第13話

「――リアムさん」

「!」


 発せられた声は、ひやり、と冷たい声だった。

 今までの、慈愛に満ちた”イリッツァ”から一転――民を寄せ付けぬ”聖女”へと変貌した少女は、ひたと静かにリアムを見据える。

 蒼白い月光に照らされ、ぞくりとする美しい相貌が、まっすぐに騎士を捉えていた。


「は、はい……」


 あまりの神々しさに、思わずリアムは膝を突き、聖印を切る。


「貴方には、貴方にしか出来ない、貴方に託された重要な仕事があるはずです」

「は……はい」

「その仕事を怠った時――この緊急事態において、貴方の振る舞いが、国家に不利益を与えぬと言い切れるのでしょうか」

「は……申し訳ございません」


 瞼を伏せて、神の言葉に真摯に耳を傾ける。

 イリッツァは、遠い記憶の中の母を思い出しながら、冷ややかな視線で足元に控える騎士の蜂蜜色の旋毛を見据え、淡々と口を開く。

 

「貴方が真に神に仕える騎士だと言うならば、今、惑い、嘆いている目の前の人々を救うため、貴方の全てを擲ちなさい」

「はっ……仰せのままに」

「私のことは心配無用です。……護身の術は心得があります」


 チラリ、とイリッツァは視線を部屋の隅に投げる。

 そこには、事態が長期化すると予想された時点で、身体がなまらないようにとこっそり屋敷から持ってきた訓練用の剣が立てかけられていた。


「人の身で、神の化身たる私の身を案ずるなど、烏滸がましい――私は聖女。貴方たち信徒を導き、守る存在。貴方たちを守ることはあっても、貴方たちに守られるいわれはありません」

「っ……申し訳ございません――!」


 そう。聖女という存在は、『絶対不可侵』が基本の掟。

 護衛の任を負う者は、信者が聖女の周りを固めている――というのがこの国での正しい認識だ。

 聖女の行動に物申すなど、そもそも不敬以外の何物でもない。聖女は神の化身であり、その言動は、たとえどんなことであったとしても、全てにおいて

 聖女の”死”すら、信者にとっては、神からのメッセージだとこじつけて受け取るような国民ばかりだ。


(聖女の仕事も責任も放棄して、心を病んで自死を選んだ女すら、国葬で弔うような国民性だしな……)


 腹の底からふわりと湧き出そうになった苦い何かを飲み下し、イリッツァは顔を顰めないよう頬に力を入れる。

 聖女が乱心したとて、それは国民の信仰心が足りないせいだ、聖女を神殿から出して俗世に触れさせたことを神がお怒りになっているのだ――などと言って、どこまでも自罰的にとらえるのがエルム教徒だ。

 仮にここで、イリッツァがリアムを追い返して一夜を過ごし、万が一間違いが起きてしまったとしても、それもまた神の意志である――と捉えられることだろう。


(……まぁ、そんなことになれば、さすがに俺が何を言ったとしても、リオは翌日には広場で磔刑からの火刑コースだろうけど)


 闇の魔法使いが見つかった時と同レベルの極刑が待っているのは仕方がない。

 随分と遠くなった嫌な記憶の蓋が開きそうになるのを必死に気を逸らしながら、イリッツァはゆっくりと告げる。


「この非常時に、己がなすべきことをなさぬ者には、神罰が下るでしょう。……騎士の紅き衣は、神に忠誠を誓った証。命を賭して、守るべき民のため、なすべきことを成しなさい」

「はっ……!エルム様の御心のままに――」


 もう一度聖印を切り、リアムは信者には馴染み深い決まり文句を口にしてから、そっと恭しくイリッツァの手を取り、口付けを落とす。

 神に忠誠を誓う騎士の儀式。


(さすがファムの血縁……相変わらず古風な男だな)


「良いでしょう。お行きなさい」


 完璧すぎるほど隙のない騎士の仕草に、内心呆れたため息をつきながら、イリッツァはリアムに退室の許可を出す。

 聖女は”許し”を与えることが仕事だ。

 リアムは立ち上がり、もう一度深く礼をした後――ギロリ、と鼈甲の瞳を鋭くして部屋の中に居座る男に視線を向けた。

 異様なやり取りを前に、さすがに無視は出来なかったのか、作業の手を止め、月光を背負った状態で、異国の医師がこちらを振り返っている。

 リアムは逆光で表情がよく見えぬ男から目をそらさぬまま、一息で腰の剣を抜いた。

 シャ――!と小さな音を立てて、まっすぐ、躊躇うことなく白刃がリオの喉元へと走る。

 瞬きの後には、喉仏まで指一本の隙間を空けて、ビタッと切っ先が突き付けられていた。


「我らの宝たる聖女様に指一本触れてみろ。貴様も――貴様の祖国も許さない。王国の全勢力を以て、北の大地を蹂躙する。しかと心に刻んでおけ」


 いつもの上官に振り回されている不憫な補佐官の空気を霧散させ、背筋が凍る殺気を纏うその姿は、いつぞやカルヴァンをして「怒るとシャレにならないくらい怖い」と言わしめた冷徹な騎士に他ならない。

