第14話 私の役目ってのは

「一朗、いくら何でも早すぎでしょ」

「終盤になってあわてるのやだから」


 七月三十一日だというのに、一朗の宿題のドリルはもう8割近く黒くなっていた。 

 いつもの事とは言え、早すぎだ。


「二学期のはじめのお兄ちゃんって本当ひどいよね」

「お前だって人の事言えるかよ、去年の八月後半どうしてた?」

「それは、お兄ちゃんがグダグダしててかわいそうだからなと思っただけで」

 一方で萌は八月三十一日まで宿題をため込んでひいひい言っていた。

 でも後で楽をするために先に全てを片付けてしまうのも、最後になんだかんだ言ってきっちり合わせて行くのもやり方と言う物だろう。その点では、どうやら一朗は私に似たらしい。

「まあとりあえず、夏休みが終わる間際にはきちんとエンジンをかけられるようにしておきなさいね」

「はーい」

 一朗はそう言いながら残り少ないドリルをまためくろうとし、萌に引きずられて外に連れて行かれた。今日もまた、雄三とかなたといっしょに公園ではしゃぎ回るのだろう。

 私は運動が苦手だったわけではないが、決して活動的ではなかったつもりだ。家に籠って本を読んだり勉強したりしている方が好きだったはずだ。でもあの小学校時代の一件からはほぼ一つの方向に向かって進む事ができるようになり、その結果ある意味活動的になれた。それまで平均レベルだったらしい私の成績は急浮上したが、父母はそれを歓迎しなかった。


「でもお母さんだって萌みたいにあわててた口でしょ」

「そうなのよねえ、八月下旬はもう大変で大変で」

 三十二歳でいられるのも、あと2ヶ月。

 それなりには年を取り、世間ずれもして来たつもりだ。だから娘の前で、こんなウソも平気で吐けるようになった。その分だけ、大人にもなれたのだろうか。

「おかあさんでんわ」

 私が奇妙な感慨を抱いていると、かなたが右手を動かして私を呼んでいた。十年前から耳慣れた音が私を呼びつける。私がかなたの導きに従い受話器を取ると、そこから耳慣れた同性の声が聞こえた。

「もしもし久しぶり」

「浅野さん、お久しぶり」

 大学の同級生の浅野さんだ。最近はこっちが子育てにかまえているせいか会うたびに久しぶりになっているが、それでも大学時代はお互い暇を盗んで海や山に出かけたりもした。私が義母の試練を受けるようになってからはドタキャンが増えたが、それでも結婚式にも来てくれたし出産祝いもくれた。お返しもその都度して来た。対面となると一年ぶりだが、また子供を産んで五児の母となった私の事をどう思うだろうか。

「同窓会出ないんだって?」

「ええ、だって二週間前にひろみを産んだばかりだし」

「あらまあ、また産んだの!?」

「そう、これで五人目。可愛い女の子よ」

「あなたもすごいわね」

「浅野さんは」

「未だに縁なし、あーあどうしてなのかしらね。子どもにはずっと囲まれっぱなしなのにねアハハ」

「忙しいの?」

「そのせいかなー」

 友人とは言うものの、私がドタキャン続きだったように浅野さんも保育士を目指しての勉強に忙しくなり四年生の時は会話すらまともになかった。それが今でもこんな付き合いを続けていられるのは義母のおかげだ。一朗や萌を産んだばかりの時も浅野さんとの都合だけは優先してくれた。

「実は私もその日欠席でね、二人だけでの同窓会でもやらない?」

 もっとも私自身子育てにかまけがちでそれほど真摯な付き合いでもなかった気がするが、それでも友人でいてくれるのだからありがたい存在だ。今後はもっと真摯に付き合う必要があるだろう。だが今の私は五児の母だ、その立場もわきまえねばならない。




「浅野先生に会いなさいよ」




 義母の返事は即答かつダイレクトだった。

「あなたと一緒にいるからね、子守りなんてもう慣れっこよ」

「ひろみは」

「一朗からかなたまで、四人の赤ん坊を見て来たのよ。それ以前には息子まで、あなたほど濃くはないけど私だって十分この道の達人よ」

「でも……」

「もし娘が二人いたとして、長女はあなたのような娘がいいわね。でも次女だったら浅野先生のような人が一番よ」

 義母は結婚式の時以来浅野さんと一度も会っていない。たぶん、その時から印象は変わっていないだろう。結婚式の時の浅野さんは、ものすごくきれいな目をして私と夫を見つめていた。友人代表と言う名目で慣れない挨拶もしてくれたし、義父母とも親しかった。その反面、なぜか実父母とはあまり話していなかった。


