八人は夕闇の中に足を踏み出した。そして、敷地を出て右側の石塀と竹林の間に通る細い路地を二列になって歩いて行った。


 かのが懐中電灯を持って先頭に立ち、その隣にゆめ。つぐとさきあ、ももえとここな、そしてもう一つの懐中電灯はそよが持ち、みくと二人で最後方を歩いた。夜になると、蝉の鳴き声に代わって地面の上や草の中で鳴くたくさんの虫の声が辺りを包んでいた。暗い竹林を横目に見ながら歩く狭い路地にはコオロギやスズムシ、カネタタキ、クサヒバリ、キリギリスなどの鳴き声が聴こえ、幾つも重なったが、声のする方を懐中電灯で照らしても一向に姿は見えなかった。

 道を歩く八人が地面を踏む音は、折り重なる虫の声に打楽器のアクセントを付けているようだった。スニーカーでざくざくと歩く小気味よい足音もあれば、サンダルをのんびりと引きずるような音もあった。小さな歩幅を隣で歩く子に合わせようと大股で歩く靴音は間延びし、大きな歩幅を狭めて歩く子の靴音は少し前のめりに刻まれた。柔らかい音や硬い音、リズミカルな音、不規則な音。一つ一つ異なる靴音に様々な音色の虫の鳴き声が混ざり合った合奏は、八人が路地を抜けるまで続いた。

 路地を抜けてさくらベースの裏手側に回ると、道路の右側にはビニールハウスの畑や農家がぽつぽつと見え、反対側は雑木林が続く緩やかな坂道になっていて、五分ほど歩くと道が広くなり、比較的新しい家が建つ住宅街に風景が変わる。そして、そこから更に少し歩くと、視界が開けた十字路の角に小さな公園があった。すべり台と砂場とベンチと水飲み場。小ぢんまりとした公園の四角い敷地にはそれだけがあり、真ん中に建つ街灯のぼやけた光が、暗い砂の地面に小さな青白い円を描き出していた。


 ゆめが水飲み場の手洗い用の蛇口からトタンのバケツに水を汲み、ベンチの周りにみんなで集まった。かのは懐中電灯で手元を照らし、ここなが花火の袋の口を開けた。ベンチの座板には色々な種類の手持ち花火が広げられ、みんなはそれぞれ好きな花火を手に取り、安全装置の付いたライターで火を着け始めた。

 カラフルな銀紙をぐるぐる巻きつけたような花火は、先端から鈍いオレンジ色の火花が尾を引くほうき星のように噴き出した。灰色のガマの穂のような花火は、ちかちかとまぶしく弾けるような火花が色んな方向に飛び散った。しゃがみこんでじっと花火の先を地面に向けている子もいれば、二人で向かい合ってお互いに花火を見せ合っている子たちもいた。両手に花火を持ってくるくると回しながら踊っている子がそばに寄ってきて、あぶない、と笑いながら避ける子もいた。

 さきあは最初から線香花火に夢中だった。

 ピンク色のふわふわした持ち手を指でつまみ、紙縒りの先に火を着ける。火が火薬のふくらみまで達すると、表面がじりじりと音を立てる豆電球のような火の玉ができる。それから、ボタンの花びらのような炎が出るのが、最初。次に引っ掻き傷のような形の火花が飛び始め、それが、ぱちぱちと高い音を立てる松の葉のような火花に変わる。松の葉は次第に激しくたくさん弾けるようになり、最後に柳の葉のような火花が静かに現れる。小さくなった火の玉は身体を震わすように何度か揺れて、ぽとりと地面に落ちた。

 さきあは、松の葉がたくさん出るあたりで火の玉を落としてしまう事が多かった。つぐとそよがさきあのそばに立って助言をしながら、何度も線香花火に火を着けた。さきあは飽きることなく線香花火で遊び続けた。 

 そうしているうちにセットの手持ち花火はあっという間に無くなってしまい、最後は他の子たちもみんな線香花火を持って、気が付くと、どちらが長く火の玉を保てるかというような競争が、そこかしこで始まっているのだった。


