ただの人間とただの人間に擬態する化物の見分け方

黒羽椿

3月28日

 十代のうち、特別で大きな分岐路になるイベントと言えば、大体の人が受験をあげると思う。高校受験や大学受験などの選択は、これからの人生にとって大切な節目であり、とても大切なものだ。とは言っても、大学はまだしも高校をそんな風に考えて決める人はあまりいない。


 それは、僕の高校受験の経験を踏まえての考えだ。もちろんどんな所にも少数派はいるもので、きちんと将来について考えて進路を決めた人も中にはいるのだろう。だが、進路を決めるのは14、5の子供なのだ。むしろそんな熟考できる方が珍しい。


 そんなわけで、御多分に漏れず僕も進路をそんな風に選んだ。実家から通うには遠すぎる場所を、偏差値だとか進路の豊富さだとかでごまかして、進学を決めた。もちろん理由はそういった高尚な理由ではない。ただ、実家にいることが苦痛だったからだ。


 僕、上沢慶斗かみさわけいとには、慶花けいかという妹がいる。彼女を一言で表すのなら、才色兼備、という感じだ。そしてスペックだけでなく、一つしか年が違わないだけの自分を兄と慕い、なにかと僕のことを立ててくれるという、非の打ちどころの無い自慢の妹だ。


 しかし、僕は妹から逃げた。決して慶花が悪いわけではない。ただ僕が彼女の近くに立ち続けることを苦痛と感じてしまっただけだ。僕の両親は自他共に厳しい人で、その子供である僕にはそれなりの期待が幼いころから寄せられていた。その時の自分は、そういった期待を素直に受けて、いろいろと頑張った。


 学校では成績を上位に保ち続けた、書道やピアノ、これから必要になるからと英会話教室にも通った。そして、それなりの結果を出した。無論、手を抜くなんて当時の僕には考え付かなかったし、どんなことも全力で取り組んだ。


 最初は、両親も僕のことを自慢の子だと言ってくれた。けれど、慶花が僕の後を追うように同じことをし始めると、僕以上の結果を出してくる。僕は成績が上位三番以内だったが、彼女はいつも一番だった。僕が銀賞しか取れなかった展覧会やコンクールで、彼女は金賞や最優秀賞を取ってくる。


 いつしか、両親は妹ばかりを褒めたたえた。代わりに僕には、慶花はあんなに出来るのに、どうしてお前はダメなんだと、失望に近い声色で、そう言った。けれど、一番嫌だったのは、慶花だけがそういったことを一切言わなかったことだ。


 「兄さんはすごいです。 私よりも、ずっとずっと」


 兄さんはすごい、兄さんを誇りに思ってる、誰が何と言おうと兄さんは私の憧れだと、そんな慶花の言葉を素直に受け取れない自分が、なにより嫌いだった。いっそのこと、彼女も両親と同じように失望してくれれば、幾分かマシだったのに。


 自分の能力不足を、妹に責任転嫁する自分を直視したくなかった。習い事も全部やめて、そこそこの成績を手を抜いて取る。そんな自分さえ受け入れてくれる慶花に、迷惑をかけたくなかった。


 だから、慶花の優しさに甘えるのは、やめることにした。彼女も家に出来損ないの兄がいては、やりづらいだろう。彼女は兄さんが嫌なら、いい成績を取るのをやめるとまで言うほどに、優しい子なのだ。これは逃げではあるが、僕が慶花に出来る最善の行為だと、そう思うことにした。


 両親には色々な建前を作って、説得することは出来た。それなりの成績を出すことを条件に、一人暮らしをすることも許された。その話の最中でさえ、慶花を引き合いに出されるのは不愉快だったが、必死に我慢した。


 ただ、慶花が猛烈に反対したのは意外だった。彼女が本当に自分のことを慕ってくれているのだと、少し決心が揺らいだが、やはりこうするのが一番だろう。


 さて、こうして僕は一人暮らしを、慶花と比べられることのない生活を手にいれたのだ。そして僕は、ある不思議な体験をすることになる。それはきっと、高校受験なんかよりも大切で、僕の人生にとって大きな分岐路だったのだろう。僕は、あの選択を全く後悔などしていない。


