3話 氷の姫と手を繋ぐ?

「――恋人らしいこと、ねぇ」


 柚子川の右隣を歩く俺は頭の後ろで手を組みながらつぶやく。


「私、今まで一度も付き合ったことがないんです。だから恋人を演じようにも、どういうことをしたらいいのかよく分からないんです」

「お前、付き合ったことないのか? 一回も?」


 予想外の言葉が柚子川の口から出てきて、思わず眉をひそめてしまう。

そういえば、屋上でもそんなことを言っていたような……。


「えぇ、そうですけど……何かありましたか?」

「お前の場合、何回か付き合ってると思っていたんだが」


 性格はともかく、それ以外は多分一つの欠けもない準完璧美少女が一回も付き合ったことがないなんて。

 漫画や小説の世界ではよくある話だが、まさか現実にいるとは思わなかった。


「私の場合、他人ひとを好きになれないんです。一方的な好意を向けられても鬱陶しいだけですし、だから私は今まで恋人というものをつくってこなかったんです」

「そう……か」


 思わず言い淀んでしまった。


 柚子川の瞳が、光を遮るように伏せられている。

 その姿はどこか儚く、まるで迷子の子供のような脆さを醸していた。


 迂闊に出す話題ではなかったか。

 ……失敗した。


「どうかしましたか?」


 俺の視線を察知したのか、柚子川は自然に伏せていた瞳を上げて先程の雰囲気を消す。


 悟られたくない、か。


「いや、何でもない」


 俺は柚子川の雰囲気に気付かなかったふりをして、彼女に下げていた視線を前方に向ける。


 他人を好きになれないのは、きっと過去に何かあったからなのだろう。

 ただ単に自分の好みに合う人がいないのであれば、あんな表情は出来ないはずだ。


 そして、ここは俺が触れるべき所じゃない。

 というよりも、


「……分からないんだったら、実際にしてみるか?」

「実際にしてみるって、何をですか?」


 柚子川のそんな問いかけが聞こえると、俺は黙って左手を差し出す。

 差し出された彼女がそれに戸惑いを含む眼差しを向ければ、ゆっくりと俺へ視線を上げた。


「えっと……これは」

「したくなかったら無理にしなくてもいい。というか、確かにしないほうがいいな」


 居たたまれない雰囲気を変えるためにやろうとしたことだが、確かにこういうことは軽率にしてはいけない。


 また失敗した。


 考えを改めた俺は差し出した手をすっ、と引っ込める。


「何故やめてしまうんですか?」

「こういう恋人同士がするようなことは、本当の好意を持つ相手とするものだ。ただの他人である俺とすることじゃない。付き合ったことがないってことは、こういうのも俺が初めてになるんだろ? 初めては、お前が本当に好きになった奴のために取っておけ」

「っ……」

「まぁ、一緒に帰ってるだけでも十分恋人同士に見えるだろうよ」


 俺は再び頭の後ろで手を組んだ。


 容姿端麗で文武両道な所謂「高嶺の花」と呼ぶことの出来る柚子川と、平凡以下な俺とでは立場が違いすぎる。

 俺なんかが彼女の初めてにはなれない。


 それに、今俺が彼女の隣にいられるのは偽物の恋人を演じているからだ。

 その場しのぎとはいえ、ある程度の信頼を俺に置いてくれているであろう彼女を裏切るのは良心が痛む。


 好意を持っているわけではないが、こういうことをするとなると流石に意識せざるを得ない。

 俺がを嫌っているとしてもだ。


 だから俺は彼女から身を引いたのだが……


「……私は、別にいいですよ?」

「はっ?」


 無表情だが僅かに目を泳がせて突然そんなことを言い出す柚子川に動揺を隠せなかった。


「いや、俺は初めてをその後に取っておけって言ったんだぞ?」

「それは聞き取れました」

「じゃあどうして……」

「結局、私は誰かに好意を持つことなど出来ないんです。なので柊君がどうしてもしたいと言うのだったら、別にしてあげなくもないという話です」

「ちょっと待て。いつ俺がお前と手を繋ぎたいなんて言った」


 そんなの一言も言った覚えがないんだが?


「そういうことじゃないんですか?」

「そういうことじゃねぇよ」

「じゃあ、どういうことですか?」

「そ、それは……」


 恋人を演じたいが、どういうことをしたらいいのか分からないと言ったのは柚子川だ。

 そして「だったら実際に恋人がしているようなことをしてみるか?」と誘ったのは俺。

 だが、その誘い文句は居たたまれない雰囲気を変えようと出した無理矢理なもの。

 理由としてここで上げるのには少々弱い。


 なら、どう理由付けるのが正解だ……?