 夜の静寂に染み入る低い脅し文句に、触れればさっくりと切り裂かれる真剣を喉元に突き付けられているにもかかわらず、リオは狼狽える様子の一つも見せずに軽く嘆息した。


「お前たちの聖女への認識はこの一日で十分理解した。こちらとしても、からは王国との友好の懸け橋の一助となれと命じられて派遣されている。不用意に国益を損なうような馬鹿な行動はしない。部下にも、くれぐれも言って聞かせよう。――それでいいか」

「神に誓え。――貴様らの信ずる、神に等しい存在に誓え」


 切っ先を少しも引くことなく重ねて要求するリアムに、ふーっとリオは深くため息をついて肩をすくめた。


「そうだな……では、我らの建国の祖、ミレニア・ドゥ・ファムーラと、大陸最強と謳われたその夫、ルロシークの名に誓おう。祖国の繁栄の礎を築いた歴史上の偉人に対して、恥ずべき行為はしないと誓う」

「承知した。それでは俺は、その言葉が違えられたときには、全力を以て報復することを我らの神に誓う。……ここは聖女様の意向を尊重し、退く。明朝、もう一度様子を見に来る」


 スゥ――と音もなく納剣し、リアムはくるりとイリッツァを振り返って深々と礼をする。


「何かあれば、すぐにお申し付けください。どこにいても必ず駆けつけます」

「全く……上官に似て、随分と過保護な方ですね」


 親しみやすい穏やかな童顔男から、一転してこの国の誰もが描く”理想の王国騎士”へと変貌したリアムに、聖女の仮面を脱いで苦い顔で呟く。

 リアムは顔を上げて、少しだけ困った顔をした。


「俺は、信徒なので聖女様のご意向を最大限尊重いたしますが――団長は、きっと、何を言っても聞き分けないでしょう」

「あぁ……はは……まぁ、そうでしょうね……」

「ですから、この一件に関しては、報告を控えます。こんなことを報告したが最後――王命すら無視して、城を抜け出してここまでやって来かねないので」

「ハハハ……」


 過保護な婚約者の姿を思い浮かべれば、もう乾いた笑いしか出てこない。


「団長がこちらにやってくるときは、良しなに口裏を合わせてくださいね」

「わかりました。全く……カルヴァンも貴方も、心配し過ぎです」


 後ろ頭を軽く掻きながら、イリッツァはぼやく。

 聖女と同じ空間にいることが不敬だ、という観念については目をつぶってもらうしかないが――リオがイリッツァを襲ったりしないか、という心配に関しては杞憂以外の何物でもない。

 いざとなれば、一瞬で人を昏倒させられる光魔法もあるし、手を伸ばせば届く位置に剣もある。女である以上、力比べになれば分が悪いのは事実だが、それでも体術はそこらの兵士などよりよっぽど長けている自負もあった。

 王国最強と呼ばれるカルヴァンが無理やり襲って来ようとするのを、もう一年半もあしらい続けている実績もあると言うのに、一体何を心配すると言うのか。


「リアムさんはリアムさんに任された仕事を全うしてください」


 カルヴァンが授けた密命は、恐らく国家にとって重要な事項に間違いない。

 イリッツァはにこり、と安心させるように優しい笑みを浮かべてリアムを送り出す。

 何度も後ろ髪を引かれるようにしながら、それでも最後はリアムも観念したようだった。

 騎士が退室し、パタン……と小さく扉が閉まったあと、くるりとイリッツァはリオを振り返る。

 思わずじっと無言で見入ると、蒼白い冴え冴えとした月光の下、不愛想な男が怪訝な顔でイリッツァを見返した。


「……なんだ。さっきもそうだが――何か言いたいことがあるなら言え」

「ぅえっ、あ、は、はい。いや、どうというわけではないのですが――」


 じろじろと見てしまったのは不躾だっただろうか。眉を下げて、イリッツァはもごもごと言い訳を口にする。

 初対面の時からずっと、煙水晶の色眼鏡に隠れて見えなかった瞳は、本人の口調と同じくぶっきらぼうで不愛想で、ぎゅっと顰められた眉からは仄かに不機嫌であることを表している。

 しかし、眼鏡の下から現れた相貌は――そんな不機嫌な様子すら全く気にならないほどの――完全なる黄金比のみで形成されているのでは、と思うほど整っていた。

 あまりに予想と違う素顔に、イリッツァは困惑しながら正直に口を開いた。


「その――王都では、あまり見ない、瞳だったので」

「――――あぁ――……そうか。忘れていた。さっき仮眠を取った時、外したままだったな」


 イリッツァに言われて初めて、今、自分が色眼鏡を外していたことに気付いたらしい。

 じろじろと見られることに合点が言った、というように苦い顔でリオが呟く。


(すげ――こんな混じり気のない瞳の色って、初めて見た……)


 不躾だとわかっていても、吸い込まれるように視線が寄せられてしまうのを止められない。

 煙水晶で隠されていた息を飲むほどの美丈夫の双眸は――


 ――――深い深い、紅玉の色を宿していた。

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