「ねえ、はちまんさまに行ってみない?きもだめし!」

 花火を遊び終えた帰り道、ここなが言い出した。帰りはここなとももえが先頭を歩き、かのが水と燃え滓の入ったバケツを持って最後方を歩いていた。

公園からベースに帰る途中の道を外れてしばらく歩いたところに古い神社があり、『はちまんさま』と呼ばれていた。秋にはお祭りがあって小さいながらも立派なお神輿が出るのだ、と、ここなは言った。

 みんなはそれぞれに、いやだ、とか、面白そう、とか声を上げて騒いだが、それを制するように、後ろからかのが大きな声で言った。

「行かないよそんなの。帰ってスイカを食べよう」

 辺りに響くほどの声にみんなはびっくりして立ち止まり、振り返ってかのを見た。かのの顔からはいつもの弾けるような笑いが消えて、眉と眉の間に力が入り、緊張したような、何かに抵抗するような表情をしていた。

「なんで?夏と言えばきもだめしでしょ?行こうよ!」

 ここなは笑いをこらえながら言った。

「いや、行かない。帰る」

「かのちゃん、怖いの?」と、ゆめが言った。

「いや、怖くはない」

「怖いんでしょ?みんないるから大丈夫だよ。ゆめに手を繋いでもらいなよ!」

 ここなは、可笑しくて仕方がないという様子だった。

「いや、怖くない。でも、行かない」かのは頑として聞かなかった。

「行くんだったら、みんなで行ってきなよ」

 この話はもう終わりという風にぴしゃりとかのが言ったので、きもだめしに興味がある子どもたちも諦めるほかなく、みんなはしぶしぶと再び歩き始めた。

 住宅街を照らす月は左側が少し隠れていたが、強い黄色の光を放っていた。ちょうどお盆の頃に満月になるはずだよ、と、ももえが言った。

「あれは、さそり座。その横がいて座」

 ももえは夜空を指さしながら、斜め後ろを歩くさきあに教えていた。

「あそこに、大きく光っているでしょ?あの星と、あの星と、ずーっと下に行って、あの星。繋ぐと、夏の大三角。きれいに見えるね」

 さきあは大きくうなずきながらももえの話を聞いていた。

 住宅街から竹林の路地に入ると明るい大きな月は雲に隠れ、みんなの足元を照らすのはここなとゆめが持つ懐中電灯の光だけになってしまった。来るときにうるさいほどに鳴いていた虫たちは静まり返り、急にどこからか風が低くうなるような音を立てて吹いてきて、一瞬、路地は八月の夜とは思えないような肌寒さに包まれた。竹の葉がざわざわと震え、どこか遠くで犬が寂しそうな声で吠えるのが聞こえた。

「ゆめ、手、繋いであげようか?」

 かのは囁くような声で言って、バケツを右手に持ち替え、左手でゆめの右手を握った。さきあはつぐの手をぎゅっと握り、ももえはここなの手を、みくはそよの手を、そっと握った。八人は水泳のバディのように二人ずつ手を握り、なるべく早く路地を抜けるために早足で歩いて行った。その間は、いつもは途絶えることのないおしゃべりの声も聞こえなかった。


   §


 お泊り会のあと、つぐとももえは、そよが居るか居ないかに関わらず自由にさくらベースに出入りするようになった。たいてい二人は連れ立ってベースに遊びに来たが、どちらかに用事がある時には一人で来ることもあった。

 積極的なのはももえだった。お泊り会から少し経って、つぐが家族と二泊三日の旅行に出かけたことがあった。さくらベースの子どもたちにとっても意外だったようだが、その間、ももえは一人でベースにやって来た。その日はさな、ねおとゆめが勉強部屋に居て、そよも朝からベースを訪れていた。

 ももえは十時頃にやって来てみんなに挨拶をすると、座卓の上にノートを開き、夏休みの課題を始めた。そよも同じ課題に取り掛かっていて、二人はお互いに相談し合いながら勉強をしていたが、時々、さなやねお、ゆめが宿題やドリルのアドバイスを欲しがって二人のそばに来た。夏休みの宿題の分からない箇所はお互いに教え合うのが、ベースの子どもたちにとっては普通だった。