「……ほら、やっぱり柊君がしたかっただけじゃないですか。なんですか私に惚れでもしたんですか気持ち悪いですね」

「話を飛躍させすぎだ! そもそもとして、俺はお前と手を繋ぎたいだなんて言ってないし、そう考えたこともない! お前に惚れたことも否定させてもらう!」

「じゃあ何故私の問いに答えられないのですか?」

「分かってるくせに。そんなに俺をからかうんだったら別れるぞ」

「そ、それは嫌です」

「だったらやめろ」


 自分の立場をしっかりとわきまえていたらしい彼女は、俺が別れの話題を切り出すとすぐに折れた。


 柚子川だって分かっているはずだ。

 俺が彼女に惚れていないことくらい。

 彼女の頭脳だったら容易に理解出来るはずだ。


 ……まぁ、からかわれるくらいには信頼されているということなのか。

 いつの間にそんな信頼を勝ち取ったのかと気にはなるが、ギスギスした関係になるよりかはずっといい。


 だが、なんか疲れたな。

 久々に大声を出して言い合ったためか、俺は大きくため息をつく。


「……す、すみません」


 突然の謝罪の声に思わず視線を向けると、さっきまで呆れた表情をしていた柚子川は申し訳無さそうに眉尻を下げていた。


「氷の姫でも、ちゃんと謝れるんだな」

「わ、私をなんだと思ってるんですか。あとその『氷の姫』というのはやめて下さい」

「ん、それは悪かった。謝る」

「意外とあっさり引くのですね……」

「だって、言われてあんまり嬉しいもんじゃないだろ?」

「……なんですか、柊君はさとりか何かですか」

「俺を妖怪扱いするな。これくらい考えたらすぐ分かる」


 氷の姫というあだ名は、柚子川にとってはありがたくないあだ名だろう。

「氷」は言うまでもなく、「姫」というのも言われて心地良いかと問われれば、俺は首を横に振る。


 それに表情が表情だったからな。

 羞恥を見せながらもどこか苦しそうで、複雑な顔をしている柚子川をからかおうとも思えない。

 不釣り合いにも感じるが、これで貸し借りなしということにしておこう。


「……それで、手は繋がないんですか?」

「そういや、そんな話もしてたな。お前からその話題を掘り返してくるってことは、お前の方こそ俺と手を繋ぎたかったんじゃないのか?」

「思い上がらないでください。私はあくまでそのような経験がないからしてみたかっただけです。別に、しようと思えば柊君以外とでも出来ます」

「分かってるよ、今言ったのは冗談だ。俺自身、そこまでお前に好かれているとは全く思っていない」

「よく分かってるじゃないですか」

「話せば話すほど腹が立つ奴だな……そんなにしたければ、早くこの手を取ればいいんじゃないですか」


 仏頂面でここまで煽られると、流石に堪忍袋の緒が切れるというもの。

 もう一度左手を差し出して柚子川を困惑させようと考えた俺は、早速それを実行に移す。


 ……しかし、俺の思惑通りにはいかなかった。


 白く華奢な手が俺の指先をそっと握る。

 握るというよりも、指先でそっと挟んだといった方が正しいだろう。

 屋上で腕を掴まれたときは気が付かなかったが、彼女の指先はとても触り心地がよくすべすべとしていて、ほんのりと暖かい。


 挟むまで躊躇ためらいはなかったものの、いざその手が俺の指先を挟むと緊張ゆえか小刻みに震えだした。

 その震えに応えるように、俺の心臓も鼓動の速さを増す。


「……そんな緊張するな。俺まで緊張する」

「そ、そんなことを言われても……無理です」


 どこまで初心うぶなんだと悪態をつきたくなるが、初めてなのだから初心で当たり前か。


 最早何度目か分からないため息を彼女に気付かれないようにそっとつくと、まだ指先しか挟めていない彼女の手を優しく握り返した。


「っ……」

「ごめん、いきなりだったな」


 握り返したことで大きく震えた彼女に、俺は申し訳無さを感じて謝る。

 だが……。


「別に、大丈夫ですよ」


 さっきまでの尖った声ではない、丸みを帯びた声が俺の声に呼応した。


 ある程度時間が経ったからか彼女の震えはもう収まっている。

 そのせいで、すべすべとした小さな手により一層意識が向いてしまった。


「その……どうだ?」


 気を紛らわそうとした俺は、逸していた視線を再び柚子川に向けながらそれとなく感想を聞いてみる。


「どうだ、とは?」

「手を繋いでみての感想」

「それは……」


 少しだけ頬を赤らめた後、そこで初めて口元に薄っすらと笑みを浮かべながら、


「……とても、安心出来ます」


 柔らかい声で言った。


「……なら、良かった」


 ……いや、良くはないんだけどな?

 結局柚子川の初めてが俺になってしまったし、ここまで緊張するとは思わなかった。

 俺は別に初めてではないのに、まるで柚子川の緊張がそのまま伝わってくるように体が強張ってしまう。


 ……まぁ、柚子川が笑ってくれたからよしとするか。


 手を繋いでいることに集中していたからか、俺たちはいつしか帰路をたどる足を止めていた。

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