「浅野さんはね、あなたにない物を持ってる気がするのよ」

「私にない物ですか」

「あなたはケンカってして来た?」

「覚えがありません」

「私はあなたとのケンカに負けたのよ」

「もしかして夫との恋人時代ですか」

「ええ、あなたは私に力の差を見せつけた。でも浅野先生はそんな事しないしできないと思う。私のようないじわるな姑と一緒に暮らす事になったらと思って逃げちゃうわ、ってかその方が普通で賢明よ」


 普通で賢明。賢明であるという事は一般的にプラスの特性のはずだ。

 それを持つはずの浅野さんがなぜ結婚できないのだろうか。

 そして普通という単語だ。

 私が普通と言われることは、めったにない。

 自分としては普通に結婚したはずなのに二十二歳大卒後すぐ結婚とは相当に早いと言われるし、自分たちなりに子どもを作ろうとして作っただけなのに五人も産んだのかと言われる。

 何歳で結婚し、何歳で子どもを何人産むのが普通なのか。その基準を問おうとするとたいていみんな言葉を濁してしまう。

「あなたのお母さんに結婚式の時言われた言葉忘れられないわ、幼い娘ですけどって言葉。確かに二十二歳だけど決して幼いって程じゃないはずでしょって言ったけど、正直今になって思うとね」

「未熟って事ですか」

「まだ三十二歳のあなたに言ってもしょうがないと思うけどね、あなたには全く涸れる気配ってのがないのよ。そのせいで私まで何か息を吹き返し始めてるけれど、そんな人間はたぶん一握りよ。浅野先生はあなたと違って激しくないから、正反対のタイプだから合うと思うの」

 私は浅野さんと似ていないとは思っているが、正反対と言うほど違うとも思っていない。真面目とか言う点で言えば、浅野さんの方がよっぽど真面目だと思う。私のような、人との付き合いが雑な人間と仲良しでいられるのも真面目だからなのだろう。

 一応隣の家の人たちとはそれなりに仲良くしているつもりだが、奥田さんや牛沢さんなどは明らかに私の事を気に入っていないようだ。全員から好かれようだなんてずうずうしい事は考えちゃいないが、それにしても自分なりに誠意をもって動いているはずなのになかなかうまく行かない。

「気分転換、リラックスしろって事ですか」

「たぶんあなたはリラックスできないでしょうけどね」

「でしょうね」

 まだ若いから、で済ませるには私は疲れない部類に入ると思う。朝起きて食事(夏休みなので今はお弁当はない)を作り、それを片付けて今度は洗濯を始め干しながら昼食で、そして洗濯を取り込み終わると今度は買い物、それが終わると今度はおやつ、そして夕食の準備。さすがに最近お風呂の焚き方は一朗に教えているが、それでもガスの元栓を閉めさせることだけは忘れさせない。それが今日も明日も続く訳であるが、洗濯をしなかったり掃除をしたり買い物に行かなかったり、そういう細かい違いがあるからワンパターンな生活をしているという気持ちは沸き上がって来ない。それ以上に子どもたちと夫と言う存在のせいで、かなり似たような日が何日も続いた所で微妙な違いは確実に存在する。


 子どもたちに何を食べさせようかな、どんな服を着せてあげようかな、そのパターンだけでも飽きずに考えられる。もちろん財布の中身ありきの話なので何もかもとは行かないが、その限られた範囲で考えるのもまた主婦の技量であり楽しみでもある。

 三月のPTAの後奥田さんの誘いを断ったのは、ひろみもさることながら一朗たちの事も大きかった。甘やかしているつもりも、拘束しているつもりもない。自分ではそれなりに硬軟取り混ぜているつもりだし、義父母や夫からの評判も悪くはない

 。奥田さんからはともかく、他の子どもたちの同級生や先生たちからの子どもの評判もさほど悪くはない以上、このやり方を変える理由もその気もない。何よりそうやって子どもの事を考えていると、そうでない時よりやけに頭が回る。緊張していれば頭は回りにくくなるはずであり、リラックスなどできるはずもない。

「ひろみが独り立ちした後のことぐらいは考えておきなさいよ」

 もし私の心の安定が子どもたちに依存した物だとすれば、なるほど危険かもしれない。でもいくつになっても子どもを守るのは親の役目ではないのだろうか。どんなに年長になろうとも最後まで私だけはお前の味方だよと、瀬戸際まで守り切るのが親の役目だろう。

 だから私は程度は変わるかもしれないが、結局最後まで子どもに依存するだろう。それが親だから。とにかく義母の了解を取り付けた私は浅野さんに折り返しの電話をし、了解の旨を伝えた。

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