 お昼の時間が近づき、そよが台所へ行こうとすると、ももえは立ち上がって言った。

「そよちゃん、わたし、お手伝いしてもいいかな」

 そよは少し驚いたような顔をしたが、すぐににっこり笑ってうなずいた。ももえはそよと一緒に波子さんの手伝いをして、だが、お昼ごはんは食べずに帰った。

「お母さんが用意してくれているから」と言って、ももえはそそくさと帰って行った。

 その翌日も、またその翌日も、ももえは午前中にやって来てみんなと一緒に勉強をし、お昼ご飯の手伝いだけをして帰った。その後つぐと二人で来た時には、午後にベースに着いてみんなと遊び、夜ごはんの手伝いだけをして帰って行った。

「ももえちゃん、お料理教室に来ているみたいね」と、さなが面白そうに言った。

 

 八月の後半はさきあがずっと家に帰っていたが、残りの四人の子どもたちとゆめ、かの、そして、そよとつぐとももえたちが入れ替わり立ち代わりのようにベースに居て、賑やかな日々が続いた。以前さながそよを連れて行った沼の公園までみんなで散歩してアスレチックで遊び、吊り橋を渡ったり、バスに乗って少しの場所にある湧き水を見に行ったり、朝にみんなでおにぎりを握り、卵焼きを焼いて、ソウヤさんが運転するバンに乗り込み、大きな川の河原まで行ってレジャーシートを広げて食べたりもした。

 親元へ帰ったり旅行へでかけたりする子も多い中、そよとかのの二人は、塾や習い事の日を除いてほとんど毎日のようにベースに来ていた。だが、大体の場合、二人はそれぞれに年下の子を相手にしたり、波子さんと一緒に何かをする事が多く、二人きりで話をするということはほとんどなかった。


 八月が終わりに差し掛かった、ある金曜日だった。

 そよはベースで夜ごはんを食べて、帰ろうとしていた。その日ベースにいたのはみくとゆめだけで、そよは普段、平日は夜ごはん前には帰るのだが、珍しく人が少なく静かな夜だったので、遅くなると家に連絡をして、夜ごはんを食べて帰ることにしたのだった。

 そよが玄関で靴を履こうとしていると、表で自転車のブレーキと慌ただしくスタンドを立てる音が聞こえ、引き戸ががらりと開いて、かのが入って来た。かのはその日、夜からベースに来て翌日まで泊まるということになっていた。

「よかった!まだいた」

 そよの姿を見て、ほっとしたようにかのが言った。

「少しだけいい?」

 そよは、なんだろうと思いながらうなずいた。

 かのはまず台所の波子さんのところへ行き、書斎を借りていいかと尋ねた。波子さんは、どうぞ、と言った。『書斎』とは、二階にある三つの部屋のうち、いちばん小さい四畳半の部屋の呼び名だった。二人は縦になって、踏み込むとぎしぎし音を立てる木の階段を上った。

 かのの後ろを歩きながら、そよは考えていた。

 さくらベースでおよそ三年ぶりにそよとかのが再会してから二ヶ月近くが経った。二人は傍目で見る限りはとても自然に、三年という月日の隔たりを感じさせることなく接していた。しかし、それはベースの子どもたちという接点や、ベースでやらなければならない事を通してのものであり、そよとかのが自分自身の気持ちをお互いに示し合うという機会は、ほとんどなかった。

 そよは、かのに話していない、話さなければいけないことがたくさんある、と思っていた。だが、自分からきっかけを作って、話さなければならないことをかのに話すというのは、そよにとってかなり勇気が要ることだった。

 

 書斎と呼ばれる部屋は、ソウヤさんの仕事部屋だった。畳敷きの正方形の部屋で、一辺の壁には天井に届くくらいの高さの本棚とその隣にたくさんの書物やノートが山積みになった机があり、窓と正対する壁際には小さなテレビがテレビ台に乗せて置いてあった。

 かのとそよは、テレビの前に隣り合って座った。かのは畳の上にじかに座り、一つだけあった座布団をそよに差し出してくれた。かのはテレビのスイッチを入れたが、特に目当ての番組がある訳ではなかったらしく、二人はそのまましばらく黙っていた。

