第2話 意味がなくても困らない

 気がつくと、僕はギターを持っていた。どうして持っているのか分からない。けれど、もう持ってしまったのだから仕方がない。


 僕はギターは弾いたことがないから、綺麗に音を奏でることはできない。それでも音を出すことはできる。だから弦を指で弾いて、音を出してみた。


 一度、二度。


 水を指先で撫でるように、そっと。


「いいじゃない」少女が言った。ヘッドホンを付けているのに、僕が出す音が聞こえるようだ。「上手い上手い」


「上手くはないと思う」


「一般的な基準で計る必要はない」少女は話す。「自由にやればいいんだから」


「経済を取り払えば、うん、たしかに、そういう形態になるかもしれない」


 ピアノとギターの組み合わせはどんなものだろうと思ったが、合わせてみると案外上手く合った。というよりも、僕が奏でるそれはメロディーではないから、合わせる度合いが小さい。それが原因だろう。あらゆる飲み物を水割りにできるのと同じだ。


 音、音、音。


 音は、文字にしても、音にしても、左右対称になっている。


 バランス。


 安定。


 生命は皆ぶれているが、それでもきちんと一定のバランスを保つ。


 なんという構造。


 神様の所業としか思えない。神を信じていない者も、素晴らしいと感じるに違いない。


「音楽って、神様へのイニシエーションじゃないかな」僕は言った。「誰も聞かせる相手がいなくても、自然と奏でてしまうから」


「今は貴方がいる」少女が応える。


「僕がいなくなったら、君は演奏をやめる?」


「やめない」


「どうして?」


「自分自身に聞かせているから」


 結局のところ、神様と自分は等価なのだ。そもそも、神様が実在しない以上、それは自分の信念であって、自分が消えれば神様も消えるという理屈が成り立つ。神様は自分の心の中にしかいない。


 それでも、人々が天を仰ぐのはなぜだろう?


 もし、天と地が反転した世界だったら、人々は地を仰いだだろうか。


 すべてが均一に整った世界で、僕たちもやはり整っている。少女が奏でるピアノの音と、僕が奏でるギターの音は、綺麗に絡み合った。


 生きるとは、つまりこういうことなのだという予感が、なんとなく降りかかってくる。


 生きることに意味などない。


 初めから意味がないから、自らそれを創出することができる。


 それが芸術。


 生きるとはそういうこと。


 少女がメロディーのテンポを早くした。僕もそれに合わせようとする。合わせようとすると、不思議と合ってしまう。合わせる前は合わせられるか不安なのに、いざ合わせようとすると合う。なんという柔軟性だろうと、僕は感心してしまう。この柔軟性が、人間の、いや、生物の多様性へと繋がったのだ。


 振り返れば噴水があった。


 いつからそこにあるのか分からない。


 水が流れている。


 水の音。


 音は、常に僕たちの世界に溢れている。


 ないということはない。


 でも、音に実態はない。


 これが音だと示した次の瞬間には、もう消えてしまっている。


 それなのに、皆、音があることを知っているし、音があると信じている。


 単純なことだ。


 それは、本当にそこにあるのだから。


 理屈ではない。


 正面に向き直ると、少女はもうピアノを弾いていなかった。手を膝の上に置いて、じっと鍵盤を見つめている。どうして見つめるのか、と英語で問うたら面白いかもしれない。


「静か」


 少女が呟いた。


 僕は頷く。


 僕たちは浮いている。なんとなく、そんな感覚がある。ふわふわとしているわけでも、地面に立っているわけでもない。特異な空間というイメージは、得てしてそういう情景として人々に共有される。


 なぜだろう?


 夕日を見ると懐かしく感じられるのと同じだろうか?


 ここには空がない。


 ここが空だから。


 ここには僕と彼女しかいない。


 それが世界のすべてだから。


 もしかすると、ギターが意志を持っているかもしれない。


 ピアノが意志を持っているかもしれない。


 唐突にピアノが歩き出した。少女が座っている椅子を置いてけぼりにして、てくてくと歩いていく。


 それから、駆け回った。


 音を響かせながら。


 煩い、とは思わない。


 むしろ静かだ。


 音が鳴っているのに、静かだった。

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