第7話 末路と異空間

伊上を異空間に突き落としてからしばらく、担任は一人で腹を抱えて笑っていた。

成績が飛びぬけて良いだけで、陰険で人の指示も意に介さない伊上のことを担任は毛嫌いしていた。彼女を制御できないことで他の教師に嫌味も何回言われたことか。

担任・狩藤克幸(かとう・かつゆき)は帝大を首席で卒業し、この海静高校に雇われて十年経つ。

勤めている間ずっと思い続けているのは、自身の意にそぐわない生徒は塵以下の愚者であり、同僚も皆学力の足りない阿呆だということだった。

勤続年数が長くなるほど、その思いは顕著になっていく。

元々プライドの高い狩藤は、頭の足りない人間にわざわざ教授してやっているという歪んだ認識で教師をやっていたのだ。

そんな歪みきった感情をうまく取り繕い、巧妙に人の心に入り込んで操作する。

全て自分の思うがままと高をくくっていたのだ。———伊上に会うまでは。

どれだけ操作を試みても、伊上には何も通用しなかったのだ。

伊上は狩藤のことが最初から眼中になく。強い言葉で言っても全てが暖簾に腕押しだった。それが狩藤には鼻持ちならず、常に駆逐する機会を狙っていた。

だが、伊上が隙を見せることはなかった。忌々しさがはち切れんばかりに膨れ上がっていた頃、異空間の出現が職員に通達されたのだった。

これはただの事故だ、と狩藤は嗤う。

榎木のように、希望を削がれるのだと思うと笑いが止まらなかった。

【ほんとに、下劣だね。最近の人って、なんでそう曲がっちゃうのかなあ】

「…は?」

はっきりと聞こえる、聞き覚えのない幼い少年の声。

旧校舎には誰もいないはずだと、狩藤は思わず周囲を見回す。

パノラマ写真を取るようにぐるっと体を回転させると、ちょうど背後に見慣れぬ少年が光の入らない目で佇んでいた。

見たことのない恰好だが、胸には間違いなくこの海静高校の校章が付いている。

「な、なんだお前は。その恰好、この学校の生徒ではないはずだが何故校章を付けている!」

【ぼくはずっと、この学校の生徒だよ。ずっとね】

少年が無駄のないヌルッとした動きで向かい合っていた狩藤の背後を取ると、人の体温とは思えないくらい、ひんやりとした手が肩に添えられた。

【勝手なことをしたんだ。だから、対価はしっかりもらうね】

「ふざけるn…」

文句を言って振りほどこうとした瞬間、狩藤の思考は真っ白になった。

何かが取られた。だがそれが何なのかは、狩藤には知る由もなかった。

【うん、自負するだけあって中々でかいね】

少年は拾得物を右手で手遊びのように転がしながら、ㇷッと煙のように消えていった。


一方、伊上は異空間の中を探索しようとしていた。

今いる位置は、まるで旧校舎が新築の時のもののような綺麗さではあるが、明かりはぼんやりとしか灯っていない雰囲気になっている廊下だ。

深夜の旧校舎をイメージされているのだろうか。

頭上を見ると、すぐ横は教室のようだ。表札には『一年二組』と真新しいものがかかっている。

木製の引き戸に手をかけると、やや突っかかるが開けられた。

廊下とはうって変わり、教室の中は日中の明るさになっている。

…何もかもが、昔に使われていたものだ。

机は全て木で作られた重いもので、やたら角ばっている。小学校の木工室にあったような、無骨なデザインだ。

黒板の今のようなカーブ型ではなく、木組みで作られた壁一体型。

少し使われた形跡はあるが、誰かが掃除したのか綺麗に黒板は拭かれている。

日直の所には『幕生』という名前が残され、もう一人いると思われる当番は消されていた。

床はフローリングではなく、木の板が綺麗に並べられたような作りだ。歩くとギュッギュという木が軋む音が鳴る。

窓下には生徒の物入れが設置されており、中に入っているものは概ね鉛筆とノートだけだ。

後ろの壁には習字の授業で書いたと思われる『軌跡』という字が一面に貼られている。それを見て伊上は思ったことがあった。

名前が皆、ひと昔前に流行ったものばかりなのだ。

例えば『スエ』や『ミサヲ』『ヤエ』というカタカナの名前。男子だと『源五郎』や『末吉』、『俊蔵』という名前の生徒がこの教室には在籍しているようだ。

日直の欄に書かれていた生徒のフルネームは『幕生蔦治』ということも分かった。

教室の窓からは、写真のように時間が切り取られた景色というものはあるが、変わることはなかった。

教室に意識を向けると、何やら嫌な気配が漂っている。誰かの呻きが聞こえてくるような、そんな空気なのだ。

『こんなの…あいつのせいで…!』

朝に聞いた変に自信のある声とは裏腹な、か細い声。

誰もいなかったはずのこの教室の床に、いつの間にか榎木が両足首から血を流しながら踏みつぶされたカエルのように這いつくばっていた。






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