「…あのね」

 数分が経ってから、そよが口を開いた。

「うん」

「わたし、ここへ来て、かのと偶然…久しぶりに会ったでしょ?」

 そよはどこか遠慮がちに、小さな声で言った。

「かのは…」

 そよは、次に口にするべき言葉に迷っているようだった。

「なに?」

 大きな目をきょとんと丸くして、かのはそよの横顔を見た。

「かのは、どうして、ここに来るようになったの?」

 そよの言葉を聞き、かのはまた視線をテレビの画面に向けた。

「波子さんのこと、わたし、もともと知ってたの。お母さんの友達だったから」

 かのは少し低い、甘くかすれたような声で話し始めた。


 波子さんとかのの母親は同じ大学に通っていて、そこで知り合った。年齢が一つ違いで共通の趣味も多く、母親が結婚してかのが産まれてからはなかなか会う機会がなかったが、お互いに手紙のやり取りなどをする仲の良い友達だったという。

 まだ赤ん坊だった頃を除けば、かのが初めてきちんと波子さんに対面したのは、かのの母親が亡くなった時だった。半通夜の会場で会った時、波子さんはかのの身体を自分の方に引き寄せ頭をそっと撫でた。恥ずかしがって見上げると、波子さんは目に涙を浮かべながら、優しくいたわるような言葉をかのにかけてくれた。波子さんがK市の外れで『さくら寮』という施設をやっていることを、かのはその時に知った。

 その後、かのが中学校に入学してしばらく経った頃、波子さんの母親が身体を悪くして、さくら寮の子どもたちは波子さんが独りで面倒を見ているらしいということを、かのは父親から聞いた。かのが初めてさくら寮を訪れたのは、それから一ヶ月ほど後のことだった。

「波子さんとお喋りするのは楽しかったし、寮の子たちと遊んだり、面倒を見たりするのも、わたしにとってはすごく大事な時間だった。もちろん家の事もやって、学校やダンススクールにもちゃんと通って、それで残った時間のうちでできるだけたくさん、さくら寮に行こうって、その時に決めたの」

 中学一年生の夏から今まで、それは続いていると、かのは言った。


 そよは話を聞きながら、かのと会っていなかった三年という時間に思いを馳せていた。自分が見ていなかったかの。かのから離れていた自分。

「わたし、かのに謝らなきゃって、ずっと思ってて…」

 そよはうつむきながら言った。

「なんで?」

 かのは、意外だという表情を浮かべて、そよの横顔を見た。

「かのが手紙をくれた時に、わたし、返事をしなかったでしょ。会いたいって書いてくれたのに」

「ああ…」かのはその当時の事を思い出したように苦笑いした。

「そりゃ、正直に言うと思ったよ。〝そよがいてくれれば〟って。だってそよはいちばんの友達だったし、わたしにとっては、それまで生きてきた中でいちばん辛い時期だったから」

 かのの声は柔らかく、決してそよを責めているような厳しさを感じさせることはなかった。けれどもその言葉を聞いて、そよは、やっぱり、自分が罪を裁かれているような気分になった。

「でも、わたしは家の事もやらなきゃいけなかったし、さくら寮に行くようにもなっていたから、寂しがってる暇なんか無かったっていうのも、本当。それに、そよとはまたすぐに会えるって思ってた。なぜだか分からないけど、必ず会えるって信じてた」

 そよは立てた膝を抱え込んで座布団に座り、視線を落として自分の足先を見ていた。

「わたし、時間をたくさん無駄にしちゃった」

 そよは呟くように言った。

「ごめんね」

「なに言ってるの!」

 かのは笑った。いつものあの弾けるような笑い声だった。

「そよ、わたしたち十五歳だよ。時間はいくらでもあるよ。これから、いくらでも」

 そよは顔を上げてかのの顔を見た。かのの目は精力に満ちていて、意思を伝えたがっている時のぎゅっと力を込めたような表情も、頑丈そうな白い歯をむき出しにして笑う口元も、二人で仲良く遊んでいた頃と何も変わっていないように思えた。

