不安のかげ

 そして、次の日。

 教室にはやっぱりつむぎちゃんが先に来ていて、そして一人で何をするでもなく自分の席に座っていた。何となく、みんなに遠巻きにされているように見える。急に魚沼くんにべったりになったせいだろうか、いつものグループどころか、ほかの女の子たちからも冷たい目で向けられている。

 声をかけよう。自分の席にランドセルを置いて、深呼吸をする。でも、なかなか最初の一歩が踏み出せなかった。ただつむぎちゃんに話しかけるだけなんだから、緊張する必要なんてないと心臓のあたりを手で強く押さえつけた。

 しかし、一歩を踏み出そうとしたところで、つむぎちゃんが勢いよく立ち上がった。そして、その先には登校してきたばかりの魚沼くんがいる。彼は笑いながらちょっと困ったように身を引いていた。しかし、そんなこと関係ないとばかりにつむぎちゃんは話しかけ続けている。

 どうしよう。ああやって話しているところに割り込んで、声をかけようか。

 迷っているところで、手を引かれた。そこにいるのは、いつものグループの女の子たちだった。


「なんかやばいよ、つむぎちゃん」

「近づかないほうがいいよ」

「あっち行こう」

「……あ」


 私は引かれるがままその場を離れた。みんなに呼ばれたからしようがない。だから、話しかけられなかっただけ。今はまだタイミングが悪いから。そうやって自分に言い聞かせた。

 でも、時間がどんどん過ぎていくにつれて、心がぞうきんしぼりをされるようにきりきりと痛んできた。全然話しかけられない。のどがつまって、声が出ない。

 もう放課後のそうじの時間になってしまった。掃除が終わったら、もう帰るしかない。話しかけるのは明日にしてしまうおうか。でも、それで本当にいいんだろうか。ほうきを両手で強く握りしめながら教室のすみをはいていると、ちりとりを持ったつむぎちゃんが一人で教室を出ていくのが見えた。

 私はあわてて追いかける。


「つむぎちゃん!」


 その背中に声をかけるが、全然立ち止まってくれない。ちょっと足が止まりかけたが、先生に怒られるかもしれないと思いながら廊下を走って、階段のところでようやくその手をつかんだ。


「待ってよ、つむぎちゃん!」

「……なに? 私、そうじがあるんだけど」


 振り返ったつむぎちゃんは、段差のせいで頭二つ分ぐらい高くなっている。上から見下ろしてくるその顔がとても冷たいように思えたけど、手を離してしまったら行ってしまうかもしれないともう一度その手をにぎり直した。

 走ったせいで乱れた息をちょっと整えて、言いたかったことを言葉にする。


「どうしたの、つむぎちゃん? 何かあったの?」

「……何の話?」

「だって、いつもと違うから。みんなも、その、びっくりしてるよ。困ったことがあるなら、私は友達として助けになりたいと思って――」

「あなたとは友達じゃない」


 きっぱりと言い切られて息が止まった。そのときにぶんと力強く腕をふられて、思わず力をゆるめて手をはなしてしまった。そのまま、つむぎちゃんは何事もなかったように階段を上ろうとしている。


「ま、待ってよ、つむぎちゃん!」

「……しつこいよ。そうやって、あなたがしつこいから今まで付き合ってあげてただけ。私は一度だって、あなたと仲良くしたいなんて思ったことがないから」


 つんと鼻の奥が痛んで、あわてて顔を伏せて奥歯をかみしめた。波が収まるまでぎゅっと階段の手すりをにぎって、自分の目からあふれ出しそうになるものを必死でこらえる。波が収まったときには、目の前にはもう誰もいなかった。

 そこからは、なんだか足元がふわふわと落ち着かなかった。ふらふらと自分のそうじ場所に戻ると、同じ班の子に怒られてしまった。でも、怒っているその声もどこか遠くに聞こえる。掃除が終わって、先生が帰りのあいさつをしているときもぼうっとしてしまって、自分のランドセルを眺めることしかできなかった。

 下校時間になって何人かに声をかけられたけど、適当に返事をして、私は一人で帰り道を歩いていた。ぼうっとして何も考えなくても、足は勝手に動いてくれる。でも、途中でなぜかぴたりと足が止まった。どうしてだろうと首をかしげて、目の前が分かれ道になっていることに気がついた。つむぎちゃんと分かれる道だ。つむぎちゃんは、いつも何度も立ち止まって、ふり返って、そのたびに大きく手をふる。私はちょっとはずかしくて、だけどつむぎちゃんの姿が小さくなるまで、手をふり返して見送る。

 私は友達をつくるのがへただ。どうやって話しかければいいのかわからなくて、一人でいることも多い。だけど、今の学校ではそんなことなかった。初日から、つむぎちゃんが一緒にいてくれたからだ。

 もう、あの日のこともわすれちゃったのかな。つむぎちゃんから、一緒に帰ろうって言ってくれたのに。それとも、私が勝手にそう思ってただけなのかな。やっぱり変だ。まるで、つむぎちゃんじゃないみたい。

 はっとした。

 本当に、あれがつむぎちゃんじゃなかったらどうしよう。


「そんなことあるわけない」


 声に出して言ってみると、逆に本当にそういうふうな気がしてくる。だって、急に変わってしまったから。つむぎちゃんはあんなこと言わないし、みんなも変だって言ってる。それとも、私がそう思いたいだけだろうか。だって、普通そんなことありえない。おじさんと一緒にいて変なことばっかり起こるから、私も変なふうに考えちゃうだけ。でも、もし本当にそうだったら。