 ことの発端は中学の卒業式後、新居にも移り、家具や最低限の電化製品を揃え、家族が家に帰った3月28日のことだ。


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 「兄さん? 聞いてますか?」


 「あぁ、ごめん。 なんの話だっけ?」


 「もう! 今日の夕飯は何を食べたのかと聞いているのです」


 両親が帰ってから数時間後、近くのスーパーや駅前などを散策して、あまり家では食べられなかったコンビニ弁当やホットスナックを買って堪能していると、慶花から電話がかかってきた。確かにいつでもかけてきて良いとは言ったが、今日のうちに電話してくるとは予想外だった。


 「えっと、近くのコンビニで買った弁当だよ、のり弁って結構美味いんだな」


 「そうですか,,,一人暮らしで大変だとは思いますが、適度に自炊もしてくださいね? なんでしたら、夕飯を作りに行きますので」


 「いやいや、往復で何時間かかると思ってるの。いい機会だし、家事も適度にするよ」


 「けど、心配です。やはり今度、改めてそちらに行きますね。次は兄さんの家に泊まりで」


 「いいけど、母さんと父さんにちゃんと許可とってよね。 あの人たちは、慶花のことが特別可愛いだろうし」


 そう言ってから、しまったと思った。家では慶花に要らない心遣いをさせないように、こういった自虐発言は控えていたが、つい気が緩んで言ってしまった。


 「あ、いや女の子が泊まりに行くなんて、親だったら心配だろうし」


 「別に、あの人たちのことはどうでも良いんです。駄目だって言われても行きますし」


 「ほら、最近はこの辺も物騒だろ? 最近も市内で死体が見つかったってニュースでやってたぞ」


 僕が住む地域ではここ数か月ほど、外傷が一切ない死体が何件も見つかっている。それは年齢も性別もバラバラで、最初こそただの心臓麻痺だと思われていた。だが、同市内で何件も立て続けに起きるこの不可解な現象を、原因不明の殺人ウィルスだとか、呪いの力なのではとか、色々言われている。


 「そんなの関係ありません。 そもそも、あれは暇な人たちが偶然起きたことを面白おかしく騒ぎ立ててるだけです。それに、あれは夜中に起きることでしょう? 兄さんの家に行かない理由にはなりません」


 「それは知らなかった。でもさ、実際そういうことが起きてるのは事実だし、なんでもかんでも慶花にやってもらうのも,,,ね?」


 いくら兄の威厳などとうにないとしても、折角の一人暮らし。たまには妹のことを何も気にせずに、色々なことをしてみたいのだ。それに、慶花の足枷になりたくないから無理を通してここに来たのに、こうも彼女が僕に世話を焼いていていては意味がない。


 「,,,そうですか。兄さんは一人暮らしを私に邪魔されたくないんですね?」


 「違うって、別に邪魔されたくない訳じゃなくて、単純に慶花が心配なんだよ。今年度はそっちが受験でしょ? 僕にかまけてると、二人とも心配するって」


 まぁ僕とは違って慶花は苦手を見つけると、それを克服し、得意にまで昇華させるタイプだ。無論勉強においてもそれは変わらず、受験など彼女にとっては普段受けている模試と大差ないだろう。


 「それもそうですね。でしたら、今度兄さんに勉強を教えてもらうことにします」


 「え? いやいや、この前模試でほぼ満点だったのに、これ以上何が分からないってのさ」


 「いいんです、兄さんの様子を見に行くことが目的ですから。では、そちらに行くときにはあらかじめ連絡するので、無視しないでくださいね?」


 「あっ、ちょっと!」


 有無を言わせず電話が切れた。一人暮らしをしても、まだまだ妹の重圧は完全に無くならないようだ。だが、両親からのストレス攻撃から解放されただけでも良かったと思おう。テーブルの上のゴミを片付けて、動きやすいジャージに着替える。こういう時には、気分転換がてら、ランニングに向かうことにしている。


 これは、ここに来る前からの習慣だ。始めた理由は、出来るだけ家にいる時間を少なくするためという、またしても逃避のためだったが、続けてみると自分のペースで走るというのは、案外楽しい。