「そんな話をしようと思った訳じゃないの」

 かのは空気を変えるように明るい声で言って、持って来たリュックサックから何かを取り出した。それは四角い透明なケースに入った一枚のディスクだった。表は水色で、白い文字で何かが書いてあり、裏面は鏡のようにきらきらと光っている。

 かのはテレビ台の下にあるプレイヤーの電源を入れ、ディスクを挿し込んだ。

「これをそよに見せたくて」

 そう言って、かのはリモコンをテレビの方に向けてボタンを押した。


 テレビのスピーカーから、湧き立つ歓声とヘリコプターの羽根が回るような効果音が聴こえて、画面には青いスポットライトにぼんやりと照らされた舞台が映った。画面の奥から薄暗い舞台にたくさんの人影が歩み出て、効果音が途切れると同時に音楽が鳴り始める。それは、大勢の観客が取り囲んだ円形の舞台の上で唄いながら踊る少女たちの映像だった。

 今までにも、そよはテレビの歌番組で踊る女性のグループを観たことは何度となくあったし、かのが遊技場でみんなとダンスを踊る時に流行りの音楽をかけるのをたびたび目にしたこともあった。けれども、いま画面に映っているのは自分が知っている他の女性グループとは何かが違うと、そよは思った。

 理由はすぐに分かった。

それは、彼女たちが学校の制服を着ているからだった。ステージ用に装飾された制服風の衣装というよりも、それはまるで実在する学校の制服そのもののようだった。

 少女たちは胸に校章のようなエンブレムが縫い付けられた灰色のブレザーを着て、チェックのスカート、濃紺の靴下に、黒の革靴を履いている。ブレザーの下はV字にラインが入ったオフホワイトのチルデン・セーターと純白のワイシャツ、首元はえんじ色をベースにしたネクタイで、リボンの子も何人かいた。年代はそれぞれで、恐らく小学校の高学年から、そよたちと同じくらいの年齢の子たちのように見えた。

 テレビ画面の向こう側はいつも非日常の世界であるはずであった。それがいま、自分たちと同じ年代の女の子たちが、学校の制服を着て、大勢の人の声援を受けながら舞台の上で踊っている姿を観て、そよは不思議な感覚とともに強く心を惹かれていた。


 画面の中の少女たちは気品高く、躍動的で調和していた。

決して華美ではない舞台の装飾と照明はむしろ彼女たちの可憐さと溌剌とした生命力を際立たせ、そして何よりも魅力的なのは、彼女たちが心から楽しそうに、観ている側の心まで躍らせるようないきいきとした表情で踊り、唄っていることだった。

 そよは歌手やダンスのグループに詳しいという訳ではなかったが、彼女たちの歌と踊りには何か特別なものがあるように直感した。その理由は簡単には言葉に出来なさそうだったが、一つだけ確かだったのは、自分が一瞬で画面の中の彼女たちに心を奪われてしまったということだった。

 そよは、親指を掌に握り込むようにして両手を握り、前のめりになって画面を見つめていた。舞台の照明が瞬いて画面がぱっと明るい光を放つたびに、そよの眼鏡はそれを反射して光った。

「もう一回」

 映像は四分ほどで終わったが、そよは画面が暗くなると、すぐにかのに言った。

 それから二人は、同じ映像を三回繰り返して観た。

「どう?」四回目の再生が終わった時、かのが訊いた。

「…かっこいい」そよは少し茫然としたような声で答えた。

「この曲をみんなで踊りたい。そよにも一緒に踊ってほしい」

 かのの言葉を聞き、そよは驚いて目を見開いた。

 無理だ。と、そよは思った。

 ダンスに詳しくなくても、これは難しいって分かる。いつも遊技場で踊っているのとは全然違うし、わたしはきっとついて行けない。それに、さくらベースの子たちだけじゃ、人数も足りない…。

 そよの頭の中に、そんな考えがぐるぐると巡った。

 しかし、口を開いた時に出た言葉は、そよが考えているのとは別のものだった。

「踊ってみたい」

 そよははっきりと言った。

 まるで、かのが誘ってくるのをずっと待っていたような、そのチャンスを逃がさないように慌てて手を伸ばすような言い方だった。

 かのは大きな目を濡れたように輝かせながらそよを見つめ、力強くうなずいた

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