 私は自分の家への道から外れて、駅の方へと走った。

 こんなの誰も信じてくれない。かん違いかもしれない。でも、おじさんなら話を聞いてくれる。

 何人かとぶつかりそうになりながら、信号機の赤にいらいらしながら、私はおじさんのお店へと向かった。表通りから脇に入ってそのまままっすぐ行くと、いつもどおり周りから浮いてしまうほど古い外観が現れる。

 金魚鉢の横を通り抜けて、そのままずんずんと店の奥に進む。ばらばらと後ろで本が崩れる音がしたけど、今は振り返られない。本棚の奥のカウンターで、おじさんがいつものように本を読んでいた。


「おじさん」


 ちょっとだけ声がふるえた。すると、めずらしく声をかけてすぐにおじさんが顔を上げた。

 カウンターをくぐって、もう一度おじさんの前に立った。頭がじんじんと熱かった。


「おじさん」

「どうした?」

「……どうしよう。おじさん、私、どうしようっ」


 こちらを向いて見上げてくるおじさんを前にしているうちにがまんができなくなって、そのお腹のあたりに自分の頭を押しつけていた。そんなつもりなかったのに、目から次から次へと流れていくものがシャツをぬらしていく。息がしづらいからいやなのに、全然止められない。しゃっくりを上げて、自分でも混乱してよくわからないままおじさんに全部話した。おじさんは聞き返すこともせずに、ただうんうんとあいづちを打ちながら聞いてくれた。

 胸の中のもの全部話してしまうと、やっと少しだけ落ち着いた。体を起こすと、おじさんのシャツの一部がぬれて、色が変わっていた。


「……ごめんなさい、おじさん」

「清夏は、べつに悪いことを何もしてないだろう。しかし、ちょっと水分を出しすぎたな。頭は痛くないか? 水筒があるなら水を飲みなさい。それとも、ジュースでも持ってこようか?」

「……ジュースがいい」

「わかった」


 水筒にまだお茶は残っているけど、何となくあまえたくなってジュースがいいと言った。おじさんが奥の部屋へと行っている間にと目の下を手でぬぐっていると、ふと視界のはしに動くものがあることに気がついた。ぱっと見ると、本棚の横にひっそりと置かれている脚立代わりの小さな古いいすに魚沼くんがランドセルを膝に抱えて座っていた。


「なっ、なんでいるのっ!」

「ご、ごめんって! 俺も、まさか半間がこんなふうになっているなんて思ってなくてっ!」

「どうした、清夏?」


 もどってきたおじさんの手にはグラスに入ったジュースが2つ。おじさんに手招きされて、魚沼くんもカウンターをくぐってこちらにやってきた。最近、私たちがよく来るからといって、おじさんの家にはジュースが常備されるようになった。

 自分に渡されたジュースをがぶっと一気に飲み干して、もう一度魚沼くんを見る。


「いつからいたの?」

「いつからって言うか……」

「最初から2人で来ていただろう? 清夏が落とした本を片づけてくれたのは、魚沼くんだぞ」

「それは、ありがとう、だけど。……え、最初から?」


 私がおじさんの言葉を聞き返すと、ジュースを飲んでいた魚沼くんが飛び上がるようにした声を上げた。勢いをつけすぎてむせてしまったようで、げほげほとせきをしている。


「その、半間に話があって、途中で追いかけたんだよ。そしたら走っていく姿が見えたから、俺も追いかけていって、この店に来たのはほぼ同時だった、と思う……」

「最初から見てたんだ……」


 さっきまでの自分を思い出して、じわじわと首のあたりが熱くなってくるのがわかった。魚沼くんが気まずそうにジュースを飲んで、こちらの視線から逃げている。魚沼くんにだけは見られたくなかった。

 しかし、おじさんに肩をぽんとたたかれたので、じわじわと首から上がっていく熱は一旦冷ますことにした。


「まぁ、それはいいとして、何の話があったの?」

「その、千谷のことで」

「つむぎちゃん、のこと?」

「最近、千谷って俺によく話しかけてくるだろ? でも、なんか様子がおかしいし、仲がいい半間にちょっと話を聞こうと思って……」


 魚沼くんはつむぎちゃんと話したことはほとんどなかったけど、それでも急に話しかけてきて、休み時間もずっとついてくる様子に何かおかしいと思っていたらしい。帰りにまでついてきそうだったつむぎちゃんをふり切って、事情を知っていそうな私に声をかけようと追いかけてここまで来たらしい。事情なんて、魚沼くんよりも私のほうが知りたい。

 ぎゅっと膝の上で手を強くにぎる私に、横からおじさんが声をかけてくる。


「千谷さんというのは、さっき清夏が言っていたつむぎちゃんのことか?」

「そう。つむぎちゃん、変になってからずっと魚沼くんにばっかりで。ほかの子、私とも、全然しゃべってくれなくなっちゃって。気のせいかもしれないけど、なんか別の人みたいっていうか、本当に別人になっちゃったんじゃないかなって」

「そうか。清夏がそう思ったのなら、その可能性はあるかもしれない」

「……うん」


 おじさんが私の話にうなずいてくれて、ものすごく安心して、また目の奥が痛みそうになるのをぐっと我慢した。

 ふと声が聞こえた気がした、お店の入り口からだ。

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