 外に出て、近くの公園へと走る。まだここの地理を全く把握していないが、自宅から走って数分のところに、わりと大きめの公園があり、そこにはジョギングコースという、朝方にご年配の方が走っていそうな場所があるのを確認していた。


 時刻は午後8時過ぎ。遠くから聞こえる自動車の音と、風で揺れる草や木の音しか聞こえない世界は、不気味さもあった。しかし、それ以上に新たな生活への期待で、不気味な風のうなる音すら気分を盛り上げるBGMに感じていた。


 だからだろうか、自動車の音に混じって不快な音が鳴っているのに、全く気付かなかった。公園に入ってすぐの場所に、それはいた。街灯の下に、幽霊のように何かを持って直立している。それだけならば、ただ不気味なだけだ。


 問題は、そんな不気味な状況に、さらに不気味なものが存在しているということだった。それは、認識出来ても、咄嗟には理解できなかった。いや、ただ単に僕は、それを頭で理解したくなかった。


 時間にすればそれは数秒だったが、そんなことは関係なかった。全身が強張って、逃げたいのに、逃げられない。理解できない状況に直面した時に、咄嗟に行動を起こせるのは、一体どれくらいいるのだろうか、のんきにそんなことが脳裏をよぎる。


 後ろ姿を見ると、腰辺りまである長い黒髪から、女性だと思われる。いや、今はそんなことは関係ない。それよりも、一刻も早くここから逃げ出すことが先決のはずだ。街灯の下の何かは、こちらにゆっくりと振り返っているように見える。それが分かった瞬間、全速力でその場から逃げ出した。


 「はっ! はぁっ! ぐっ!」


 全速力で来た道を戻る。沸騰した頭で先ほどの光景がフラッシュバックする。息切れと共に吐き気がしてきた、それでも走る。必死にその光景から目を逸らす、もうそれはいないはずなのに、震えが止まらない。


 遠くに聞こえていたはずの音も、今は風の音しか聞こえない。規則的なペースも、心地よい疲れもなく、ただ全力で体を動かす。途中、何度か転びそうになりながらも、なんとか玄関まで到着した。震えた手と霞んだ視界のせいで、鍵を差し込んで回すだけの単純な工程が、ひどくもどかしい。


 ようやく鍵を開けると、扉を開けてそこに体を滑り入れた。急いで鍵を閉め、ドアストッパーまでかける。そこまでして、ようやく呼吸が落ち着いてきた。玄関に座り込んで汗を袖で拭きながら、数分前の光景を思い起こす。


 もしかしたら、あれは勘違いかもしれない。しかし、それと同時に間違いなくそうであったとも思う。自分の中の常識と、目の前の現実とで、僕の脳はとっくにおかしくなってしまった。


 だってそうだろう。街灯に立っていた女性が持っていたもの、それが鋭利な刃物のように見えて、しかもその女性の足元に、人のようなものが横たわっていたなんて。それではまるで、その女性が手にした凶器で、惨殺したようではないか。


 ありえない。状況からすればそのように見えるかもしれない、だが彼女の手にしたものには血の跡などなかった、それに足元にいた人らしきものも、血の一滴だって出ていなかった。しかし、では何故あのような場所で、あれほどまでの異様な状況になるのか。


 そこまで考えて、僕は慶花との会話を思い出していた。外傷の無い死体、共通点はなく、発生しているのは僕のいる市内。状況だけは一致してしているようにも思えるが、そんな都市伝説まがいの事件にたまたま居合わせるなど、少し飛躍しすぎだろう。


 もう少しよく考えてみよう。ぐるぐるととりとめのない考えが巡る中、必死で論理を固める。自分が納得できるだけの真実を作るだけの簡単な作業だ。恐らくだが、女性が持っていたものは、反射で刃物に見えただけで、実は何か別のモノであったのでは? いやしかし、あれは確かに刃物だった、それに刃物と勘違いするような日常品を、僕は思いつかない。


 ,,,,,,止めよう。あの場面はきっと触れてはいけない気がする。どう見ても何か厄介ごとに類することだ。引っ越してきてまだ一週間も経っていないのだ、問題を起こせばこの一人暮らしも続けられなくなるかもしれない。


 世の中には見ても聞いてもいけない、アンタッチャブルというものが存在するものだ。このまま見ないふりをして忘れてしまえば、それは見ていないのと同じだ。そう結論付けて、玄関からリビングに入ろうとした、その時。


 突然、チャイムが鳴った。時刻はちょうど午後9時、少し不気味に思いながらも、インターホンのカメラの画面をゆっくりと確認しに行く。居留守を使う気満々で、モニターを見るとそこには、何処かで見た少女が立っていた。


 全身に鳥肌が立ったような気がした。そう、先ほどの公園に立っていた女だ。背丈も真っ黒な髪色も、すべてあの場にいた女性の風貌に一致する。俯いているせいか、顔はよく見えない。しかし実際のところ、そのまま居留守を使ってしまえばよかったのだ、そうすれば、いつかはこの女も立ち去っただろう。けれど、もう僕の頭の中は、すっかりと混乱していた。


 「はい、どちら様でしょうか?」


 混乱しきった頭で導き出した答えは、正体不明の少女の応対をする、であった。自分のことながら、何故そういった答えを出し、それを実行しようと思い立ったのか、全く理解できない。だが、この時の僕はそれが最適解だと結論付けた。


 顔は引きつっていたが、恐怖を感じていることを悟らせないために、なんとか声色は普段通りの声を維持した。モニターに映る女性は、ゆっくりとカメラに目線を合わせて、一言つぶやいた。


 「,,,見た?」


 「え,,,っと。あの、人違いじゃ,,,」


 「見た?」


 間髪入れずに同じ文言を繰り返され、少し冷静になった頭が、やはり居留守を使えば良かったと、激しく後悔し始めた。少女の顔は、極めて無表情だった。口が裂けているだとか、瞳孔が極限まで見開かれているだとか、そう言ったものでもない。だが、少女のその一ミリたりとも動かない表情は、状況も相まってどんなホラー映画よりも恐怖を感じさせた。


 「,,,だんまり、良くないです。私の質問は一つだけ、見たかどうかを聞いている」


 「,,,何も見てないよ?」


 「,,,そう。私は人の善意を極力信じるべきだと、そう考えている。だから、貴方のその言葉も、信じる。貴方は何も見ていない、そうだよね?」


 「はい、何も見ていません」


 「なら、いい。貴方は今夜、外に一歩も出ていない。私は貴方にただ、挨拶をしただけ」


 「はぁ,,,挨拶って、なんでそんなこと」


 思わずつぶやくと、少女は今まで全くの無表情だった顔を、見惚れてしまいそうなほど、にこやかにして、とても楽しそうにこうつぶやいた。


 「これからはお隣同士、仲良く、しようね?」


 表情が変わったのはほんの一瞬だけ。すぐさま無表情に戻ると、そのまま、彼女は本当に僕の隣の部屋に入っていった。


 結局、あの場で何が起きていたのか、最近頻発している噂との関連性はあるのか、あの少女は、いったい何だったのか。その疑問を一切解決できないまま、口止めされてしまった。お隣さんが、外傷の一切ない死体に何か関係しているのであれば、僕は、今とてもまずい状況になってしまった。


 お隣の少女との秘密。言葉にしてみれば随分とロマンチックな気もするが、実際は得体のしれない恐怖でときめきどころか、心臓がとまりかねない。


 一人暮らしを始めてすぐに事件なんて起こされてしまったら、それこそ慶花が両親を説得して僕を連れ戻してしまうかもしれない。それ以前に、僕が口封じのために永遠におしゃべりできないようにされてもおかしくないのだ。

 

 であれば、彼女に今後関わらないことが一番であろう。彼女も、今夜に関しては見逃してくれたようだ。ならば、彼女の言うとおりに、何も見なかったことにしてしまえばいい。

 

 こうして、引っ越し初日から謎の隣人の奇怪な秘密を見てしまった僕は、そんな風に軽く考えていたが、まさかこの少女、一上壱菜いちかみいちなと奇妙な春休みを過ごすことになるとは、この時の僕は、まだ知らない。

 

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